第5章 その6 ルーナリシア (改)
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シャーリーことシャンイエラ王女と結婚したフィリクス・アル・エルレーンは、現在のエルレーン公の縁戚である。
本来なら、広い領地や多大な財産を保有してしかるべきだったろう。
だが、彼の家は、グーリア王国から嫁いできた曾祖母の決めた家訓に従って、二つの国の王位継承権を返上し、貴族として恥ずかしくない暮らしを最低限に維持するための、広すぎもせず狭すぎもしない程度の領地を都の近くに所有するのみだった。
二人は学院の近くに小さな邸宅を得て、そこで暮らした。
※
幸せに包まれた新婚家庭に、不穏な影が差したのは、結婚から二年後。
ある日、フィルのもとに届いた一通の手紙が、その兆しだった。
グーリア王国の現国王、ギア・バルケスからの、招待状だった。
王国の記念式典に、国外に居る親戚たちも招きたいというものだった。
シャーリーはその手紙を見たとき、思い出したことがあった。
結婚する少し前に、彼の領地を訪れ、曾祖母ルーナリシアと会ったときのことだ。
彼女はグーリア王族であるが、このエルレーンに嫁いで、王位継承権を返上している。
子供や孫、曾孫であるフィルにも同様にさせている。
エルレーン公国、その発祥の地であるレギオン王国、そしてグーリア王国。そのどちらにも血縁となる家だが、どこの勢力とも関わらずに静かに暮らしているのだ。
*
領地にある館は、貴族のものとしては異例にささやかなものだった。
しかしながらシャーリー姫にとっては、大陸北端の故国アストリードの、王の館と同じようなものだと感じられた。
館の離れに、ひっそりと、その人は暮らしているという。
訪問したフィルとシャーリーは使用人に案内されて二人は奥の部屋に向かった。
趣味のいい、派手すぎず清潔に整えられた部屋。
懐古趣味でもなく流行を追いかけるでもなく、慎ましやかで上品な、主の好みを反映した美しい部屋だった。
「ようこそ。お待ちしていましたよ」
出迎えた人を見て、シヤーリーは目をうたがった。
この人物こそ、フィリクス・アル・エルレーンの曾祖母にして、現グーリア国王の末妹であるルーナリシア・バルケス・エルレーン。
ゆうに二百歳は越えているはずだった。
が、目の前の女性は、とうていそう思えないほど若々しく瑞々しい。
グーリア人ならば、ことに王族ならばなおのこと、とうに皮膚は硬化し暗灰色の肌色になっているはずだし、この高齢なら身体の動きが相当、不自由になっていてもおかしくない。
シャーリーの驚きを見て取り、ルーナリシアは白い百合のようにたおやかに微笑む。
「あなた方はこう思っているでしょうね。なぜ老女であるはずのこの人はいまだ若いのだろうと。疑問も無理からぬことです。それには理由があります」
つもる話はあとから、と、二人を部屋の中にうながす。
小間使いが茶を運んで来たあとは、誰も奥の部屋には来させないようにと人払いをして遠ざけた。
「わたしは、ごく若い頃のことですが、このエルレーンに留学するために旅をして、やってきました。その途中、不思議な体験をしたのです。信じがたいでしょうが……」
「どうか、お聞かせください」
ルーナリシアはエルレーン国立学院に留学するため、護衛の従者二人を伴い、王室が手配した二頭立ての馬車に乗ってグーリアを出立したという。
グーリアとエルレーンの国境にそろそろ到達しようという頃、とある事件があったという。
「乗っていた馬車が、突然、停まったのです。従者が二人いましたが、様子を見に出て行って、外で怒号や馬のいななきが聞こえて、急に、しんと静まりかえったのです。何時間も経過しました。怖くて、じっとしていましたわ。でも耐えられなくなって馬車を降りてみると……誰もいませんでした。おまけに、馬までもいなくなっていたのです」
シャーリーは息を呑んだ。
「つながれていた器具は、鋭い刃物で断ち切られたように見えました。血のにおいがあたりに満ちていました。そこは深い森の中で、光さえ差さず……茫然としていましたら、突然、いなくなっていた二人の従者があらわれ、長い剣を手にして、斬りかかってきました。それで、わたくしは必死で逃げ出したのです」
「そんなことが!」
叫んだのはフィリクスだった。
彼もこの話は初めて聞いたのだった。
「従者だけではなく、他にも何人かの、武装した男たちがいました。懸命に逃げましたが、すぐに追いつかれて、囲まれました。わたくしは死ぬのだと悟りました」
金品目当ての強盗などではなかった。
彼女は淡々として語った。
彼らは、もともと、途中で彼女を殺すために同行してきたのだ。
どうせもう殺すのだからと、
王の命令だと、嬉々として暴露したという。
貴族には恨みがあると言っていた。
身を守るすべもなかった。
襲いかかる二人の剣が、胸を貫いた。
はっきりと覚えているのは、噴き出た血の鮮やかさ。
噴き出て身体に降りかかった血は、暖かいのだと、感じたこと。
痛みは、なぜか覚えていない。
何度も切り裂かれ、蹴られ、腹を踏みつけられた。
そのうちに寒くて、目の前が暗くなった。
ただそれだけだった。
「わたくしは殺されたのです」
殺されたのに、ここにいるのはおかしいですよね、と。微笑を浮かべ、ルーナリシアは続ける。
「気がついたとき、わたくしは森の中に、仰向けに横たわっていました。身体は全く動かなくて、ええ、指先さえ、ぴくりとも動かせなかった」
不思議に思ったのは、周囲が明るかったことだった。
「本来、陽の光さえ届かないような深い森の中なのに。そして、柔らかいものに包まれているような感じがしたのです。わたくしを包んでいたのは……それは」
精霊火だった。
おびただしい数の精霊火が彼女を覆っていた。
熱も感触もない、柔らかな、光の球。
光の河の中で、ルーナリシアは心が静まるのを感じた。
恐怖も苦しみも、裏切られた悲しみからも解き放たれて。
けれど、同時に、相反する感情があった。
誰にも知られずに自分は死んでいくのだ。
どこかへ沈んでいく。
何も残せずに。
無力感だけがあった。
急に、さまざまな感情がいっときにあふれ出してきた。
悲しかった。
悔しかった。
苦しかった。
心が軋む。歪む。叫ぶ。
死にたくない!
自分という存在が、このまま消えてしまうのが、つらかった。
すると、そのとき……。
「声が聞こえたのです。信じられないでしょうけど、光の中から、声が。女の子でした。まだ幼い……声は、こう言ったの。あなたはもう死んだ、と」
少女の声が、ルーナリシアの胸の中で響いた。
「執着を離れて、身体は土に、魂は世界の夢に、還っていくのだと。そう言われたけれど、わたくしは、従えなかったの。すると、その子は、困ったように、笑ったわ」
もはやフィリクスもシャーリーも、言葉を失っていた。
声もなく、息をつめて、ルーナリシアの体験に聞き入るばかりだ。
「そして、こう言った……」
死んでなお、妄執から離れられないなら、あなたは世界を呪う毒になる。
それは困るから。
生き返らせてあげてもいい。
ただ、あなたの血はほとんど流れ出して失われている。
かわりのものを入れてもいいなら、生ある者の世界に帰してもいい。
「もちろん同意したわ」
すると、身体じゅうの傷口から、精霊火が入ってきたのだという。
氷のようだった身体が急激に温まって、みるみる傷口がふさがっていった。
殺されたときの傷口は全て消えて、真新しく再生された皮膚になっていた。
服がぼろぼろになっているのが、唯一の、暗殺事件の痕跡だった。
「起き上がると、目の前に、十歳くらいの少女がいたの。きれいな子だった。でもふつうの子ではなかった」
淡い水色を帯びた銀色の長い髪と、水精石色の、明るい瞳。
精霊の色だ。
「グーリアの血は流れ出てしまった。精霊の火が、あなたを生かす。あなたはグーリア人であってグーリアではない。半分は精霊だから、普通に寿命がきて死ぬことはない。全てを見届けるまで。……こう言ったの」
『これはあなたと、精霊との約束。誰にでも話してよいが、信じてはもらえないだろう』
少女は、かき消すようにいなくなった。
「今でもよく覚えているわ。消える前に彼女は、『虹』と名乗った。それから、わたしは森を彷徨っていたの。そのとき、森で狩りをなさっていた、あの人に助けてもらったの。後にわたしの夫となったフィリクス、エルレーン公よ。エルレーン公国へ連れて行ってくれたのです」
自分は生まれ変わったのだと、ルーナリシアはしみじみと言った。
「あの人が亡くなって、まだ自分が生きているのは辛かった。だから都から屋敷を引き払ったの。いつまで生きるのかはわからない。だから、こっそり暮らしているの。ここで、ずっとあなたたちを見守っていますよ」
シャーリーは、フィリクスに貰った婚約指輪を、彼女に見せた。
ルーナリシアは非常に喜んだ。
「まあ懐かしい! この指輪。夫が選んでくれたのよ」
「お曾祖母さま。あなたと同じ名前の石ですね」
「そうよ、そう言っていたわ」
懐かしさに目を細めていたルーナリシアは、再び、表情を硬くした。
「そうだわ、伝えたいことがあったの。忘れないで。あなたたちは、決してグーリア王国に近づいてはなりません。王家は呪われているの。その最たるものが、国王なのです」
彼女がエルレーン公国にたどり着いて学生となり、助けてくれた夫と結婚してからの数年間で、故国グーリア王国にいた、ルーナリシアの親族たちはすべて死んだ。
事故、病死、不審な死が相次いだ。
そして、現国王、ギア・バルケスだけが生き残り、王位に在り続けている。
「呪われた家系だと人は噂するのですよ。五十年前やっと授かったギアの王子も、一歳のお披露目をする前に、王妃ともどもに事故死したのですから」
でも。
「ギア・バルケスは、王家の傍系の血筋でした。更に六人の兄がいて、王位継承権はかなり下でした。腹違いの兄である王太子や親戚たちを次々に謀殺して王位についたのだと、黒い噂が絶えませんでした。もしや自分の息子まで邪魔になったのだろうかと、わたくしは、心底、恐ろしくなったのです。留学を口実にエルレーンにやってきたのも、死にたくなかったから。決して、グーリアには二度と帰るまいと決めて、すべて捨てたのです」
このとき、シャーリーとフィリクスは、家系の祖である彼女に誓った。
今後とも絶対にグーリア王家には関わらない。
全力で逃げます、と。
*
グーリア王からの招待についてシャーリーとフィリクスは話し合った。
曾祖母の強い勧めもあってグーリア王国記念式典への招待は辞退することに決めた。
……それで、逃れられたつもりでいたのだった。
*
北のアストリード王国に、このときすでにグーリアの軍が侵攻していたことを、まだ、エルレーン公国の誰も知らない。
ただ、大陸各地に放たれていた巡礼たちと、聖堂の最高位にある教主のみが、情勢の変化を最も早く知ることとなった。
(第5章 終)
シャーリーとフィリクスの過去の話は、ここで終わります。
読んでくださって、本当にありがとうございます。
2016/01/31 解投稿。




