プロローグ (0話)(改)
プロローグ
かつて白き太陽神の加護を受けし古き園あり。長きにわたる繁栄を享受し人々は天地に満ちる。なれどやがて人々は堕落し神々の怒りに触れ、天空の彼方より来たりし神々の矢に大地はえぐられ、深き亀裂より熱した血を噴き出したり。人々が呼吸するごとに大気は肺を蝕み、赤く逆巻く海の水は血を毒する。
先人の罪を贖うために生まれたる、幼き咎人たちを哀れみしは夜と死を支配する真月の女神。その白き腕に咎人たちを抱き、虚ろの空の大海を渡りぬ。
*
南北に細長いエナンデリア大陸の東側と西側には、二つの山脈が連なっている。
西の海岸沿いに南北に延びているのは万年雪を頂いた山脈、白き女神の座ルミナレス。
一方、東側にあるのは、活火山系があるため真冬でも雪を被ることのない黒き峰、夜の神の座ソンブラだ。
大陸を南下した海岸に面する国、サウダージ共和国。
首都ルイエ市から東南へ徒歩で約四日の距離にある湾に、ペレヒリという小さな港町がある。古くから栄えてきた漁港があり、海に迫る山肌には森が広がっていた。
しとしとと雨が降っている。雨足は強まりこそすれ、いっこうに止む気配はない。
漁港を見下ろす丘に、背の高い、やせた男がたたずんでいた。
青年というには少し難があるが、中年という程の年齢でもない。赤褐色の髪と茶色の目だ。肌は日に焼けていた。
目の粗い麻布の外套をまとっている。灰色の布地はすっかり弱り、砂ぼこりにまみれて、男がかなりの長旅をしてきたことをうかがわせる。
男の足下に、深い穴があった。
穴は半円形で、街の半分ほどが入ってしまうほど大きく、穴のふちや底の土は、高熱で焼かれたように黒く焦げて堅くなっていた。
穴の底には降り続く雨が貯まり始めていた。
そして周囲、見渡すかぎりは木々も畑であっただろうところの植物も、すべてが燃え尽きて灰となっている。
「こいつはまた、えらいことだな」
身を乗り出して穴をのぞき込み、つぶやいた。
「また、お会いしましたね。覚者ケイオン殿」
ケイオンと呼ばれた男が振り返ると、彼の背後に、若い女性が微笑んでいた。
女は深紅の髪と暗赤色の瞳をして、光沢のある飾りのない白い服に身を包んでいる。その髪も服も、降り続く雨にもかかわらずまったく濡れてはいない。
「奇妙な事件の起こった場所で、よくお見かけいたしますこと」
「偶然だ。これほどの災害が起これば、離れた場所からでも何らかの異変が生じたことくらいは検知できる。ちょっとした好奇心で見に来てみただけだ」
ケイオンは褐色の目の上に被さったぼさぼさのレンガ色の髪をかきむしった。
「おれは覚者じゃない、セラニス殿。昔はそうだったこともあるが今は一介の巡礼にすぎない。そのおれと行く先々でよく出会うというのは、そちらこそどういうつもりだ」
赤い髪の女、整いすぎるほどに完璧な美貌に、謎めいた笑みが浮かぶ。
「いいえ何の意図も。ですが強いて申し上げればわたくしはこの大陸全体で何が起こっているのかを調査し、我が主に報告する任務を帯びておりますので」
セラニスは親しげに続ける。
「ところで、いかがですか、検討してくださいました?」
「あんたの主からの誘いか?」
「ええ。そろそろ薄情なエルレーン公国など見限り、我が君ミリヤ様にお仕えなさいませんか。生活の心配のない財政的援助および半永久的な延齢をお約束します」
「金は魅力だが、長寿はすでに得ている。それほどいいもんでもないしな」
ケイオンはため息をついた。
「考えさせてくれ」
「ごゆるりと。われわれには時間はたっぷりあるのですから。ところで、ケイオン殿は、これをどうお考えです?」
「サウダージ行政府の高官が一介の巡礼に尋ねるか?」
ぶつぶつ言いながらもケイオンは考え込みながら答える。
「港のあちこちには闇の魔道の痕跡が濃く残っている。だが、この穴は、そうではない。もっと、自然に近い強い力が働いたようだ…しかし、それは」
そうつぶやいた、彼の髪の色が、みるみる変わっていく。青みを帯びた銀色、目の色はごく薄い、水のような青色に。
「エルレーンの魔法ではない…グーリアのねじ曲げられた魔道でもない。むしろ、精霊…セレナンとの融合で生じた…自然界の」
長い歳月に晒されたかのような、表情のない淡い目だった。
「精霊と契約する者が、まだ、いたのか…」
彼は目を閉じ、何かに…かすかな音、精霊の言葉に耳をそばだてているかのようだ。
セラニスは興味深げに見ていたが、突然、顔を上げる。そして遠くを見るような目をして言った。
「もっと詳しくお話を伺いたいところですが、急用ができました。残念です。それではまたいずれどこかでお会いしましょう。ケイオン殿、もう一人の御方にも」
次の瞬間には、彼女の姿は消えていた。
一人残ったケイオンは苦笑して、肩をすくめた。
「振られたか。おれはやっぱり、赤毛の女とは相性が悪いみたいだ」
そして、山のほうへ顔を向けた。
「……近いな。誰かが……助けを求めているのか?」
*
サウダージ共和国の首都ルイエから北へ徒歩で一日の距離に、人口の湖がある。
そこに建造された浮島の名前をルファーという。この国の実質的な政治の中枢である。
ここには、サウダージの奇跡とたたえられる国家元首、ミリヤが居住している。
彼女はここ数十年、側近の前にしか姿を現していない。
政府関係者でも、ごく限られた者しか、国家元首の居住する建物にも、ルファーにも、立ち入ることは許されていない。
国家元首の部屋の一室。
円筒状の部屋の壁に作り付けた書架は天井まで棚が並び、おびただしい数の書籍が収まっている。その三分の一ほどはいかにも古びた既に羊皮紙の束などだ。
書架の前には可動式の床があって書き物机と椅子が乗っている。布張りの椅子には一人の少女が座って本に向かっている。
一階に一カ所だけ設けられた入り口から、少女に声をかけた者がいた。
「ミリヤ様! こちらにおいでと伺って参りました」
少女は手元に広げていた羊皮紙の束から顔を上げた。入り口に立って見上げている男にちらりと目をやり、眉をひそめる。
三十代半ば、精悍な男性である。焦茶色の髪、鋭い黒い目。入念に晒された白い亜麻のシャツ、柔らかな高地産山羊の毛織りの上着。人々の生活水準が高いサウダージ共和国においても高価な衣類をまとっている。だが、常に春のように温度、湿度を管理されているこのルファーにおいては、少々暑そうだ。
「ルイエ市管理官マルロー。なぜここへ来た」
少女は羊皮紙に手を置いたままで、不機嫌そうだ。
「このたび管理官を拝命致し、ご挨拶に参りました。……もっともそれは口実でして、真月の女神の守護を受け、永遠を体現されるお方、ミリヤ様に、ひとめお目にかかれたらと思いまして」
男のにこやかな笑顔の懇願に、少女は冷淡な言葉で返した。
「このルファー全体が、許可無くしては立ち入り禁止であることを知らないはずはないが? すみやかに退出されるがよい。あなたの任地ルイエ市を離れてまでの用があるというならば、正式な手続きを経て接見に来られよ」
「つれないお言葉。ミリヤ様は神秘のヴェールに包まれておられる。唯一、お目にかかれる機会である満月祭での謁見でも、おそばには寄れず遠くからお姿を拝めるだけ。国民の中には、本当に実在するのかどうか疑わしいという者さえおります。ですがわたくしは本日、その噂が根も葉もないことを確信致しました」
マルローはその場にひれ伏した。
だが、ミリヤの心を動かすには至らなかった。
「構わない。言わせておけ。実質、民の生活に密着したまつりごとは、あなた方、議会が行っているのだし。好奇心が満たされたなら帰るがよい」
期待が外れたものの、想定内であるらしく、マルローは笑顔のまま。
「いえ、そういう意味では……じつは、大変に重要なご報告がございます。お耳を拝借できますれば」
もの柔らかな口調で言いながら、そっとあたりに目を配る。
「もしも許されますならば、もう少しおそばに寄らせてください」
しかし少女は厳しくそれをはねつけた。
「無駄だ。こちらへの通路はない。それくらいの防護策はとっている。前に殺されかけて懲りた」
すると男は大げさに肩をすくめ、身震いをしてみせた。
「なんと恐ろしい! ミリヤ様を害するなど、思う者がおりましょうか」
「何人もいた。現に、そのひとりはあなたの祖父だ」
冷ややかに言い放ち、少女は羊皮紙の束を棚に戻した。
「この書庫で保管している古文書は一代の人間よりも重要なものだ。だが、あなたが手にしたところでこれらの情報の真の意味を知ることはできない」
少女の外見は十五、六歳。
肩で切りそろえた短い髪は真月の女神の恩寵のしるしの金色で、夜空のような群青の瞳によく映える。
「あなたの曾祖父の取り返しのつかない失態をわたしは今でもよく覚えている。彼からすべての公職を剥奪したというのに、よくぞ曾孫であるあなたは今の地位までのぼってこれたものだ」
「祖父と曾祖父にかわりお詫び申し上げます。償いのため我が国に尽くす所存で公僕になりました。何とぞお聞き届けください。グーリアの魔道者がルイエ市近郊の町に侵入し、破壊工作をしております」
マルローは胸もとから亜麻のハンカチを取り出し、額に浮いた汗を押さえた。
「わきまえていただきたい、マルロー管理官」
男の背後にほっそりした影が立った。先ほどまではいなかった人物である。
華奢な身体に光沢のある白い衣をまとった青年だった。肩に届く深紅の髪に、暗赤色の瞳をしている。
背後に急に人物が現れたことにマルローは動じない。予想していたかのようだ。
「これはセラニス殿。失礼をつかまつりました。急遽まかり出ましたため書類手続きをうっかり…」
「グーリアの忌まわしい魔道の者どもに、ペレヒリという港町が奇襲を受け焼き払われたことなら、すでに把握し、調査中です」
セラニスと呼ばれた人物は、中性的な美貌に、不快感をあらわにした。
首都管理官マルローは上位高官であるセラニスに対し、床にひざまずき、体を折り、額を床にすりつける姿勢で応えた。
「グーリア王国の脅威をひしひしと感じておりましたので、いらぬ心配をしてしまいました。お詫び申し上げます。ミリヤ様のご威光で、我が国に長く繁栄のあらんことを…」
「本当にそう思っているのか?」
ミリヤが鋭く言う。
「あなた様の前で偽りなど、無意味にございます」
管理官は床に額をつけたままうやうやしく言う。
だがミリヤの表情は変わらない。
「……感心したぞ。生まれながら、息をするように嘘をつく者もいるのだな。グーリアの件は案ずるな。我が国に対しておおっぴらに侵攻するほど、かの王も愚かではない。わたしからグーリア王に厳重な抗議をしておく。事件の調査はルファーで進める。もし追って報告すべき事柄があれば、まずセラニスに伝えるように」
そして、尊大な様子で右手をひらひらと振る。
「下がりなさい、マルロー首都管理官。行って、あなたのなすべきことを果たしなさい」
「承知いたしました」
マルローはしぶしぶ立ち上がり、入ってきた扉から出ていく。
彼の背中が見えなくなると、ミリヤは鋭く言う。
「セラニス。マルローにアンカーは?」
「もちろん。彼の行動は追尾して記録してあります」
「……今のところは怪しい動きはないようだが。なぜ国民議会はあれを首都管理官などに選出したのだろう」
首をかしげるミリヤにセラニスが近づいて、答えた。
「民衆はつねに暗愚で、騙されやすいものです」
「民が愚かな選択を繰り返すなら議会制などとらなければよかったかもしれないな」
再び、ミリヤは眉根を寄せた。
「ところでケイオン殿は、転職を考えてくれそうかな?」
「お誘いはしましたが」
この部屋に現れてから初めて、セラニスの顔に笑みが浮かぶ。
「やはり、つれない返事か」
ミリヤも穏やかに笑う。
「我々は、あの男には借りがある。セレナンの意思に直接の接触が可能な人物というだけではなく……それにつけても惜しい。五十年前、ルナル家の末娘ルースは『魔眼』の王になるべく生まれた者だったのに。マルローの曾祖父は深い事情を知らぬまま、他国に『魔眼』の力を奪われると恐れて画策をしたのだ。愛国心といえば聞こえはいいが、しょせんは保身のためだ」
かすかに、ため息。
「それもまた運命ならばいたしかたないこと。いずれは次の後継者があらわれる」
ミリヤは羊皮紙の束に手を滑らせる。
「ごらん、セラニス。これは三百年前に、当時の口承の歴史を書き留めさせたもの。この時点で、もうかなり真実から離れてしまっているけれど、現在ではさらに歴史の風化や改ざんが行われている。いかにたやすく人の記憶がゆがめられ、すりかえられるものか、よい見本だ。だが、その中にも真実のかけらが奥ゆかしく潜んでいる……」
机に置かれているのは、古びた羊皮紙に描かれた地図だった。
「ミリヤ様、何をごらんになっておられます?」
「古い地図だ。大陸北端にアステルの都。都とはいっても元は聖域、修道士の拓いた土地だから、領土はこの都の周辺だけだけれど。中央部にはノスタルヒアス王国。ここは現在はレギオン王国と名前を変えている。南にグーリア王国。現在では、この地図が製作された時代よりも、領土をかなり拡大している。西にはエルレーン公国、東南の海岸部にはサウダージ共和国。たったこれだけの土地の上で覇権を争うとは……いつになってもおもしろいものね……人は…」
たおやかに少女は微笑む。
「マルロー管理官には、セラニス、あなたが青年に見えていた。覚者殿は、赤毛の美女だと見ている。それほどに、人の知覚はあてにならない…」
傍らにセラニスを招く。
ミリヤの傍らに立つのは十代半ばくらいの、男性とも思え、女性とも思える子どもだった。その頭に手を置いて、深紅の髪を撫でる。
「待っておいで、愛しい養い子、セラニス・アレム・ダル。このわたしが、必ずあなたにふさわしい王を見つけてあげる」
*
セラニスと別れた後、ケイオンは雨の中を歩いていた。
ペレヒリの港町から裏手にあたる深い森へと続く小道がある。
そこを通って、街道へと抜けることができる。
「助けを呼んでいるのは……ここらあたりと思ったが」
ふと、足を止めた。
目の端に金色の光が見えた。
光に誘われるままに森の中の小さな空き地に行ってみると何かが落ちていた。麻布をまるめたようなものだ。
よくみるとそれは、子供だった。
まだ十歳になっていないと思われる男の子が身体をまるめ、泥にまみれ、ぼろぼろの様子で倒れている。
最初、死んでいるのではと思い、肩に触ってみて驚いた。かなり長時間の雨に打たれているだろうと思ったのに、まったく、ぬれていない。
短い銀色の髪も、色の白い顔も、触れると、まだぬくもりがある。
「この子ひとりか? 親は、どうしたんだ」
また、光が目に入った。
顔を上げると、目の前に、金色の炎があった。
子供の上に覆い被さるような形で、空中に浮かんでいる。
炎は、ひとときもとどまらずゆるやかに形を変えていく。一瞬、女性の姿に見えた。
「守護精霊か?」
ケイオンは驚いた。このご時世、ことに技術が重んじられ魔法が公認されていないサウダージ共和国において、精霊の守護を受けるものを見受けることは、まずない。
「この街の唯一の生き残り…それとも、今回のことは、この子供が…原因…なんてことは、ないよなあ」
困ったように、息を吐いて、彼は子供の身体を持ち上げた。
黄金色の炎が、ケイオンの身体をとりまき、ゆらゆらと揺れる。
「心配するな。なんとか、助けるさ…」
ケイオンは炎に語りかける。
雨は、いつまでも降り止まない。