第5章 その2 旅する星 (改)
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静かな夜だった。
大陸東部、中央より少し南に位置する、深い森の中。
静かだった。
灯火は一つもなく、ただ月光が降り注ぐ。
森の中を切り開いたものだろうか、木々はなく短い草葉が柔らかに茂っている、草の原がひとつ。
上弦の真月のもと、月光を浴びるように両手を上にさしのべている、一つの人影がある。
春先とはいえ纏っているのは山繭からとられた微かに黄色みを帯びた絹布でつくられた、薄手の、飾り気のない膝下まで覆う長衣のみで、足には何も履いてはいない。華奢な肩に、同じ絹布の、柔らかな細長い布をかけている。
背中に波打つ、豊かな赤毛。
十代の半ばか、前半と思われる少女である。
子どものような幼さが、面差しに残っている。
細い身体が、ゆらりと傾ぐ。
右手にいくつかの鈴を束ねたものを提げている。少女が動くたび、小さな澄んだ音が鳴る。くるりくるり、両手を肩の高さに上げて、ゆるやかに旋回し、踊る。
張り詰めた表情で、若葉色の大きな瞳は、真月の銀色の光が少女の足元に投げかける闇を見据え、音もなく旋回しつづける。
飾り気のない絹の衣と肩布は、この踊りのためのものなのだろう。
ふいに、赤毛の少女は、動きを止めた。
どこからか、手を叩く音が響いたのだ。
「……また、そなたか」
固い表情で、空を仰ぐ。
中空に、若い女の姿が浮かんでいた。
月光を背にして浮かぶ女の、けれどもその下には影などまったくない。
光が透過しているのだ。
赤毛の少女の、ほぼ肩のあたりに、女のほそい足先がある。
まるで幻のような女。
彼女がその気になれば、まったく重さも感じさせずに、赤毛の少女の肩に乗ることもできるだろう。
しなやかな細身の腰まで覆う、真っ直ぐな深紅の髪、暗赤色の瞳が、青白く見えるほどに白い肌に、よく映える。
幼い少女の髪が炎のような激しい熱い赤ならば、その若い女の髪と瞳は、暗い空に張り付く「魔眼」にも似た、噴き出る血の色だった。
優しげな微笑みをたたえて、女は言う。
「こんな静かな良い夜に、あなたの至上なる美しき姿を見るのが 暗き空に宿る月星だけでは、なんとももったいないではないですか。水晶の王女さま」
王女と呼ばれ、不本意そうに少女は眉根を寄せた。
「世辞なら要らぬ。そんな無駄な褒め言葉は誰か他の者に言ってやればよい」
くすり、と若い女は苦笑する。
「相変わらずのご気性ですこと。だから、あなたは面白い」
女は言い、また、楽しげに笑う。
少女は「こっちは面白くもなんともない」と、髪を振り立てた。
自分では鏡に向かうこともしない、乱れた赤い髪に櫛もあまり当てないのだ。
この「水晶の谷」で、少女は余人の触れることのかなわぬ、神の化身ゆえに、自身が望まぬならば人をも寄せ付けぬ。
「言葉を飾り立ててどうなさる? 女神のごとき天空の使者よ。そこらの男どもならば、そなたのような美人に優しき声音で囁かれでもすれば、天にも昇る心持ちだろうが」
男ども、という言葉には、少々、棘がある。
だが不機嫌な少女の物言いに、宙に浮かんだ女は、ただ楽しげに笑うだけ。
「これは真月に捧げるだけの奉納舞い。誰が見るとも、見ずとも、関係の無いこと。それよりも、そなたは、いつも、いったいどこから来ている? どう見ても、この近くの者とは思えぬ、なのに」
少女は手を伸ばしたが、幻の女には届かない。
するりと逃げて、女は笑う。
「わたしが興味あるのはあなただけ、チャスカ」
もちろん少女、チャスカには、女に名前を教えた覚えはない。
「名乗ったこともないわたしの名前を知っているくらいで、今さら驚きはしない。この水晶の谷でわたしのことを知らぬ者はいないのだ」
「ええ、そうね。力ある、《旅する星》の名を持つ巫女よ。わたしは多くを知っているわ。そんなにも自由を渇望しているあなたにも、ただ一つ、思い通りにいかないことがあるということも」
「黙れ! そなたに何がわかる」
「わかるの。だって、わたしたちは、月は、昔からなんでも知っているのよ」
「黙れ……!」
神話の時代にまで遡る古い歴史を持つ、「水晶の谷」の女王となるべく生まれ育ち、ことし十二歳になったばかりのチャスカは、肩に掛けた布をひらひらと振り回し、両手で目を覆った。
「違う違う違う! わたしは自由だ……」
「ええ、限られた囲いの中でね」
静かにして、容赦のない声が断じる。
「誰にも強要されることなどないはずの貴き巫女の王女様。たった一つ、思い通りにならないのは、将来の夫選び」
言われて少女は唇を噛み、拳を握りしめる。振り立てた赤い髪が逆立つ。
「チャスカ、代々受け継がれてきた生き神であり巫女にして、王女であるあなたは、谷のために子孫を残さねばならず、夫となる者は、太古より定められた血筋の者でなければならなかった」
「黙れ!」
チャスカは顔を上げ、炎のような瞳で、女を見上げた。
いつの間にか女は降りてきて、もう、足先がほんのわずか浮いているだけだ。
いたずらを思いついた子供のような女の目を見る、チャスカは、ふと浮かんできた疑念を口にした。
「そなたはいま……「わたしたち、月」と言ったな?」
「ええ、わたしは真月の女神の養い子だから」
「どういうことだ?」
「あなたが信じるも信じないも構わないけれど。それより、わたし、あなたに交渉を持ちかけにきたの!」
交渉か、と、王女は頷いた。
そういうことなら、少しは話がわかる。
小なりといえども「水晶の谷」は、西にエルレーン公国、南にグーリア王国という二大国に挟まれながらも誇り高く独立を保ってきた国家である。
どこかは知らぬが、国交を結ぼうという使者なのだろう。
「政治的外交のことなら、日を改めて、次は昼間に、我が神殿に来られよ。政務は、……わたしよりも、わが許婿の担当であるゆえ」
「違うの」
女は大きく手を振って打ち消す。
「わたしはあなたをお誘いにきたのよ。ねえ、この谷を出てみない! わたしと一緒に!」
「はぁ!?」
おまえはバカか、という言葉を、かろうじてチャスカは呑み込んだ。
相手が他国の使者ならば、下手をして外交問題にでもなっては困る。
だが女はチャスカの思惑など知らぬふうに屈託なく笑う。
「ねえ、旅に出ましょうよ。あなたがまだ見たことのない国、ふしぎな景色を観るの。……そして、そしてね、留学するの! エルレーン公国に、すてきな寄宿学校があるのよ。そこでわたしたち、友だちをつくるの。きっと、楽しいわ……」
「もしやそれは、我らはもう友だちであるという意味で言ってるのかな?」
気を取り直したチャスカがいま少し詳しく問いただしてみれば、決して悪い話ではなかった。
谷から一度も出たことのない、もしかすれば一生、どこにも出かけていくことなどあり得ない運命だったチャスカを、友だちとして一緒に旅に誘い山し、大陸西部にあるエルレーン公国の学園に留学しようという。
身元保証人は自分の養母がなる。学院へ通うにも後ろ盾になって実現させるという。
養母は、どこかの国の、政治的権力を行使できる立場にある者だそうだ。
「わたしはありがたいが、そなたたちに何の得がある?」
「それは、ね」
女はチャスカに飛びついた。
「ず~っと、あなたと友だちになりたかったの」
チャスカには、頷けない。
「わたしのどこが気に入ったのだ? 乱暴だし身だしなみは…ええと、いい加減だし、細やかに気遣ったりできないぞ!」
「だって……あなたも、ずっとひとりだったから、だわ」
そう言った女の顔はひどく寂しげだった。
チャスカは焦った。
自分はもうすでにこの赤い髪の女に肩入れをする気分になっていると、気がついて。
「しかし条件がある」
チャスカは生真面目な顔で言う。
「何かしら? 教えて教えて! 何でも聞くわ」
「では、そなたの名前を教えろ。そちらはわたしを知っているのに、不公平だ」
そうだったわね、と、クスクス笑い。
「わたしは、セラニスというの」
「セラ…ニス?」
「セラニス・アレム・ダル。……ごく僅かの人にだけど、赤い魔女とかセラニアと呼ばれてたことも、あったかな? でも、あなたから呼ばれるのはね、セラニスがいいわ! お願い、そう呼んでくださらない?」
白い肌に鮮やかに映える血のような赤い髪、魔眼の月を思わせる暗赤色の瞳をした女は、そう言った。
5月8日、 改稿しました。
2016/01/30、改稿しました。




