第4章 その5 再会(改)
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『ここまで王に知られずに来たものと思っているのであろう?』
左腕に卵ほどの大きさの白い石を埋め込んだ魔導士が嘲笑う。
『ところが、そのすべては全知全能なるグーリア王バルケス陛下の思し召しであったのだ』
右の掌に石を埋めた魔導士が続ける。
『そうとも、おまえをこの都へ呼び寄せるため』
『ご自分のものであるおまえを再び取り戻すために、泳がせて居られたのだ』
各々、本来なら右目と左目のあるべき場所、片目ずつに石を埋めた、残り二人の魔導士が、ジークリートを指して言った。
ジークリートの端正な顔に動揺の色はない。
その右手の先に黄金色の炎が燃えつく。
炎はまだキールにも酒場の女にも見えない。スーリヤだけがジークリートのまとう炎を見て息を呑む。
「なんだと……」
キールがうなる。
やつらの話すグーリア語の意味が、以前にこの魔導士たちに出会った時には理解できなかったものが、今ならはっきりとわかるのだ。
『おれたちのことをずっと前から知っていて、放っておいた? 馬鹿にしやがって!』
キールは背中に負った《牙》を抜き放つ。
闇の中に、細く白い真月が昇ったかのように、《牙》の刀身が、微かに光を宿す。
「ちょっと待って……! ねえ、部屋を汚さないでよ」
腰が抜けたみたいにへたりこんだままの、酒場の女が叫ぶ。
「ああ? 今さら、これ以上汚れる心配もないだろう」
キールは呆れ、女をちらと見る。
その瞬間、女の顔が、恐怖に引きつる。
「あんた! 前っ!」
女の警告にハッと前を見る。
そこに、魔導士の顔があった。
ぽっかりと空虚に開いた唇のない口から、闇色の塊が、ぷよぷよと震えながら出ようとしている。それはあたかも真っ黒なゼリーで、いかにも柔らかく弾力がありそうだった。
キールは《牙》を握りしめ、触れるのもおぞましい目の前の顔に叩きつける。骨の顔は砕け散り、黒衣は音もなく床に落ちて溶けた。
「きゃあああっ!」
女の悲鳴が耳に突き刺さる。
床から立ち上がった黒い衣だけが、酒場の女に近づいていく。
女はすくんで動けない。
スーリヤが駆け寄り、女の手を掴み、床から引き剥がした。
反動で女は転がり、スーリヤはその反対側に倒れる。
倒れたスーリヤに、魔導士の黒衣が覆いかぶさる。
黒衣はそのまま闇色の塊となって少女を飲み込んだ。
「スーリヤ!」
キールは我を忘れて、妹を飲み込んだ闇の塊に駆けより、《牙》を振り上げた。
『われを切るのか? よせよせ、おまえの妹も一緒に切れてしまうぞ』
低い、あざけりの声が響く。
「くそっ!」
「キール、離れろ!」
ジークリートが叫ぶ。
彼らしくもないほど、動揺しているのがわかる。
《グルオンシュカ……! 我が右手に宿りて力を成せ》
右の手を差し上げて、彼を守護する炎霊の王の名を呼ぶ。金色の炎が、高く燃え上がる。猛々しい戦神のように炎がたぎる。
『無駄だ、我らを焼きつくしたとしても、もはやあの娘は取り返すこと能わず』
黒衣の魔導士たちの姿は闇に溶け、部屋の四隅によどむ影と同化していた。
『取り返したくば王宮へ来い。黒曜宮へ』
『その、ふがいない兄と共にでも』
『おまえはまた、身近な者も守れなかったな……』
嘲笑が部屋にこだまする。
『待っているぞ! 待ちわびているぞ! 早く来るがいい、我らがバルケス陛下のもとへ』
声は最後にそう言い残して、消えた。
あとには、ただ、床の上に、胴を二つに切り離された男の骸があるばかりだ。
床にくずおれていた酒場の女が、茫然として呟く。
「あたしがバカだったんだ……こんな男を助けようなんて……」
女は、震える手を死骸に伸ばす。
「危ない! 触ってはいけない!」
ふいに、聞き覚えのない男の声が警告を叫んだ。
女は驚いて手を引っ込める。
声は、戸口の方からしたのだった。
見ると、背の高い一人の男がそこに立っていた。
『何者だ? あんたは』
グーリア語でキールが聞く。
男は、答えない。
息を切らせて、大きく、肩で息をしているので、答えるどころではない様子だった。ここまで全力で走ってきたようだ。
砂埃まみれの旅衣をまとい、古びた木の杖を持った、三十歳ぐらいの男だ。粗末な身なりと言ってよい。
髪はぐしゃぐしゃに乱れて、赤毛混じりの茶褐色だ。
変わった印象を受けるのは、その、目だった。
右目は茶色、左目のほうはほとんど色のない淡い青なのだ。
まるで水精石のような。
『わたしは怪しい者じゃない。そう見えるだろうけど。ああ、奴等は行ってしまったんだな……』
落胆したように、男はつぶやいた。
『だが、その骸には触ってはいけない。まだ魔力が残っているんだ、仕掛けられた罠が』
男が用心深く死体に触れた途端、黒い蒸気が勢いよく噴き出てきた。
蒸気は形を変え、闇色の毛に覆われた六本足の獣になる。
獣は人間の倍ぐらいの大きさ、火山の火口のように真っ赤な口を開け襲いかかる。
男はみすぼらしい木の杖をかざし、
〈セファト・イム・イル・エルク……〉
そんなふうに聞こえる呪文を唱える。
杖の先に、青白い光が宿る。
光ははじけて、細く蒼い稲妻でできた網となり、闇の獣を捕らえた。
獣を捕らえると、稲妻の檻は縮んでいき、男の手に乗るほどの光の球に、そして小さな珠へと変わっていく。
鈍く光る珠を懐に入れ、男は振り向いた。
その眉間に、縦に裂いたような傷が開いて、血が流れ出ている。
『怪我をしたの?』
酒場の女が、白い布を差し出す。
それを見るキールの胸が、ふいに、痛んだ。
スーリヤを思い出したのだ。彼女がここにいたら同じようにしただろう。
『ありがとう。でも、これは今の傷じゃない。ずっと昔の傷跡なんだ』
男は微笑んで、女の手を抑える。
見ているうちに、傷口が乾き、塞がって赤い傷跡になる。その色も薄くなって、そして、男の目の色は両目とも茶色に変わった。
『傷が消えた? 目の色も…… 』
キールが驚くと、男は、困ったように頭をかいた。
『古傷なんだ。……ずっと以前、闇の魔導士たちにやられた』
そして彼はジークリートを見て、にやっと笑った。
『やあ、ジギーちゃん、久しぶり! 元気そうだな?』
ところがジークリートの対応は冷淡なものだった。
『なんであんたが、こんなところにいるんだ』
ジークリートは吐き捨てるが、男の方は意に介さず。
『なんでって。師匠に対してそれはないだろ?』
キールは男を振り返り、
『この人がジークリートの師匠? ……でも、こいつ汚ねえぞ』
信じられないという面持ちだ。
『ええと。確かに埃まみれだけどね。師匠とまでは思わなくても、命の恩人だってのは忘れないで欲しかったなあ。ここ大事なとこだから!』
男は言って、頭をかく。
『俺は、ケイオン。エルレーンの巡礼だ。修業のために各国を旅している』
にっこり笑ってキールに右手を差し出した。
『自己紹介はいい。なんでここにあんたがいるんだ。闇の四魔道師たちとどういうかかわりがある』
ジークリートのきびしい問いに、ケイオンは答えにつまる。
『えっと、まあ、いろいろあってね……』
『そのくらいにしておいてやれ。巡礼者はエルレーン本国には逆らえないのだ』
女の声が割って入る。
少し低めの、はりのある力強い声だった。
『確かに、どこから見てもあやしい奴には違いないが』
言いながら、部屋に入って来た女がいる。
、
『あっ!』
キールは思わず、驚きの声を上げる。
燃えるような赤毛の、逞しくも美しい女。
それは、キールたちが『水晶の谷』で出会った『赤の巫女王』チャスカだった。




