第4章 その4 黒い罠(改)
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「ねえ、そんなとこで何してるの?」
居酒屋の裏口が開いて、女が出てきた。
戸口からもれる明かりで、まだ若い女だとわかる。
薄桃色の髪を頭の上で束ねた、黒い肌の娘だった。髪の色は染めたものだろう。彼女はキールたちの姿を見て、酒場に来るような客ではないと判断したらしい。こちらを気にするのをやめ、戸口にもたれかかって、大きく伸びをする。
「きゃああっ!」
突然、女が悲鳴を上げた。
キールは反射的に《牙》の柄を握り、思い直して手を離す。妹とジークリートの位置を確認し、身構えて、闇の奥に目を凝らす。
軒をつらねた店と店の間のすきまに、何かがいた。
傷を負っている。
そいつの、荒い息づかいを感じる。
本能が危険を警告する。
「お前はそこにいろ」
スーリヤをかばい、キールは路地の奥に進みでようとした。が、
「いやああ! なにこれ、気持ち悪い!」
ふいに居酒屋の女が抱きついてきた。
「おい待て、放せっ……!」
おかげでキールは動けない。
『た、助けて……』
暗がりから声がして、ぬっと手が延び、キールの足を掴んだ。枯れ枝のようなその手には、まるで力が入っていなかった。
抱きついていた女が、信じられぬように叫んだ。
「なんで……、何でグーリア人がこんなことになってるのよ!」
暗がりに潜んでいたのは、グーリア人だったのだ。
女は酒場の護衛をしている黒い肌の男を呼び、騒ぎになるのは困るからと、グーリア人の男を中に運び込んだ。
どんな酒場にも必ずある、密談のできる小部屋の一つだ。それが済むと護衛の男は外に出ていった。
「ねえ、何なの? その男」
酒場の女は男を調べているジークリートに近づいたのだが、
「しばらく黙っていてくれ」
すげなくあしらわれて、まあ、とつぶやき、それきりおとなしくなる。
こんなみじめな様子のグーリア人など見たこともない。
ひどくやせて、固い皮膚はひび割れ、乾いた地面のようだ。身体のあちこちに裂けたような傷口が開いている。
「どうして……どうしてグーリア人が、こんな……」
スーリヤはつぶやく。
「グーリア人がナンナを殺したのに!」
村が襲われたときのことを、スーリヤは今も夢に見る。
「スーリヤ、どうした」
兄の声で我に返る。
「何でもない」
そう答え、目を開ける。
酒場の床に横たわるのは、やはり、まぎれもないグーリア人の男だった。ナンナを殺した、あの騎龍隊と同じ民族。
男の、灰褐色の固い皮膚を、スーリヤは息をつめて見やる。
グーリア人が奴隷を従え、金銀で身を飾り、勝ち誇っているなら、わかる。
それがなぜ、こんな瀕死の傷を負って逃げてきたのか?
許せなかった。
この男のみじめさが、何より許せなかった。
……そうでなければ、憎むことももっと楽にできるのに。
男が、苦しげにうめいて、ふっと目を開けた。
『ここは……どこだ』
目を細める。暗く煤けた天井から、周囲に目を移し、黒い肌の酒場の女とキールとスーリヤをぼんやりと見やり、そして、ジークリートに目を止めた。
『あんた……エルレーン人か……あんたが助けてくれたのか』
『いや』
ジークリートはそっけなく、
『そこの女の人が助けてやれと言ったんだ』
グーリアの男は、いぶかしげに酒場の女を見つめ、
『……お前が?』
明らかに相手を見下した口調だった。
『何ですって』
酒場の女があきれたように、それから突然こみあげてきた怒りをあらわに、声を荒げる。
『なんて態度なの……! グーリア人なんか助けるんじゃなかったわ!』
『無駄だ』
冷水を浴びせるようにジークリートが言う。
『グーリア人が、他国人に助けられたからといって感謝するとでも思っていたのか?』
女は、ハッとしたように小さく息をのんで、うつむき、
「そう……そうよね」
ぽつりとつぶやいた。女の言葉は、キールたちの言葉に似ていたが、少し語尾を緩やかに上げるような、聞きなれない響きがあった。
「奴隷は奴隷だわ」
キールは女を見た。この国でエルレーン人以外の異国人だということは、即ち、奴隷だ、ということ。この女も……。
女は、うつむいて、何を思っているのかはわからないが、しばらくして、
「……そういうことだよね」
と言った。落胆しているのでも怒りにまかせているのでもない。ただ、ふっきれたような、声には暗さはなかった。
「バカみたい。グーリア人を助けるなんて。放っておけばよかったんだわ」
『……?』
グーリア人の男にはその場の状況が飲み込めていない。
どうやら、自分の傷がどれだけ深いかということさえ、理解していないらしいのだ。
それをわからないまま、男は、うまく動かない手を床について、身を起こそうとする。
『……う……うう』
男が苦痛にうめく。
『なぜそんなことになった』
冷静すぎるほどに落ち着いた口調で、ジークリートが聞く。
男が口ごもると、
『言いたくないならそれでいいが』
突き放すように言われて、男は顔を上げた。
灰褐色の乾いた皮膚に動いた表情は、ひびわれと傷に埋もれて読み取り難い。わずかにわかるのは、その、迷いだった。
『表の通りでの騒ぎは、おまえが原因だな?』
ジークリートは問いただすでもなく断定した。
『そうか、通りの入口でもめてた、兵隊が入り込もうとしてたやつか!』
キールにも分かってきた。
逃亡奴隷が街に逃げ込んだためだという噂だった。
奴隷でもなければグーリア人がこんな風に重い傷を負い、逃げ隠れているなどとはあり得ない。
男はしばらく迷っていたが、
『わしの村の人間は、全員、この都の北の森で、奴隷のように働かされている……王に逆らったためだ。わしは、そこから逃げてきた……』
言い掛けて、ふいに口を押さえた。
喉が、ごぼっ、と音を立てて、口から真っ黒な液状のものが溢れ出る。
男は全身を震わせた。
ここにいたって初めて、自分の身体のことに気付いたかのように、男は溢れ出た黒い血にまみれた自分の両手を、信じられないものを見るような目をして見つめ、その手に縦横に走る深い亀裂を見る。
『わしは死ぬ』
がくぜんとして、熱病にうかされたように男が口走る。
『し、死にたくない……!』
叫んだ、その声が途切れる。
ヒュー…ゴボゴボ
声ではない奇妙な音が、男の喉からもれた。
どす黒い血を大量に吐いて苦悶し転げ回る。
その首の回りには、黒い輪のようなものが巻きついていた。
金属光沢を持ったそれが、男の全身に、みるみる広がっていく。
次の瞬間、黒い輪はザクッと音を立てて男の皮膚はおろか骨までもろともに、全身を切り裂いた。
豚の脂身を刃物で切るように、あっけなかった。
鮮血が噴き出る。
その血さえも、どす黒い。
「ひっ!」
酒場の女が悲鳴を上げ、床にへたりこむ。
男の胴が二つに折れ、首がもげる。
だが、その異様な光景よりも、キールたちの注意を引き付けたものがある。
男の流した真っ黒な血溜りから、闇よりも濃い、質量を持った塊が、もやもやと湧きあがったのだ。
生き物のように床を這い、見る間に四つに分かれ、凝り固まって、人の形をとって立ち上がる。
黒い衣を頭から被り、顔を隠した異形の影だ。
衣の裾が上がり、血肉のない青ざめた顔と、白骨のような腕がのぞく。年齢も性別もわからない。
黒衣をまとった四人の人物が、乾いた声で言う。
『愚かな奴よ、逃してやったのも気付かずに』
『我らに止めをさしてもらえるとは、何と幸運な』
『死ねば同じことだがな』
『愚民どもが』
キールはその姿に見覚えがあった。
そしてジークリートは彼らをよく知っている。
グーリア王の間近に仕える、闇の魔導士たち、エクリプスの姿だった。




