第4章 その2 夜の蛍晶石通り(改)
第四章
2
《螢晶石通り》を歩く、十代半ばの少年と、従者らしき、主人とそう年の頃も変わらぬ少年と少女。
そんな三人連れは、グーリアの保安部隊に不審がられて止められはしないものの、大人ばかりが歩いている通りの雰囲気にそぐわぬことは確かだった。
外国人向けの休息所が建ち並んでいるあたりで、ジークリートは歩調をゆるめた。
薄汚れた無料宿をいくつか通り過ぎた後で、足を止めたのは、他の宿よりは少しばかりこぎれいな、二階建ての建物の前だった。
扉を開けて入り、戸口のすぐ側にある長いカウンターテーブルに直行する。
テーブルの向こう側には、顎髭を蓄えた中年の男がいた。
「鍵のかかる部屋を」
顎髭男にジークリートはエルレーン語で話しかけ、銅貨を数枚出す。
「二階だ」
男は部屋の番号を刻んだ真鍮の鍵を渡してよこした。
階段を上るジークリートに、二人はついて行く。
部屋の扉を開けると、スーリヤは真っ先に入っていって、歓声をあげた。
「うわあ、すごい! きれいなところね」
簡素だが木製の寝台が二つ、足を伸ばして横になれそうな長椅子が一つ。それぞれ洗い晒しの亜麻のシーツと枕、柔らかな動物の毛で織られた毛布がしつらえてあった。
食事や書き物に使えそうな木の机と椅子。
こんなまともな宿に泊まるのは初めてである。
「そんなにではないが、無料宿よりは清潔だし、安心して眠れる。一応、無料の所でも犯罪は起こらないように管理人が置かれているが……泊まるのは、ほぼむさ苦しいおっさんばかりだ。女の子には勧められない」
「……スーリヤには甘いんじゃないか、おまえ。おれとはなんか違うだろ」
押しつけられた荷物……といってもそう多くもないが、食糧や寝具を詰めた袋を床に下ろして、キールは言う。
「当然だ。キールは頑丈そうだから」
「なんだそれ!」
「うわあ、ふかふか~」
兄とジークリートの言い争いなど眼中になく、スーリヤは清潔な寝具にひかれてベッドにうつぶせに倒れて、うっとり。
キールは荷物を奥に運び込んで、椅子に座ったジークリートの前に立つ。
「ところで、聞きたいことがある」
「なんだ」
「さっき、顎髭男になんか、赤金…銅のこと…でできた、小さい平たいものを渡してたろう」
「ああ、この大陸の共通貨幣で、ソルレム銅貨という。宿賃は高くはない」
「そこじゃねえ。おれたちは村で暮らしてるときは金なんかいらなかったんで忘れてた。街とか都では食べ物や服を得るのに金ってもんがいるんだろ。これまで、おまえが出してくれてたんだよな。おれは何も持ってないから、労働で返すことにしようかと思うんだが」
「それなら問題ない。これは、実のところ、おれの金でもないんだ」
スーリヤは柔らかい寝具に感動して毛布の手触りを堪能しているうちにいつの間にか眠ってしまっていた。
「っていうと?」
「おれの師匠から餞別をもらった」
「師匠?」
「9歳のとき、母を亡くして独りになったおれを拾ってくれた人だ。精霊のこと、世間のこと、いろんなことを教えてくれた」
「へえ。そんなことが」
「それと、この通行札とね」
銀色の小さな板を見せた。文字が刻まれている。
「エルレーン公国の文字で、巡礼の身分証だと記してある。師匠がそうだった。この国は、各地を旅する巡礼のために、いろんなところに宿舎や店を設けていて、巡礼は生活資金を与えられるんだ。必要最小限だけどね。のたれ死にしない程度には」
「親切なんだな」
「その代わりに、巡礼は各地を旅して得た情報をそこに書き記していく。それが仕事みたいなものなんだ」
「仕事…かあ」
「おれは師匠に拾われただけの子どもだけど、その恩恵を受けられるように手配をしてくれた。グーリア王にどうしても会いたいと言って、おれが師匠と別れたときに」
復讐するつもりでいることは、師匠は察していただろう。
止めはしないが、よく考えてからにしろと、再三言われたものだ。
苦手だったが、恩義は感じている。
*
小さな灯火が、ぐったりと眠るスーリヤとキールの姿を照らしていた。
無理もない。めざすグーリア王国に入ってから、一日中歩いてきたのだ。
ジークリートはスーリヤの寝顔を見つめた。
……やはり、母に似ている……
あの、グーリア王国の東の国境の街グレイムで、狩られてきた奴隷たちの中に、この少女を見た。
母の面影に似た少女が、奴隷として捕らわれているのは我慢できなかった。
それまで、他人とかかわり合うのはできるだけ避けてきた彼だったが。
ジークリートはふと手を上げ、小さく呪文を唱えた。
開いた手の平の上に、ぼうっと火がともり、黄金色の炎を上げる。炎霊の王、グルオンシュカだ。
《思い出していたのか》
グルオンシュカの声が響いた。
《ああ…… おまえと初めて会った夜のことを》
ジークリートは遠くへ想いをはせるように静かに言う。
《そうだ、だが我が主よ、過去を思いわずらうべきではない》
《わかっている》
ジークリートの底知れぬ瞳に、危険な深紅の炎が揺れた。
*
キールたちは夜になってから泊まっている宿を出て《螢晶石通り》を歩いた。情報を得る必要がある、とジークリートが言う。
「昨日、言ってたことだが。ジギー、師匠がいたのか」
「そうだよ。母が殺されて、ひとりになったとき、ある人に助けられた。普通の人ではなく、精霊や魔法、情報に通じていた。その人を師匠として、精霊のことを学んだ」
「どんな人だったの」
スーリヤの問いに、ジークリートは眉をひそめた。
「恩人だけど……ちょっと苦手だった。時々、若い女が尋ねてきて、その時は外に追い出されてさ! 巡礼のくせに女なんかと……いつも同じ、赤い髪の女で」
ジークリートは珍しく赤面して、拳を握りしめた。
「いい人なんだろうけど。しばらく教えてもらったあと別れた。別れ際に餞別をくれたけど……今は、どこでどうしているか知らない」
「おまえが苦手だというなんて、どんな人なんだろうな」
ともかく行動を起こすには情報が必要だということにはキールも同感だった。
王宮の構造や入り口、護衛などの情報が得られるかどうかはまだわからない。見咎められずに街を歩き回るには、グーリア人が出歩くのを怖れる夜がいいと思われたので、そうしたのだが。
が、夜の《螢晶石通り》の異常なほどの賑わいは、予想以上だった。
キールとスーリヤにとってはこのような場所を歩くのは初めてのことだ。
人々は何を求め、ここに集まり、どこへ向かうのか。
通りに人々のざわめきと、さまざまの異国の匂いが混じる。闇の中を行き交う『獣』たち。キールはふと、故郷での『狩り』を思った。薄闇のなかの通りを歩くのは、どこか、それを思いださせる。まるで違う状況なのに。
闇に溶けた獣の臭い。
彼らの吐き出す敵意、悪意、無関心と好奇心と、それらが、ぴりぴりと肌を刺し、キールの中の狩人の本能を刺激する。
突然、通りの向こうの方で騒ぎが起こった。
『何をしてる……!』
『おまえらの来るところじゃねえ!』
きれぎれに叫び声が流れてくる。
騒ぎの方から逃れてきた男を捕まえ、
『どうしたんだ?』
覚えたてのグーリア語でキールが尋ねると、
『やばいぜ、王の軍隊が来てる』
黒い肌をした男は外国なまりで言って
『あんたも気をつけろ』
と忠告して走り去っていった。
兵士がこの螢晶石通りに入りこもうとして騒ぎになったらしい。
『冗談じゃねえ、ここは昔から軍の出入りはなしってのがきまりだぜ』
『いったいどうなってるんだ』
人々がどよめき、周囲に不穏な空気が漂い始める。
「ここを離れよう」
ジークリートがキールとスーリヤをうながす。
指名手配をされている身というわけではないのだが、騒ぎに巻き込まれでもして目立つのはまずい。
『凶悪犯が逃げてるらしいぞ』
『逃亡奴隷狩りじゃないか』
聞くともなくそんな会話が耳をかすめていく。
『ここにそういう奴らが逃げ込むのは昔からのことだ。それを今さら、何だって』
『おい、口には気をつけろよ。どこに王の軍が潜んでいるかもわからんからな』
グーリア語の会話の意味が、いまならわかる。
キールは周りを見渡してみる。
王の軍隊が、何のためにここに入り込むというのだろう。




