第4章 その1 巡礼(改)
第四章
1
エナンデリア大陸を縦に貫いて走る二つの山脈は、大陸の中ほどで寄り添うように近づいて、広大な高原地帯を形成している。その中央高地よりわずかに南下して、高山地帯に深く切れこみ、渓谷を造り、平野を流れるカラウ河のほとり。
そこに、グーリア王国の中心地、王都ソルフェードラはあった。
王都ソルフェードラの黒曜石宮殿。
暗い部屋の中央に一人の男が立っている。
その男の皮膚そのものが甲冑のようだ。
グーリア人特有の、年齢を重ねるほどに硬く変化していく皮膚は、男が成人してからの長い年月を刻みつけている。
彼は黒曜石でできた壁の中央に埋め込まれた、一個の宝石を見つめた。それは、ほとんど黒に近いと言ってもいい、濃い深紅の宝石だった。
のぞきこめば、その奥底に揺らめく暗赤色の炎が見える。
炎を内に抱いた黒い宝石が、闇の底で、ドクンと生命あるもののように脈打った。
部屋に満たされた濃密な空気が、呼応するかの如く震える。
それは鼓動に似ていた。
宝石と部屋全体が、まるで生命を持っているかのように脈動しているのだ。
『王よ、やはり、この《星々の心臓》の間に居られましたか』
闇の中から、かすれた声がした。
部屋の四隅によどんだ影が凝り固まり、立ち上がって人間の形をとる。
全身を包む黒衣の端から、野晒しの白骨に皮を貼り付けたような腕がのぞく。
一人は右の掌に卵ほどの大きさの乳白色の石を埋め込んでいた。
いま一人は左腕に、残りの二人は、それぞれ右目と、左目のあるべき場所に。
彼らは風が枯れ木の枝を擦り合わせるような乾いた声で言う。
『御子がいよいよ王都に入られますぞ』
グーリア王は硬い口元に、微かな笑みを浮かべ、しだいに声を上げて笑う。
『そうか、やっと来るのだな。待ちわびているぞ! 早く来るがいい、わがもとへ』
*
グーリア王国の都ソルフェードラ。
その名は、グーリアで最も尊ばれる、血のように紅い宝石、輝陽石にちなんでいる。
都の北部に広がる山地からは、輝陽石ばかりでなく、蒼炎石や月露石、水精石といった宝石が豊富に産出されていた。
王都ソルフェードラの中心となる大通りを、宝石のうちで最も堅く尊ばれる石にちなんで《月晶石通り》という。
賑やかなこの大通りを、キールとジークリート、スーリヤの三人は歩いていた。
ここはグーリア王国の中心部。
当然、道行く人々はほとんどがグーリア人だ。たとえ肌を隠したところでキールたちとの種族の違いは一目瞭然。
この地方の気候に合わせ、ジークリートは外套を薄手のものにし、目立ちすぎる銀色の髪には、都の他の人間もしているように、日除けの麻布の頭巾を被せている。
キールとスーリヤには、都ふうの薄い長袖の上着が、浅黒い肌色の露出を少しでも押さえるのにいい。
むきだしで武器を持つのも不穏なので上着の下に《牙》を隠しているのだが、うまく隠せているのかどうか疑わしい。
この一行ではグーリア人の中で目立たないほうがおかしいというものだが、幸いにして、グーリア人は他国人の区別をさほど気にしていない。
ただ、グーリア人かそうでないかの違いがあるのみ。
グーリア人の大きな特徴は、その灰色の肌にある。
彼らの肌は年を経るにつれ色が濃くなり、硬くなっていく。
やがてその皮膚は彼らの飼いならしている騎龍たちと同じほどに硬く、鎧のように厚くなり、剣の刃も立たなくなる。が、硬化は良いことばかりではない。徐々に内臓に及び、それが心臓に達した時、彼らに死が訪れるのだ。
とはいえグーリア人の寿命は四百年以上はある。いま、《月晶石通り》を歩む彼らを見るかぎりでは何の心配も苦労もなさそうだった。黄金や絹や宝石を身につけたグーリア人ひとりに、何人もの奴隷たちがつき従うのは、あたりまえのこと。
その中に時おり肌の色の白いエルレーン人の姿が見られる。
エルレーンはグーリアと友好関係を保っている唯一の国だ。
もっともかつてはこの二つの国は長く戦乱の絶えることがなかった。
戦争が割にあわないことに気付いて両国間に和平が結ばれたのは二十年ほど前のことだ。
エルレーン公国の本国では奴隷制度は廃止されているが、彼らもこの国にいる間は奴隷を使っていることが多い。
キールたち一行も、人目にはそう映っていることだろう。エルレーンの商人を親に持つ子供と、付き従う奴隷の少年と少女とでも。そう見えるだろうと予想しているから、大っぴらに表通りも歩けるのだ。こそこそしている方が怪しまれそうだった。
やがて三人はとある通りの入口で足を止めた。
入口の上に小さな金属のアーチがあって、何か文字を書いた札が取付けられている。
「あれはなんて読むんだ」覚えかけのグーリア語で、キールが聞く。
「《螢晶石通り》だ」
そう答えて、ジークリートは錆の浮いたアーチをくぐり、通りに足を踏み入れた。
*
《螢晶石通り》
小路の曲がり角に掲げてある札の下をくぐろうとした、レンガ色の髪をしたやせた男は、かすれた札の文字を見上げ、苦笑した。
『真月の女神ゆかりの尊い宝石の名が、こんな通りに付けられているとは。この世の最高神、慈悲深き真月の女神イル・リリヤの目も届かぬ場所も、確かにあるらしい』
薄汚れて古びた店や、あちこちで折れ曲がる狭い小路や、暗い軒下。いかにも怪しげな通りだが、ここには表通りには泊まれない外国人向けの宿が軒をつらねている。
男は、その宿を目指していた。
外国人と言えば、グーリア王国においては、唯一の友好関係を保っている国、エルレーン公国の人間を指す。
男が足を止めたのは、古びた二階建ての宿の前だ。
一応のところは石造りだが、すすけた壁は手入れなど長い間していそうにない。
両開きの扉を押して、中に入る。
薄暗い広間。
入り口近くには申し訳のように幾つかのテーブル席があり、数人の客が酒の杯を口に運んでいる。
おおざっぱに区切られた床には、一人につき一枚の毛布があらかじめ置かれている。
それが『休息所』と簡単に呼ばれている、金のない外国人向けの宿泊施設だった。むろん、ふところ具合に応じてそれなりの設備の整った宿も、この通りには用意されている。
男が入っていくと、先客たちが新顔の方に探るようなまなざしを投げかける。
ただ同然に泊まれる上に監視者もめったにいないので、逃亡奴隷や犯罪者が入り込んでいることもあるのだ。
だが、客が何者でもこの宿は選り好みはしない。
新顔に警戒の目を向けた客たちは、男の手にしたみすぼらしい木の杖を見て、安堵し、それきり男に関心を失う。
この杖は聖職者のしるしなのだ。
エルレーン公国の人間ならば誰でも知っている。
男は中へ入ると、自分に割り当てられた場所に座り、担いでいた荷物を降ろした。荷物と言っても、汚い布袋ひとつきりだ。
一番奥に陣取っていた初老の男が、興味を引かれたのか寄ってくる。もう何日も風呂に入っていないのだろう、埃だらけで、ひげも延び放題だ。
「お若いの、あんたはシル・リリヤの巡礼だね。なつかしいなぁ……」
シル・リリヤとはエルレーンの神殿のある都の名だ。正確にはシ・イル・リリヤというのだが、初老の男は確かにそう発音した。『シ・イル・リリヤ』と。
「なつかしいというと、以前、神殿にいたことでも?」
「ああ、わしも若い頃は魔法師になりたくてね。学院で修行をしてはみたが……あいにく、わしは、精霊石と感応できなかったのでな、覚者にはなれなかったよ」
初老の男はあっけらかんと言って笑った。
エルレーンで魔法師になれるかどうかは、素質によって大きく左右される。
多くの若者が『聖堂』と呼ばれる神殿や、魔法師養成学部のある国立学院に籍を置き、寄宿舎に泊まり込んで修業を積む。
十数年間の過酷な修業を経て、精霊石と呼ばれる、魔力を触発する石に触れて感応する……魔力に目覚める……者だけが、一人前の魔法師を意味する『覚者』の名を得る。
そうでない者は神殿を出るか、残って「魔法」を実際に行使する以外の聖職についたり、学院の一般学部に転出していく。
魔力を得るのは精霊石と感応できるかどうかにかかっており、生まれつきの素質によるもので、個人の意思や努力ではどうにもならないと言える。
実は、神殿や魔法師養成所で学ぶのは、魔法を使うすべなのである。
なぜなら魔力の働きは心臓の鼓動に似て、また肺が呼吸をするようなもので、そのままでは自分の思い通りにならないものだから。
「故郷を出て、もう何年になるか……教王様はまだ、お元気で居られるだろうか」
「神殿長さまなら、三年前にお目通りをしたときには、相変わらず壮健なご様子でしたがね」
それを聞いて初老の男は懐かしそうに目を細める。
「ふむ、それはなにより。ところで巡礼どのは、この国には長いのかね」
「いやまあ、あっちこっちふらふらと。おれも、長いこと故郷には帰ってないな……たまに神殿に顔を出す程度でね」
やせた男が笑う。
元の肌色がわからないぐらい日焼けして、これではエルレーン人だと言っても通用しないかもしれない。
砂埃まみれになった麻の外套も服も、相当くたびれきっている様子だ。
焼きすぎたレンガのような赤茶けた髪は、ぼさぼさに乱れて、穏やかな褐色の目の上にかかっていた。
魔法と共に暮らすことは、そうでない肉親との縁が薄れていくことと同義である。血を分けた家族であっても、魔法師たちより早く老いてこの世を去って行き、彼らは取り残されるのだ。
魔法を得た、または魔法を身の内に持って生まれた代償に。
「おじさんはいつから此処に?」
「グーリアには二十五年くらいになるか」
「ていうと、もしや戦争中から?」
エルレーンとグーリアの間で長年に渡って続いていた戦争が、多くの犠牲を払った果てにようやく終結したのは、二十年前のことだ。
「戦争で捕虜になって以来、奴隷暮らしさ」
と、肩をすくめる。
「友好条約が結ばれたんで解放されたが、帰っても身寄りもいないし、この国に残って商売をしてたんだ」
初老の男は、人恋しかったのか、身の上話を始めた。
「通訳をしたり、仲買をしたり、わりとうまくいってた。が……国境のグレイムって街を知ってるかね。わしの財産はそこにあった。ところが……」
「ああ、都に来る途中で噂を聞いたよ。一夜のうちに街が消し飛んだって。信じられない話だが本当だったのか」
やせた若い男の柔和な顔が、別人のように引き締まる。
「わしはこの目で見たんだ」
中年の男は大きな目を見張り、恐怖にかられたかのように、手が震えている。
「あの日、わしはグーリア人の商売相手と少しばかりもめて、街を出てな。思い返して次の日戻ってみたら街がなくなってた。きれいさっぱり、吹っ飛んだみてえに。地面にでかい穴だけ開いてたんだ」
「そいつは災難だったねえ」
やせた若い男は、同情するように、うんうんとうなずいた。
「だけどおじさん、もしその場にいたら生命なくなってたろ? おじさんは運がいいんだよ」
「そうかな……ならいいがな。とにかく気が抜けてよ、当分、何もする気がしねえ」
一財産は築いていたんだがなあ、と初老の男がぼやいた。
「おじさん、その時なんか見なかったかい」
「いや……気がつかなかったがな……。なにかあるのかね」
「ちょっと聞いてみただけさ」
やせた男はへらっと笑って、荷物を枕に、床の上に寝転んだ。
「これも何かの縁だ。いつかまたわしが羽振りが良くなったら、来てくれ。その時はもてなすよ」
初老の男は、暮し向きの良かった頃を懐かしむように言った。
「わしはドルフだ。あんたは?」
「ケイオン」
「そいつは妙な名前だな」
と、ドルフ。
ケイオンとは、エルレーンの言葉で、土とか壁土、という意味なのだ。
「死んだ親父が変人でね。どうせいつか人間は土くれに還るんだからと言って、つけたんだそうだ」
「なるほど、息子にそんな名前の付け方をするなんてのは確かに変人だ」
ドルフはうなずき、それからにやっと笑って
「……それが本当なら、だが」
声を落してつけ加えた。
若い頃、『聖堂』で修業したというのは口から出まかせではないらしい。巡礼の裏の事情に通じてもいるようだ。だがそれ以上の事を口にするのは禁忌。少しでも『聖堂』にかかわった者なら、承知のはずだ。
ケイオンはその言葉を聞き流し、ドルフもそれ以上は何も言わず、隣に寝転んだ。
*
夜になると都のたたずまいは一変する。
賑わいを見せていた街が、日没とともに人通りはふっつりと途絶えるのだ。グーリア人は悪霊のさまようという夜を怖れるためだ。
家に閉じこもり固く扉を閉ざし、この国での最高神である太陽の復活、夜明けを願って祈りを捧げる。その例外が《月晶石通り》と《螢晶石通り》だ。
一方の《月晶石通り》は信仰心の厚さとは程遠い貴族や金持ちの外国人で一日中変わらぬ賑わい、光水晶という高価な光源を惜し気もなく用いて、幾つもの灯火がこうこうと通りを照らし、夜の訪れを知らぬほどだ。
そして《螢晶石通り》では、夜の中にこそ似合うような人々が、日没を待って現れる。
わずかに居酒屋や宿屋の入口に置かれた小さな灯以外に、通り全体を照らしだすような明かりがない。
どちらも、首都ソルフェードラのありのままの姿。
そしてひたすら夜を怖れて闇の中に眠る住宅街もまた、真実だ。
ケイオンは夜になると宿を出て《螢晶石通り》の雑踏の中に足を踏み入れた。
薄闇の中にはさまざまの気配が満ちていた。
どこからこれ程の人間が集まってきたのか。
通りにはすえたような臭いが漂っている。
グーリア語も含めたこの大陸のあらゆる民族のさまざまの言葉で交わされる会話が、流れてきては夜に消えていく。
通りの両側にぎっしりと立ち並ぶのは居酒屋、盗品を扱うあやしげな店の数々。
麻薬や女、情報、求められるものは全てが揃っている。ただ、金がありさえすれば、何でも、どんなことでも得られる。それらを求めて、一癖、二癖ありそうな人間たちが薄闇の通りを行き来する。
この通りには昔から軍や王宮の兵の出入りはないという慣習なので、外国人でもここなら息がつけるのだ。
通りにぎっしりと並ぶ店の飾り窓を飾る鉢植えは、客の目を慰めるための単なる飾りではない。扱う品物を示す看板だ。
例えば桜草なら、踊りの相手をしてくれる女の子がいる飲み屋ということ。もちろん、それ以上を望むなら後は交渉次第だが。
そして飾ってあるのが春告草の青い花なら、そこではあらゆる情報が手に入るということだ。
飾り窓を見ながら歩いていたケイオンはふと、前方から近づいてくる女に気付いた。
一目でくぎづけになる。
どんな男でも心を奪われ、すれ違えば振り返って見ないではいられないような美女だった。
ケイオンはその女をぶしつけなほどにじろじろと見つめてしまった。
彼女も、自分に注がれるそうした視線には慣れていると見え、またそれを気にも止めず、さらりとやりすごすすべをも知っているようだった。
豊かな赤毛の、美女だった。
薄闇の中で、髪や瞳の色などわからぬはずなのに、その女の持つ色は、なぜか、わかった。
深い森の色をした緑の瞳のことさえ。
彼女から匂いたつ森の香りさえも。
こいつは危険だ。
女を一目見て、二たび見つめ返して、ケイオンは冷や汗を流した。
いい女ほど危険なものは他にない。
その予感は当たっていた。
彼女はケイオンを見、ふっと笑った。
その時、両脇から、気配も感じさせずに二人の男が近づき、彼の腕を掴んだ。
ケイオンが抗議の声を上げる間もなく、赤毛の女は風のようにやってきた。
「エルレーン公国の『聖堂』の意志の代行者たる巡礼殿とお見受けするが」
女は言った。
それもケイオンの故国エルレーンの言葉で。
「話がある。ご同行願えるな」
これは彼の意志を確認している訳ではないのだ。
一緒に来てもらうぞ、という宣告だ。あらがうことを許さぬ迫力があった。




