ー1話 赤い魔女と灰色の巡礼
エナンデリア大陸、西州の旧国、エルレーン公国の南部に広がる、『雨の森』
木々の間に見える夕日が、みるみる沈んでいく。
草原に二つの影が伸びる。
一つは男、もう一つは幼い少年。
「まだ歩けるか、ルシ」
ときおり、男は振り返り、遅れ気味になる子供を気遣う。
「平気だよ、ナーダおじさん」
ルシと呼ばれた子供は答える。
大丈夫。こんなの平気。
先月前までいた施設では、まるで人間らしい気がしなかった。
世の中にあふれかえっている戦災孤児のひとりで、どこにでもいる、誰にも必要とされない存在だと、絶えず思わされていた。
でもそれは自分一人の心にしまっておく。
口に出せば、優しい叔父ナーダが悲しそうな顔をしてルシのために人生を取り戻そう、何かしらしてくれようとがんばってしまうから。
もう、違うんだ。
自分は誰にも必要とされないゴミじゃない。
前方を行く、がっしりとした男の背中を、子供は見上げる。
その背中を覆う、着古した外套は砂にまみれて、裾や袖口がすり切れている。
長い長い戦争があった。
戦場で叔父は死の淵をさまよい、終戦を迎えた。
軍を離れ、同じく戦場で亡くなったはずの姉の手がかりを求めて探し歩いた、彼はそう言っていた。
その姉の遺児を、大陸じゅう捜してようやく見つけた。もう心残りはないと、静かに、うれしそうに笑った。
叔父は、自分は名前がないと言った。
「あるものに売ってしまったんだ、名前と魂とを」
だから「何者でもない」ナーダと呼べと。
奇妙なことを言うとルシは思ったが文句は言わなかった。
なにしろ叔父は『魔法師』だという。
彼らは常に自分に厳しく業を課していた。修行にあけくれる変わり者と世間では評判だった。巡礼などに至っては定めて住むところもなくさまよい続けるのだ。
それでもルシには初めてできた家族だ。
灰色の目を細めて、叔父はつぶやく。
「馬を無くさなければよかったんだがな。これでは、間に合うか…」
暗赤色の小さな月、『魔の眼』があらわれるまでに、という言葉を、彼は飲み込んだが、もちろん二人とも心得ていた。
いま夕空に半月が淡く白く光っている『真月』に比べて、その半分の大きさもないこの暗い月が空にかかるとき、闇は活気づき、人の心は恐れに満ちて、闇の中に怪しい生き物の姿を見いだす。
たとえ本当は、夜行性の獣が動き出すだけのことで、闇の中に何もなくとも、自らを追い詰めて、時には命を落とす。
日が落ちてから荒野を旅する者などいない。
この二人も、本来はとうに次の街の門をくぐっているはずだった。途中で馬がばてて、前の宿に置いてくるしかなかった。
日が落ち、夕映えの最後の残照が消える。
急速に夜が降りかかってくる。
二人にとって幸いなことが、一つあった。
空にかかっていた半月が、輝きを増してきたことだ。
ふいに、叔父が立ち止まった。背中に、みるみる緊張がみなぎった。
「おじさん? どうした?」
叔父は暗い空を見上げていた。
まるで中空に浮かんでいる何かを見つめているようだ。
「ここまで追ってきたのか、赤い魔女」
空を睨み、絞り出すように彼は言う。
「あかい、魔女?」
暗い空に、ルシは何者の姿をも見いだせない。
「くるな、おまえはそこで待っていなさい」
手を振り、子供を押しとどめて、叔父は暗い森へ踏み込んでいく。
「おじさん!待って、危ないよ!」
何もいない空虚な場所に向かって、叔父は話しかけているようにしか見えない。
狂ったのかと不安にかられた。
「この子は関係ないはずだ!放っておいてくれ」
叔父との間には闇が立ちふさがっている。彼の姿は見えず、必死に言いつのる声だけが聞こえる。
「俺の姉は、ヴィア・マルファは死んだ。だから契約は無効のはず。もう終わらせてくれ!」
そして、何かが、彼に答えた。
その声だけが、闇の中、中空からさやかに響いた。
若い女の、静かな声が。
「本当に終わらせていいの? アンティグアのエルナト。あなたは戦場で、すでに命は尽きていた。私の加護を失ったなら、どうなると?」
「それで構わない。俺がいなければ、あんたは、あの子を見失う。守ることができる。あんたの眼からは」
「非合理的ね」
抑揚のない声の響き。
「それほど言うなら、かなえてあげましょう。でも私はあなたを殺すのではない。ただ、あなたの命をつないでいた手を離すだけ。それが末期の望みならば」
「やめて!おじさん!待って!」
事情もわからないのに子供は駆けだしていた。切羽詰まっていた。
女は何を言った? 叔父が死ぬと?
夢中でさしのべた指先が、叔父の、たぶん服のどこかをつかんだ。
その瞬間、ぱしっと払いのけられる。
一瞬、見えた気がした。穏やかに微笑む、優しい叔父の顔。
空に浮かんでいた、赤い髪と目をした若い女。
女もまた微笑を浮かべていた。
寂しげな……そして、慈悲に満ちた、女神のような……。
「忘れないで、北天の星、テルア・ルシ。今は見失っても、必ず見つけ出す。我が王よ、魔眼の主……」
その言葉の終わらぬうちに、叔父が何事かを、ルシがまだ知らない魔法の言葉を放った。そしてあたりは白昼のように明るくなり、熱風が押し包み肌をチリチリと焼いた。
目覚めたのは翌日の昼。森は焼け、叔父の姿も、そしてもちろん、中に浮いていた魔女の姿も、どこにもなく。ルシは独り立ち上がって、平たい石が敷かれた道を進んだ。
消し飛んだかのように森がなくなっていたから、歩く道の上はずいぶんすっきりとしていた。
*
高い天井が頭上にあった。
全体を白い石に覆われた大きな空間があった。
太い柱に支えられた、ゆるい曲線を描く天井には、様々な青い石の細かい板を張って、巨大な絵が描かれていた。一面の海の青のようでもあった。夜空をあらわしているようでもあった。
そのときのルシは知らない。
ここはエルレーン公国の首都イリリヤ。
その広間こそ魔法師たちの集う、この国の中心部『虚空の間』だった。
国の魂というものが宿るという伝説も、むろんルシは知らない。
灰色の緩やかな法衣をはおった人々が広間を埋めている。
けれどその中でルシは独りだった。
人々は、どれも実体ではないのだ。各地に置かれた神殿から、魔法師を束ねる祭司たちは影を飛ばして、ことがあれば会議に参加する。
ある意味そこは、とてつもなく空虚な場だった。
ざわめきが広間を風のようにわたっていく。
それらは口々にさざめき、一つの意味をささやく。
「覚者が死んだ」
「七年前に戦争で死んだ覚者アンティグアのエルナトが、もう一度、死んだ」
「この子供が伝えてきた」
と。
「だが、この子供はなにものだ?」
むかついた。腹がたった。
覚者アンティグアのエルナト。それが叔父の本当の名前だった。実の母だと叔父が言っていた、ヴィア・マルファという女は。もう二十年も昔の戦場で命を落としたのだと、魔道師たちは親切に教えてくれた。
「もういい」
ルシは叫んで、青い、ただただ青い広大な部屋から、全速力で駆け出していった。
「おれも叔父さんも、ここでは誰でもないし生きてもいないんだ、最初から。叔父の最後の頼みだから来たけれど、こなければよかった!」
「誰かあの子供を引き留めろ!」
ただ一人、そう叫んでいた声が、広間の天井から降ってきていた。
「あの子供を魔術的に視た者は、私の他にはいないのか!あれは、ヴィア・マルファと同じ存在だ!」
長老様だ、というささやきが広間に満ちる。
波のようにひろがっていく。
けれども誰も動かない。それは、彼らが、影でしかないからだった。
影には、現実のものを掴むことはできない。
飛び出したとたん、外の光のまぶしさに目がくらんだ。
「おおっと気をつけて!」
大通りらしい喧噪のただ中にルシはいた。
すぐ側を荷馬車が通り過ぎた。馬の吐く息、御者の怒号が降ってきた。
ぶつかっていたか下敷きになっていた、に違いなかった。
誰かのがっしりとした手が、腕をつかんでいた。
「だいじょうぶかい」
支えてくれたのは青年と言うには少しばかり歳をくった、優しい笑顔の男だった。
レンガ色のぼさぼさの髪の下に、暖かい茶色の目。
灰色の丈夫な旅衣はすりきれ、砂埃にまみれていた。叔父がまとっていたものと同じように。
「……あんたは、巡礼?」
子供がぶしつけに問うのにも、気分を害したふうはない。
「ああ、そうだよ。長い旅さ」
穏やかに笑う。その笑顔は、叔父を思い起こさせた。
思い出に目を背けて子供はうつむく。
「先月死んだ叔父が、言ってた。エルレーンの巡礼というのは、一生、大陸中の聖地から聖地へ旅から旅をしてまわる、根無し草……」
目を伏せていた子供が、ふいに顔を上げて、男を視た。
夜空に浮かぶ真月のような金色の瞳だった。
「それはなぜかといえば、公国のために情報を収集して、ときには情報を流して操作するために大陸中に放たれているのだと」
「おもしろいことを言うね」
レンガ色の髪をした男は、もう笑っていなかった。
「そういうあんたは、叔父さんの跡を継ぐのかい」
「いいや……たぶん、ちがう」
かぶりを振って、子供は男の手を振り払い駆けだした。
「あんたは、赤い魔女を知ってる?」
振り返りざまにその子供が放った言葉に、男の表情が変わった。
「おい…! 待て! その話、聞かせてくれ!」
期待などはせずに言っただけ、ルシはむしろきょとんとした様子で、煉瓦敷きの道に立ち止まった。
「赤い魔女セレニアを、セラニス・アレム・ダルを知っている者は、この国では少ない。俺の名はアウル。もしやあんたの叔父さんというのは……」
雨の森で叔父が自分の放った魔法で焼け死んでから、三週間が過ぎていた。
「では、エルナトは、今度こそ本当に死んだのか?」
いい歳をした大の男がぼろぼろ泣くのを、ルシは、
黙って、見守っていた。
フクロウと呼ばれる灰色の衣の巡礼は、近頃、子供を連れているらしい。
どこかの路地で拾った子供だろうと、彼を知る者は噂した。