004
入学式は特にこれといった印象に残るものではなかった。まあ、強いて言えば校長の話がやたら長かったのと、壇上へ生身が上がるのではなく、大型ディスプレイにあの禿頭がでかでかと映しだされたことぐらい。あれは一体なんの意味があったのか。本人出席してるし。
式が終わり教室に帰る途中、翔吾はまた玲也にくっついてきた。なんのつもりでそうしてくるのか全くわからないから居心地が悪い。とは言っても拒絶なんてできるはずもないから、適当に話を合わせておく。
彼も同じ中学か来たのが一人もいなくて、ただ寂しいだけなんだろう。寂しいから偶然席が後ろだった玲也に偶然話しかけているだけだ。そう思うことにした。
どうせ、すぐに離れていくに決まってる。
そう、玲也はただの踏み台だ。それでいい。
にしても、この高校の電子機器の充実っぷりは本当に指折りの大企業並みだ。将来そこに関わっていく人材を養成する目的で、という理由の限度を遥かに超えている。まだ開発途中であるはずのものも、ごく普通に使われているのだ。
引きこもりの対人恐怖症にありがちなのかもしれないが、玲也は機械いじりが人より得意だという自負がある。電子機器自身に興味があるし、手先の器用さも相まって、何より無駄な言葉を綴る人間とは違う沈黙が彼は好きだった。
だから世界のコンピュータ事情にも同年代の中では詳しい方で、それだからこの高校の異常なほどの進歩ぶりには一抹の不安すら感じる。
確かに便利だ。確かに豊かだ。しかし、それでいいのか。
果たしてここに人の居場所はあるのか。
ここに生徒以外の人間は必要なのか、と問いたくなる。
人間がしていることといえば、生徒に学問を教えたり、壇上で話をすることぐらい。それだってこれほどの技術を擁していれば電子頭脳が行えるだろう。むしろ、人間より上手くやっていけるはずだ。人のように気分にムラがあったり、無駄口なんかきいたりしない。機械のほうが遥かに効率的である。
生徒はみんな、その最先端の技術に目を奪われ興奮し、そこまで見えていない。目には見えにくい、しかし確実に人間が電脳体に飼い慣らされているということに。
そんな、コンピュータが支配する世界を描いた古いSFの本を読んだ記憶がある。サイバーパンク。まさにこのことではないのだろうか。夢想が、恐れが現実になっていないだろうか。
そして、あのねばねばの、浮遊する耳障りな音を立てる不気味なやつらだ。この高校の電子機器の異常な発達とあいつらは無関係ではない、本当にただの勘だが不思議と確信がある。この高校にはなにかある、そんな気がしてならない。
そんなことを悶々と考えていると、なんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。そんなこと、玲也が考えたところで一体何になるというのだろう。ここが異常だろうがなんだろうが、自分がなにか変えられるわけではない。
先の不安でネガティブ思考になっているのかもしれないな、と思考を終わらせる。
その日は入学式が終われば放課で、一刻も早く教室を出て家に帰りたかった玲也は、担任の号令の即後にさっさと帰ろうと席を立った。一緒に帰ろうと言う翔吾なんてガン無視一択だ。
そして目指す教室の扉を見ると、そこには黒髪碧眼の少女が立っていた。こんなときも凛とした雰囲気を漂わせて。
「玲也、帰るぞ」
しん、と朝の翔吾の登場と同種の沈黙に包まれた教室にそのよく通る声が響く。
また、視線、視線、視線。
玲也を勘繰る目。羨む目。妬む目。値踏みする目。
勘弁してくれよもう、と冗談抜きで目眩を感じた。
*
帰路についてから玲也の機嫌が悪い。
爽也はこれから部活があると聞いていたから、ならば玲也と帰ろうという単純な考えで彼の教室に訪れ、声を掛けただけなのだが。何がいけなかったのか。
教室に出向いて杏が声をかけた瞬間、あまり顔色の良くなかった玲也の顔がさらに青白くなっていった。なぜか焦るようにこちらまで小走りで来て、杏の手首を掴んでそのまま学校を出た。
そして今に至る。
平常は無表情だが、今の玲也の顔にはいろんな感情が浮かんでは消え、を繰り返している。
怒り、不安、無気力、羞恥、自己嫌悪。
杏は手首を掴まれたまま大人しく隣を歩く。玲也の顔に表情が表れるのは珍しいのでしげしげと眺めていたのだろう。玲也は前を向きながら視線だけこちらに向けた。
「……何」
「なぜ、怒っているのだ?」
「別に怒ってない」
「では、なぜ不安を感じている?」
「別にそんなことない」
「では……」
なぜそれほど己に嫌悪している?
そう尋ねると、玲也はぴたりと足を止めた。
満開の桜が風に吹かれて淡桃色の雨を降らせる。
「…………てくれよ」
口の中でぼそりと呟く。
「なんだ?聞き取れない」
「……だからっ」
放っといてくれよ俺のことなんてさあ!!
近づいてくる奴らはどいつもこいつも……ああ、俺はどうせ勉強だって運動だって大したことないやつだし、根暗で人ともうまく話せなくて、どうしようもない、生きてる価値なんてそんなに大してない、俺の代わりなんて腐るほどいる人間だよ。
そんな人間なんだよ。なのに、なんで、……もう、近寄ってくんなよ。関わんないでくれるかな。よってたかって俺をそんなに大したことないって認識させたいのか? そんなの自分がよくわかってんだよ。生まれた時から分かってんだよ。
いつもの無口ぶりからは想像もつかないほど多くの言葉が溢れ出す。杏の手首を掴む手に力がこもる。
分かってんだよ。俺が爽の兄である限り、ずっとずっと比べられて、意外だね、似てないね、全然兄弟に見えないねなんて言われ続けて。もう分かってるから、知ってるから、頼むから俺を見るな。俺は普通に静かに生きたいんだ。誰の目にもつくことなく、静かに。
終わりは段々速度が落ち、うなだれるように俯いた。
そこで、やっと杏の手首を掴んだままだということに気づいたらしい。怯えるように慌て、ごめんと呟いて手を離した。
杏は黙ったまま玲也を見る。
裏にこれほどの感情――劣等感を抱いているとは。
しばらくの沈黙の後、気まずくなったのだろう、玲也は何も言わず歩き出した。その背中に杏は一つ問うた。
「では、なぜ爽也と同じ進学先に決めたのだ。なぜ、彼と道を分かつことを選ばなかった? なぜ白秋に進んだ。……口ではそう言いながらも、お前も憧れていたのではないか。爽也のような生活を」
みんなに好かれ、囲まれる明るい生活を。
後から思えば、杏の言葉も安直だった。苛立ちをぶつけられたことでつい、かっとなったのだ。そして、その言葉はあまりにも深く玲也の深層に突き刺さってしまった。
爽也は杏に振り返り、笑みを浮かべた。完璧な、先程の激情を消し去った造られた笑みだ。
「そうだなあ、そうかもしれないなあ」
恐ろしく冷たい目で杏を見据える。その目に思わず背筋が凍った。
それだけ言うと玲也は杏を置いて歩き始めた。振り返ることなく、単調に。
その姿が見えなくなるまで杏はその場に立ち尽くし、桜の花から覗く空を仰いだ。
状況は最悪。まったく、なぜこんなことになったのか。
「災難なことだ」
こんな面倒臭いものを押し付けられて。大体、最初の段階が一番面倒なのだ。あんなやつを手懐けろと? 人の感情には疎いと自覚あるこの私にその任務を託すか。総大将の意向はやはり掴めない。
上手くいかない八つ当たりだとは分かっていても腹は立つ。
そんな杏の脳裏に別れ際の玲也の目が浮かぶ。
黒檀のように黒い、いつもなら生気の宿らない目。どこか現世を諦めたような目。
そんな目に宿る、殺気ともいえる冷え冷えとしたモノ。
歴戦の強者であるという自負を持つ杏でも恐怖を感じた。やはり本物の迫力は凄まじい。
「……む」
先ほどまで掴まれていた左手がわずかに同化してしまっている。知識はあったが、体感すればやはりつくづく思い知らされる恐ろしい影響力。しかも彼はまだ覚醒しきっていない。
「高木玲也」
その名を呟く。
狩る者の頂点、全てを見通す眼を持つ者。
「まったく、末恐ろしい男だ」