001
高校入学を目前に控えた春休み。突然の行動には定評のある玲也たちの母にしても、今回はぶっ飛んでいた。
「この子が、今日から一緒に暮らす事になった、桐田杏ちゃん」
今日の夕飯の親子丼の卵のいい匂いに鼻をくすぐられながら、玲也は母の隣の少女に釘付けになった。双子の弟の爽也も、いつものように夕飯にがっつかずに口を半開きにして少女を見ている。
「よろしくお願いします」
そう言って頭を下げた少女は、まるで漫画から抜け出してきたような、という陳腐な言葉しか玲也の頭に浮かんでこないほどの美人だった。
高い位置で清楚にまとめた真っ黒な髪、陶器のようになめらかな白い肌、整った中性的な顔立ち。そして何よりも目を引くのが――その空色の瞳。青空をそのまま写してきたような、吸い込まれるほどの明るい色。
「な、なんで一緒に暮らすの」
爽也が目を白黒させながら訊く。
「ああ、お父さんの知り合いのコなのよ。その人がちょっと……そう。亡くなってしまって。で、お父さんが引き取ったの」
そんな大切な事を俺たちに相談しなかったなんて……と爽也が目を剥く。母は相好を崩して、馴れ馴れしく杏の肩に手を掛ける。杏が嫌がっている様子は全く無い。
「私、女の子欲しかったのよぉ。……あ、あんたたちが嫌ってワケじゃないの。ただね、やっぱり憧れるじゃなあい」
そんな美人、俺たちの家系ではありえないって。女親がこれなんだから、と爽也が毒づく。うるさいわよ、と母は睨んだ。
そんなやり取りの中、玲也は身じろぎ一つせず杏を見つめ続けていた。
「いやあ、しっかしびっくりしたなあ」
杏が爽也の部屋を使うという事で、玲也の部屋に荷物を運び終えたその日の夜。
ベットは杏が使うという事で、とりあえず新しいベットが届くまでは、兄弟間で不公平無いようにと兄と同じように布団を敷いて寝る事になった爽也が、その布団の上でにこにこしながら転がりまわる。
「ちょっと、暴れんなよ。俺埃ダメなの知ってんだろ」
玲也が顔をしかめると、爽也はなんだよー、と唇を尖らせた。
双子ではあるが、彼ら二人は対照的だ。
弟である爽也は、天真爛漫、朗らかで無邪気な性格で、学校でも男女共に安定した人気を持っている。適度に空気も読めるし顔もそれなりにいいので、もちろん恋愛対象としても問題なしだ。
一方、兄の玲也は『霊也』と陰で言われるほどの根暗。顔立ちは爽也に負けていないかもしれないが、恐ろしく死んだ目と口下手が相まって、敬遠する者が多い。この歳になってまともに目を見て話せるのは家族だけ、というのは少し切ないものがある。兄弟で共通しているのは運動神経がいいことぐらいだが、それも爽也の方が遥かに上だ。彼は陸上の全国区の選手なのだ。
「いいじゃんちょっとぐらいさ。ケチケチすんなよなー」
人懐っこい仕草がなんの抵抗もなくできるのも、それが似合ってるのも、玲也にとっては自分が劣っているのを見せつけられているようで嫌だった。
「……でもまあ、確かに普通よりはいいだろうな」
「だろだろー? ……って、そこらのコと比べんなって。相当美人だぜ、あの子。そして俺の好みドストライクときた。そんな子と同居なんて、どこの小説の話だよっ!って感じだよなあ」
にまにまと機嫌よく喋り続ける弟を制するように玲也は立ち上がった。
「もう遅いから明かり切るぞ。お前明日も部活だろ」
そう言って、リモコンに手を掛ける。爽也は陸上の推薦で進学が決まった去年の秋から、ずっと高校で練習を続けている。
「おう。杏ちゃん陸部はいんねえかなあ」
杏は、玲也たちの通う私立白秋高校に通うことが決まっている。時期が遅れたとか何とかで一般入試ではなく、編入試験の形で特別に受験したそうだ。ただでさえ難しい編入試験を特別に受けさせてもらって、それで入学できるんだから頭も相当いいのだろう。
ちゃん付けヤメロ気持ちわりい、と呟き、玲也は電気を消した。
*
どうやら、杏は少し人とは変わっているようだ。
それが判明するのにはそれほど時間はかからなかった。今は春休みで、部活動もしていない玲也は一日中家でだらだらと過ごしているのだが、そうしたら嫌でも杏の不審な挙動が目に入る。
電話を小一時間は飽きずに見つめ続け、終いには子機を分解してしまったり、テレビを見て度肝を抜いたり、家の前の道路を行く電子自動車を一日中見つめ続けたりと、まるでまだ何も知らないガキのような行動をするのだ。
それに、壊滅的に空気が読めないし、爽也が話の種として繰り出す高校生なら常識のエロネタも全く通じないのだ。ただ、運動神経はかなりいいようだし、家事もお手の物だ。水道にはかなり驚いたようだが。
春休みも残り一週間をきった頃。入学前の春休みなので宿題もない。入学後すぐに試験があるが、まあそんなに気張るものでもない。どうせ俺は普通科だからと、少し卑屈になりながら玲也はリビングで雑誌を読んでいると、後ろからいきなり肩を叩かれた。それも結構強めに。
「ってえな……なんだよ爽か? お前部活は」
確か今日は丸一日部活だったはずなのに、なんだよサボったのかよ、と顔をしかめながら振り向くと、目に入ってきたのは空色の瞳だった。
「あ……」
「ちょっといいか」
戸惑う玲也に読めない表情で杏は言う。
「少し訊きたいことがあるのだが」
顔立ちに似合わぬ紋切り口調は、彼女特有の口調であると知るのにそんなに時間は掛からなかったが、やはり慣れない。
「別にいいけど……なに?」
一緒に暮らしているとはいえ、杏は他人。そして、いつもなら隣にいて勝手に喋る爽也はいない。玲也は視線を彷徨わせながら、呟くように言った。
一体俺に何の用事かと、少し身構える。
「玲也の父は家に帰ってこないのか?」
「あ……父さん?」
なんだそんなことかと肩の力を抜いた。
「昔から……仕事が忙しいんだと思うよ」
そう言うと杏は顔をしかめた。
「しかし、もうここで住まわせてもらって三週間にもなるが、私は玲也の父と一度もお会いしたことが無い」
玲也たちの父、高木英也は玲也たちが幼い頃からあまり家にいなかった。父親先導で休日家族全員で遊びにいったという話はよく聞く。しかし、玲也たちは英也と夕飯を一緒に食べた記憶すらあまりない。幼い頃、どうして父さんは家にいないのかと何度母に訊いても、「お父さんは仕事が忙しいのよ」の一点張りで、その仕事の内容すら教えてくれなかった。その頃は随分と不満が溜まったものだが、今はもう父という存在が家にいなくてもあまり気にしなくなってきたし、母が仕事内容を言いたがらなかったのにも何か訳があるのだろうと、自分自身の中で折り合いをつけるようになっていた。
「大丈夫だろ。第一、桐田さん引き取ったのも、父さんが決めたことだし」
「しかし、形式でも挨拶というのは必要だろう?」
どうやら杏は融通もあまりきかないようだ。いや、きちんと礼儀のしつけが行き届いているのかもしれない。
「別に、いいとおもうけど……帰ってくること自体、少ないんだから」
「そうか……ならば、致し方ないな」
ふう、と溜息をついて杏は玲也から離れた。
いままで経験したことのないほどの近距離で、異性しかも美女に話しかけられたものだから、いつのまにか詰めていたらしい息を、玲也はふうと吐き出した。
「ああ、そうだ。玲也」
突然名前を呼ばれて、ひゅっと喉が詰まった。
「な……なに」
「今日まで様々なものをこの街で見てきたが、この家は周囲と比べて電子機器が一際少ないな」
「え……? ああ、うん」
杏はこちらに背を向けたまま話す。
「母さんが、電磁波苦手なんだ。頭痛がするらしくって」
そのせいで、他の家なら全て機械がやってくれる家事なんかは、自力でしなくてはならない。
「そうなのか。このご時世には難儀な体だな」
そう言い残し、杏は二階の自室に戻っていった。
「なんだ、あいつ…………」