生い立ち
2裏切り
町に入ったときから、様子はおかしかったから、私は用心を重ねた。
だから、今も命があるのだと思う。
あるはずの場所に、社はなく、ずいぶん下流に、新しい社があった。
私は新しい社の境内に、元締めから託された文を結び、早々に江戸への帰途についた。
歩き始めても、追っ手はかからなかった。
私はそれを、はぐれた鎖の気持ちで考えた。
そして、私は、彼らから見れば、敵でしかない存在だと理解した。
関わらずに始末したいはずだった。
旅人は、水を断つのはむずかしいから、井戸や、小川に毒がまかれるのは、よくあること。
私は、それを警戒し、水筒にあった水がなくなってからは、何も口にしなかった。
川蝉が現れ、あめ玉を渡してくれたのはそんなときで、私は生き返る思いがした。
彼は、次のお務めの覚書を私に押し付けて、風のように消えてしまった。
川蝉は隠密だったから、本当はずっと近くで守っていてくれていたのかも知れないが。
どちらにしろ、紫にはあまり良い報告は出来ない。
帰ったら、すぐに機嫌を損ねるのだろう。
寺の前に捨てられた私と、郭の門の外に捨てられていた紫は、表向きは、腹違いの兄と妹と言うことになっている。
だから、棲みかも一緒だ。
どちらも、佐之助さんの養子だから、本当ならおかしな話だ。
そんなことをさせておきながら、色恋は御法度なんて言うのは、なんとも馬鹿げていると思う。
それでも行くところがないのは、私達鎖が、世間からはみ出した半端者だからか。
私達は、二人とも大黒屋佐之助に育てられた。
赤子のうちから、どうして分かるのかそれが不思議だが、私達には、特別な力がある。
私はそれでも、僧として修行をしているし、紫も、御棚で働いている。
鎖の一つであることは、出来れば隠しておきたいと思う。
ただ、暮らすだけでは、人生は余りにも長すぎるからだ。
私も、そしておそらく紫も、友と語り合ったり、子を持ったり、そんな普通の暮らしを夢見ながら暮らしている。
鎖の仲間を、友や子に見立てて、話したり、面倒をみたり。
そうやって時間を遣りすごしながら、いつかは本当の子が持ちたいと皆思っているのだ。
馬鹿を晒すようだが、初めて仕事をしたときは、少しだけ心が浮き立った。
たとえどんな仕事でも、人様の役に立てたことが単純に嬉しかったのだ。
しかし、その感情は長くは続かなかった。
悪人が相手であっても、だまし討ちにしたり、もっと酷い事をせよと言われ続けたら、誰でも、自分の立場を理解する。
自分は、もう普通の人生は歩めない。
鎖とは、人の扱いはされない、悪を断つ為の、使い捨ての刃なのだ。
私を育ててくれた佐之助さんは、鎖ではないのだと思う。
大黒屋の番頭さんなのだ。
それでも、ずっと元締めの近くにいるうち、何かを理解したのかもしれない。
彼は私の沈んだ様子を見て、寺に捨てられたのも縁だろうから、僧としての修行をさせてもらえと言って、近くの御寺の和尚様に話をしてくれたのだ。
私は、深くは考えずに僧としての修行を始めた。
本当に僧になれるわけではないのは分かっていたが、私は必死に和尚の話を聞いた。
やがて和尚の様子から、私は、この寺からも厄介な者と思われていることを悟った。
若い僧達は皆、私の容貌を怖がった。
御仏のお弟子である和尚もまた、同じなんだと気がつくまでに、私は何年もかかってしまった。
私は邪魔者と分かっても、仏様の学びを続けている。
自分の助けになるはずだと信じたからだ。
しかし当然私には、罪を許す寛容も、御仏の示す光もありはしない。
今も、自分を裁くことも出来ずにもがいている。
私のしたことは、人の良い和尚様を困らせ、余計な仕事をさせただけかも知れなかった。
きっと鎖となった者は、私と同じような、負の感情に苛まれる。
私達は、抜けていく者を裏切り者と呼んで、排除する。
しかし、彼らは、自分の思う通りに生きただけではないのか?
私と、裏切り者の間には、紙切れほどの差も無いように思えた。
だから、いつ裏切り者と呼ばれ排除されても不思議ではない。
しかし紫は、神のような力を持ちながら、素直さと、力強い心を持ち続けている。
私は紫を、自分の力で守りたい。
その感情が私を支えていた。
彼女が無事にお務めを解かれ、江戸を去るときまで私がこの手で守る。
この感情は今までに覚えたことのない、強いものだ。
大元締めは、色恋沙汰はご法度だと、一言で済まそうとするが、そんなに簡単な感情ではないのだ。
同じような生い立ちであらるのに、紫は陽、私は陰、いつもそんな宿命を感じていた。
紫がここに居ること、私が紫の近くに居ることには意味があるのだと思う。
この強い感情が、切れかかる心を平静に保ってくれている。
私は考えを巡らしながら、ひたすらに歩き続けた。
そして、まだ明るいうちに、ついに江戸市中に入った。
そろそろ、自分の存在を、紫に知らせるべきだろうか。
先に川蝉から渡された次の務めの手はずをおさらいしながら、地蔵様の前で足を止めた。
聞きなれた、お経を唱える声なら、紫も聞き違えることもなかろう。
私は、お地蔵さまを相手に久し振りの経を唱えた。
『お坊様、お上がり下さいまし』
私に、握り飯が差し出された。
偽物の坊主でも、地蔵さまに供え物をしに来た娘にとっては、有難い存在なのだろう。
『地蔵さまにお供えなさい。私はまだ修行中の身の上だ』
『いいえ。どうぞ、お持ちくださいませ、お坊様のお姿を見てから、にぎりました』
『有難い事だ。では遠慮なく頂こう』
娘は、笑顔だった。
しかし、何かしら、凶々しい影を感じた。
培われた、身を守るための勘がそう教えた。
私を知るわけもないこんな娘が、悪さを働く訳はない。
それでも私は、この娘が川越に逃げ込んだはぐれ者の一味だとなぜか確信した。
日暮れまでには、天神裏につくよ。
私は、吹く風に呟いた。
紫が御棚の中を走り回る姿が、頭の中に広がった。
3 血筋
お経を唱える声だ。
鳶がお経を唱えている。
なぜ、すごく近く聞こえるよ。
法衣が縫い上がるのと一緒に、戻ってくるなんて。
それに、元気な声だった。
私は嬉しくて、にこにことお客の相手をした。
『茜。良いことがあったのか?いつも、そうならいいのに。お前は気分に波がありすぎるな』
育ての親の、佐之助さんが、私の背中から声をかける。
大黒屋は、米問屋としては小さいけれど、たくさん上客を持っている。
中程の格の御棚だ。
けれど、東次郎さまは、なにかにつけ、江戸天神町のために働いているから、このあたりの顔役だ。
その御棚で働けるのは、私の誇りでもあった。
世間では、私は番頭さんの養女ということになっているから、不思議ではないけど。
ここに元締めの東次郎様がいたとしても、泥棒の親分を見つけたり、抜け荷の犯人を見つけたりする仕事のことは、秘密である。
私達鎖は、東次郎様が誰のために働いているのか、詳しくは知らされていない。
鳶の声は、元気だったけど、 いつもの通りに痩せているに違いない。
だから、何か精の付く食べ物が必要だ。
玉子を東次郎様に包んでもらうとして、後はしじみと、鰻にしよう。
私は佐之助さんの養女という立場を利用して、お日様が高いうちに帰り支度をはじめた。
卵を、台所からもらい、御棚のでっちを遣いにして、鰻も手にした。
帰り道、今度の仕事を考えた。
角明かしにあった娘達は、覚えがないと口々に漏らしていたらしい。
一番近いはずの呉服問屋のおさよさえ、なんだか鎖の使う術にかかったみたいなことを言っていた。
鳶の声がすぐ近くにせまってきた。
今お土産の大福を買っている。
鳶の帰った証、白い襟巻きを干そうかしら?
今度の仕事、五番組のお兄さんと一緒だといわれていたけれど、どんな人達なんだろう?
私だけは、他の組の鎖とは組んだ事がないから、やっぱり心配だ。
おさきさんは詳しくは教えてくれないし。
『茜ちゃん、いるかい?旦那様から、文だよ』
表で川蝉のこえがすると思ったら、もう玄関に立っていた。
『ありがとう勘助さん。なんだか心配だわ。五番組のお兄さんて、どんな人達なんだろう?』
『大丈夫ですよ。いつも囮役をしている役者と、夢遊の術が使える軽業師の二人です。軽業師の方は、組頭ですし、囮の方はその弟らしいです。心配の必要はありませんよ』
鳶の足音が近づいて来る。
『勘助さん、鳶が戻るわ。今前の通りに入ったところよ』
『そうかい、何だかんだ言っても怪我ひとつしない、立派なお方だな』
『いまさら危ない仕事だったみたいなこと言って!だったら、みんなで行けば良かったのに!』
『茜ちゃんが怒るほどのことじゃないはずですよ!高信さんの方は、茜ちゃんがいたらそれこそ心配するのじゃないですか?』
『邪魔物にしないで!私だって八番組の仲間よ!川蝉は、鳶が心配じゃないの?』
『高信さんは、いつも杖を持ってるでしょう?案外強いらしいですよ』
『杖は杖。刀には叶わないわよ。凄く強い相手だったらどうするって言うの!』
鳶の足音は、入り口の前で止まった。
私と川蝉の言いあいがおさまるのを、外で待っているんだ。
私は、川蝉を押し退けて、扉を開けた。
わずかな時間の間に、鳶はごみ入れに何か捨てたみたい、お土産の大福だったらどうしよう。
『お帰りなさい、兄さん。大福はどこ?』
『いきなり大福か?少しは心配してくれたかと思ったのに』
『もちろん、ずっと耳を澄ませていたわ。でも昨日まで、なんにも聞こえなかった。わざと何も話さずにいたんでしょう?』
『紫さんには、秘密にしてある事も有るんですよ。自分一人で捜査されでもしたら、組全体が危なくなるからね』
鳶が捨てたのが大福じゃないとすると、なにを捨てたのかしら?
『私だって八番組の仲間なのに。秘密があるなんて酷いわ。どんなこと?』
『今度の仕事の事です。これから話しますから、紫さんお茶をお願いします。私は、水をあびたらすぐ戻りますから』
確かに、この十日は、春なのに暑い位ひが高くて、汗も、垢もたまっているみたいだった。
『鳶、水を浴びたらこれを着て!昨日縫い上がったの』
『いつも有りがたいです。私にこんなことをしてくれるのは、紫さんだけだ』
『これくらい、なんでもないわ。針仕事も、佐之助さんが教えてくれたのよ』
私がそう言った時、二人は少し驚いた。
すぐに何もない振りをしたけれど。