鳶と紫
1 角明かし
鳶が旅に出たその日に、私は法衣を縫い始めた
あんまり帰りが早いと、縫い上がらないから、十日かそこらはかかってほしい。
そんな考えだった。
彼の声が聞こえなくなってから、もう八日もたっていた。
つまり、帰るのは、ずいぶん先になるということだ。
仕事を頼まれた時東次郎様に何か言われて、青くなってたから、私はすごく心配だ。
いつもの通り,二人は筆談だったから、鳶が請けたのがどんな仕事かはさっぱり分からないけと。
今日は、胸騒ぎがしてどうにも収まらないから、おさきさんに聞くつもりで、奉公先を脱け出してきた。
知り合いに会うのはいやだ、そう思う時に限って、数少ない友達に出くわすものだ。
隠れきれずに、隣の御棚のとよちゃんと立ち話。
結局咳をしながら話をする羽目になる。
とよちゃんは鳶に気があるから、話を聞き出そうと必死になるけど、初めから無理な話なんだ。
『茜ちゃん、お兄様ずいぶん長旅なのね』
私は、切ない気持ちに苛まれながら、適当な嘘を並べた。
おとよちゃんはすごく優しい子で、御棚の仕事じゃない事も、いろいろ教えてくれる。
私に友達と言うものが許されるとは思わないけど、おとよちゃんとは、小間物屋に行くときは、いつも一緒の仲になれた。
連れだって、お店を眺めるだけで、私は幸せな気分を味わえた。
私にとっては大切な人なのだ。
だから私は必死で芝居をする。
おとよちゃんにとって、ふつうの人でありたかったから。
下を向きながら、私は天神裏の長屋にたどり着いた。
この長屋で、私は鳶の法衣を縫っている。
布地は東次郎様に貰えたから,お金はかかって無いけど、奉公したあとの縫い物は、少し疲れた。
鳶は、とても弱い人だから、風邪をひかないように、薄く綿を入れてある。
十日で出来るつもりで始めた縫い物はもうすぐ仕上がってしまう。
私はひたすら針を進めながら、おさきさんを待った。
おさきさんは、東次郎様の次のお役目の人で、いつも綺麗な着物を着ている。
赤い帯締めを干しておくと、次の日来てくれることになっていた。
『茜ちゃん。どうしたい?難しい顔して』
『おさきさん、鳶はどこまで行ったのか知ってる?』
『知るわけなかろう?お務めのことは東次郎様しか知らぬこと。なんの知らせもないとこをみたら、無事なんだろうよ』
『おさきさん、他人事みたいだわ心配してるのに』
『茜ちゃん。色恋沙汰は、ご法度だよ?そっちの方がよっぽど心配さ』
『そんなことあるわけないじゃない!』
紫はくってかかったが、おさきは意に介さなかった。
紫はともかく、鳶の方は、まんざらでもないのを知っていたから。
なんとか答えを引き出そうと、おさきを睨み付けるが、そんな事なんの役にも立たなかった。
『おさきさんの意地悪!東次郎様に聞くから良いわ』
それでもおさきは動かなかった。
『大丈夫さね。あの子は丈夫な子なんだから、そのうちひょっこり戻って来るよ』
『丈夫なんかじゃないわ!すぐ風邪をひくんだから』
二人の会話は、噛み合わない。
『次のお務めもあるんだから、戻るだろうよ』
そう聞いて、紫は少し大人しくなった。
『おまけだよ。次のお務めは、ちょっと大変だからね』
『次のお務め…。まだ帰ってもいないのに!そんなの酷いわ』
『お務めなんだ。それに、町の娘たちが角明かされてるの知ってるだろ?いつまでも放っておけないし、もう目星はついてる』
『目星がついてるなら、お役人の仕事じゃないの!わざわざ旅に出ている鎖に頼まなくたって』
『娘の運ばれる先がちょっとねぇ』
『角明かしっていっても、みんな元気で帰って来てる。娘と一緒に、金子が届くって、おとよちゃんが騒いでたわ』
『どうしたって、おかしいだろ?それに、つれてかれるのは黒塗りの塀の向こうなんだ。何とかしなくちゃならないだろ』
『だったら、他の組がやればいいじゃない』
『八番組は、人はやらない。だから数をこなさなきゃ。他から文句がでるよ』
紫は食い下がったが、おさきの達しは覆らなかった。
それに、肝心の鳶はまだ旅の空、近づいて来たら、川蝉さんに頼んで、ゆっくり帰るように文をつけよう。
お務めに文句をつけるつもりはないけど、疲れたら良くない事がおきる。
私はそう信じてるから。
『お達しはまだ出てない。黒塀が相手だから、五番組のお兄さん達と一緒だよ』
『私はまだ誰かと一緒にお務めをしたことはないわよ。大丈夫なの?』
『大丈夫じゃない鎖なんか無いんだよ。ダメな鎖が一つでもあったら、繋がらないじゃないか?違うかい』
紫は、だんだんと怖くなって、仕方なく頷く。
おさきさんと私のいつもの通過儀礼。
『さっさと済まして休んだ方がよっぽどいいだろ?』
『分かったわよ。でも鳶はまだ武蔵の国より先にいるわよ。しかも、いっこうに近づく気配も無いんだから』
『もう戻るよう、文を出してある。心配しなさんな、もっとも紫ちゃんは、鳶が戻らない方がいいんだろうけと?』
紫は、膨れっ面でおさきを振り向いたが、落とし文が有るだけで、すでにおさきの姿はなかった。
私は、ひがんでいるわけじゃないけど、東次郎様には何となく逆らえないわけがあった。
私を育ててくれたのが、東次郎様の御棚の番頭さんだったからだ。
いきさつは知らされてないけれど、私はどうやら、捨て子だったらしい。
私を見つけたのは、郭から帰る途中の東次郎様だった。
拾うでも、捨て置く訳でもなく、すやすや眠る私を見ていたそうだ。
見かねたお供の佐之助さんは、私を家まで連れて帰ってくれた。
そして、何にもいわずに育ててくれたのだ。
お前は可愛い子だった。
佐之助さんは、いつも言う。
あの時、東次郎様が私に育てろと言わなかったら、今頃お前は、尼様になっていたんだぞ。
佐之助さんは、今でもそう言う。
そして私は佐之助さんから、読み書きとか、算学とか、踊りとか、いろいろなことを習った。
将来役に立つんだから、しっかり習え。
そう言われ、私はいろいろなことを必死にならった。
そして十三になったとき、私は、東次郎さまから、
今日から、お江戸のために働くんだ。
そう言われたのだった。
嫌なら、お寺で尼様の修行だ。
子供だった私は、何も考えずにすぐに頷いた。
その時に会ったおさきさんは、すごく優しい人に見えたんだ。
こんな、無理難題をいう人だなんて、思わなかったわ。
おさきさんは文を出したって言ったけど、川蝉さんに頼んだのかな?
だとしたら、あんまりゆっくりとはしていられない。
私に出来るのは、一刻も早く、鳶の法衣を縫い上げ、次のお務めが早くまとまるように,仕上げておくこと。
娘の角明かしとなれば、私が娘と話をしたって、不思議に思う者はない。
角明かしにあった本人に、話を聞いてみよう。
縫い物は得意じゃないから、今日で仕上がるかどうか。
でも、頑張らなきゃ。
翌日私は米問屋、大黒屋の仕事を済ませ、明かりが灯る時分に、町に出た。
そして、この前角明かされ、十日ほど前に帰った、呉服問屋の娘、おさよに出くわす為、小間物屋を、あちこち見て回った。
少し時間が遅すぎたかな、角明かされたばかりで、日の沈んでからの町歩きはないか。
私は久しぶりの町歩きで疲れたせいもあり、そうそうにおさよを捜すのを諦めて、帰途についた。
天神に向かう通りに出たところで、団子屋に入った。
お茶を飲んで、ため息を一つ。
東次郎様に拾われず、尼様になっていたら、どんな毎日だったんだろうかと、鎖となって働いた三年を思った。
後ろをむいたのは、おさきさんにきついことを言われたからに他ならない。
私には、いくところも、やりたいことをやる自由もない。
だからせめて、仲間を思う気持ちくらいくんでほしい。
おさきさんは、あれからあんまりしゃべらない。
きっと怒っている、なにしろおさきさんは唯一東次郎様に意見の出来る人だから。
『おや、これは、大黒屋さんの茜ちゃんじゃないか。御使いの帰りかい?』
『あら、濃尾屋の勘助さん』
もう戻って来たの!急がなきゃ!でもまだ鳶の声は聞こえてこない。
『勘助さんは、どこから戻ったの?』
『前橋に、お届け物があったんですよ。おさきさんに頼まれてね。でもまだ、出来てなくてね。二三日かかりそうだ』
『それなら良かったわ。私、法衣を縫っているところだったの。でもなかなかおわらなくて』
『おさきさんには内緒ですよ。また怒られる』
『わかったわ。でも、まだ出来てないって、そんなに大変な仕事だったのね!』
『えぇ、でも心配はいりません。道理の分からない奴に文を渡しに行っただけですから』
『茜さんは、もしかしたら下調べですか?気を付けないといけませんよ。鳶さんはいないんだ。何かあったら、怒られただけじゃすまないですからね』
『だってあんまりお務めが続くから、せめて、すぐに片付くように、しておいてあげたいの』
『茜さん。それは私のお務めですよ。なんだか追っ手があるようだ。送りますから、すぐに帰りましょう』
『追っ手?』
『さらわれるのは、みんな小柄な娘ばかり。茜ちゃんが狙われてもおかしくないんですよ。鳶さんも心配なさってる。今日のところはもう帰りましょう』
『鳶が。今、どんなお務めをしてるの?』
『言えませんよ。わかってるでしょう?でも、文を届けるだけだって、言ってましたから』
『そうなの。誰に?』
『勘弁してください。さぁ』
川蝉は優しいけれど、お務めの決まりごとは、絶対なのだ。
席を立とうとしたとき、人相書きのおさよちゃんが、目の前を通った。
間違いない。
川蝉が近くにいたってかまわない、私は機会を逃す気はなかった。
『おさよちゃん、良かったわね。心配したのよ』
おさよは振り返ったが、私に興味は示さなかった。
お供の店の者は、明らかに迷惑そうな顔をした。
私はそれでもおかまいなしに、話しかけるのを止めなかった。
勘助も、下手な口出しはせず、見守るつもりらしい。
『私は、大黒屋の茜です。あんなこと怖いから、話を聞きにきたのよ』
『あんなこと?』
おさよは、ごく自然にそう言った。
まるで、本当に知らないみたいだ。
お供の焦る様子を見ると、おさよちゃんは、ほんとに我が身に起きたことに、関心が無さそうだ。
『あなたは、大黒屋の番頭さんのお嬢さんでしたか!御嬢様は、眠らされていたらしいのです。だから、相手の顔も、どこへ連れて行かれたのかも覚えてない。ですが、怖い思いもなさらなかったと見えて、もう普段と変わらぬ暮らしぶりをなさっています』
『私と、年も同じ、背丈もにてるから、すごく心配で。ただ話が聞きたかったのよ。私はもう母がないし、何かあったら、父がどうなるか気がかりで』
初め警戒していたお供の男は、紫の言うことを、信じたらしい。
それに、米問屋の番頭に嫌われるのはあんまりいい事じゃないから、すごく扱いやすくなった。
『その時、お供のかたはいらっしゃらなかったの?』
『もちろん居ましたよ。でもねぇ、茶の湯のお稽古の最中だったから、供の者は外で待っていましたからね。おかしいと思ったのは、お弟子さん達みんな帰ってからだったらしいです』
『聞かせてくださってありがとうございます。父にも話して、お供を増やしてもらうわ』
『そうなさった方がいい。全く怖い世の中ですね』
いくら眠っていたって、何にも覚えてないなんておかしいわ。
川蝉はどんな風に思ったかしら?
ちらと川蝉を振り返ったけど、顔だけ見ても、何を考えているかは分からなかった。
『しかし、お供も無しに、町歩きは、角明かしの一件がなくたっていけませんよ。まぁ、茜ちゃん。の顔を知ってる人は多いですけど、佐之助さんは、心配でしょう』
『はい、はい、分かりました。もういたしません。お江戸の町の人は、みんなお得意さんだから、怖い思いも、したことないんだもの』
『やれやれ、それじゃおいとまを』
しばらく、私達は話をしなかった。
互いに、考えをまとめているのだと分かっていた。
まずいことになった。
すごくまずい。
薬を使って、人の心を操る。
そんな事をした奴がいる。
鎖にだけ許されている禁じ手を、使った奴がいる。
『報告をしなくちゃなりません。五番組の連中にも、知らせておきます。茜ちゃんは、くれぐれも気を付けて行動して下さいよ』
鳶のいない事が、今は救いのような、そんな気がしていた。
私は、鳶のことを考えながら、天神への道を歩いていた。
川蝉から渡された提灯には、大黒屋と名前が入っていた。