前編
前編を大幅に改稿しました。
以前の話を読んだままの方は読み直してから後編を読んでいただけると…!
お手数おかけして申し訳ありません…っ
「翔子に会うのなんか楽しくねぇよ。」
嫌そうに吐かれた 聞きなれた 声。
その残酷な内容に、女は浅く息を吐いた。
声の聞こえた窓を鏡越しに見据える。
彼は喫茶店に入るところのようだ。
喫茶店のお手洗いが入口近くにあり、
窓が開いてると外の声が筒抜けなのを知らないのだ。
…そう、その女が聞いているとは 知らないのだ。
だからつい、ポロリと本音が出た。
女の前では決して言わない、本音が。
空は快晴。風は温かく、春の日差しがキラキラと煌めいて、
その中で女の心だけが冷水をかけられたかのように冷たく悲鳴をあげていた。
彼女の名前は川島翔子。
中小企業に勤める若干ぽっちゃりの平凡なOL。未婚で30歳。
顔立ちは平凡といえど、不器量なわけではないが
オドオドとした表情が、彼女の存在を小さく見せている
そんな女性だ。
カランコロンと音がして、彼の話し声も途絶える。
どうやら店の中へ入ってきたようだ。あぁ、逃げる機会も失った。
翔子は目に映る景色が歪み始めたのを見て、慌てて顔を洗う。
泣いては いけない。
泣いてしまえば、悪態をつきながらもどこか優しい目をしたあの人は
無自覚に傷つくに違いないのだから。
業務用コーヒーミルの、控えめとは言いがたい激しい音が聞こえ、
翔子は、その音に紛れるようにカウンター席へと戻った。
ここはRabbit-Hole 『うさぎの穴』
人の良さそうな老紳士がコーヒーを淹れる、隠れ家のような喫茶店
翔子は ここで毎週、とある男性と会っている。
付き合っているわけではない。
何故、会うのかと問われれば、彼が会ってくれるからだとしか言えない。
何故、彼が会ってくれるのかと問われれば、翔子にその答えは返せない。
ただ、会ってくれるからには彼も翔子のことを憎からず想ってくれるのではないかと
数分前までは確かに期待をしていた。
「ゲェ!おいおい…あんたマジかよ……」
足音は聞こえなかったであろうに、
茶色い髪を短く刈り上げた勝気そうな彼…――明良は
後ろに立つ翔子の姿にすぐ気がついた。
もしかしたら自分のことを待ちわびていたのだろうか
そんな想いを翔子は すぐさま打ち消す。
バカなことだ。今さっき聞いたではないか。
はっきりと
彼の口から
翔子と会うのは楽しくないのだと。
それはつまり同情だったのだ。
彼より10も年上のこんなオバサンが
見っともなく、のぼせあがっているのを見て
むげに出来なかっただけなのだ。
バサリと視界が塞がる。
おしぼりをかぶせられたのだと気付いた時には
明良の力強い手でゴシゴシと顔を拭われていた。
凹凸のある布は翔子の弱い肌を否応なしに傷つけたが
悲しいかな、それでも翔子の胸は高鳴るばかりだ。
「ビッチョビチョじゃん。便所で水浸しとか…ねぇわー…」
なに?便器にでもハマったの??と、明良の悪態は続く。
翔子がいかにドジで、とろくて、どんくさいのか。
過去の失敗談をあげつらね、
とうとう、化粧が落ちてブサイクだの、
ババアのスッピンなんて見られたもんじゃないだのと言われたあたりで、
翔子の目からは涙があふれた。
言葉に傷ついたわけではない。彼の悪態は毎度のことで、
そのポンポンと飛び出す暴言ですら翔子にとっては愛おしく
この悪態が聞けるのも今日が最後だと思うと、ただただ悲しかった。
「……?お、おぉぉおお!?痛ェなら言えよアンタ…っ」
あわてたようにタオルを離されるのが惜しくて、キュッと明良の手をにぎる。
一瞬だった。
目を見開いた明良は、はじいた。
汚いものに触れたとでも言うように反射的に
翔子の手を はじいた。
どっ
と、笑い声が響く。
店の奥へ目をやれば、明良の友人たちが腹を抱えて笑っていた。
今まで何度となく見た光景だ。
付きまとっているオバサンが明良に嫌がられる その姿が
さぞかし滑稽だったのだろう。
「ウッセーぞオメェら!!」
怒髪、天を衝くといった形相で顔を真っ赤にした明良が友人たちに吼えた。
これ以上、彼に迷惑は かけられないと、翔子は すぐさま立ち上がる。
「明良くん…!わた、わたし…実はこれから仕事があって…」
「はあぁ?じゃあ何で今日来たんだよ。メールでも寄越せば、日にち ずらすっての。」
「…いいの。」
「よくねぇって。はぁ…お前ほんとバカ。じゃあ、次は いつにすっかね…」
「…もういいの。」
「よーくーねぇっ!あ、来週…」
「もう…次の約束は、いいの。」
ぴたり と、明良が動きを止める。
その顔に浮かぶのは安堵だろうか、喜びだろうか、
確認も出来ぬまま翔子は顔を背け、扉の方へと足を向けた。
途中、明良の友人たちの驚きに見開いた目が視界に入り
翔子は自分の配慮の足りなさを恥じる。
これでは、翔子が明良をフったようではないか。
(つくづく救いようがないなぁ…)
きっと明良は憤怒の表情でいることだろう。
何ヶ月もこんなオバサンに付きまとわれ、
その必死さを哀れんで会ってくれていたというのに
最後は友人の前で逆にフラれるような真似をされたのだから。
店を出ると、春の陽気が頬をなでる。
街には人が溢れていて、翔子の目に涙が溜まっていることになど誰も気付かない。
肩がぶつかるような距離ですれ違いながらも、誰かと触れ合うことはない
そんな日常へと、彼女は再び歩き出した。
そんな出来事から一ヶ月は過ぎたであろうか。
翔子の日々は変わらない。
毎日ご飯を食べ会社に行き仕事が終われば家に帰って、ぼーっと過ごす。
休日は無駄に部屋の掃除をし続けて、
今では棚を引っくり返しても埃が出ないまでになってしまった。
明良と会う前の生活に戻っただけだというのに、明良と会った今となっては
過去の自分と同じようには いかない。
テレビをつけては
『あぁこれ、明良くんが嫌いだと毒づきながらも何故か毎週見てた番組だ。』
とか
炒飯を作っては
『ピラフを「この油っこい炒飯うめぇ」って食べててマスターに微妙な顔されてたなぁ』
とか
そこかしらに明良の思い出があって、翔子は今日も重いため息をつく。
そんな時、翔子の携帯電話に一本のメールが入った。
『土曜の15時。うさぎの穴で』
明良くんだ!
翔子は驚きと喜びで携帯電話を握り締め部屋中をうろうろとする。
ベランダに出たあたりで返信をしなければと思い至り、
それから、たっぷり一時間かけて長文を打っては消し 打っては消し
最終的に 『はい。』 と、ひと言返した。
何を言われるのであろうか!付き合ってとか?いなくなって大事さに気付いたとか??
そこまでじゃなくとも、また、こうして約束をしてくれるということは
会いに行っても良いということだ!それだけで…それだけで……っ
そわそわと逸る心が押さえきれず、
翔子はメールが来るまで読んでいた雑誌をバサバサと乱暴にめくる。
雑誌には、この春イチオシのリゾートホテルと銘打たれた特集がやっていて
ブラウンとオフホワイトを基調とする上品なホテルのスイートルームが載っていた。
(そういえば、初めてはこんなところがいい、みたいなバカな話もしたっけ…)
確か、男性と付き合ったことがないと告げる翔子に
理想が高いんじゃねーのと明良は何だか、ぶっきらぼうに言って
『きっとアンタ、「初めてはオーシャンビューのスイートルームで白馬に乗った王子さまとアンアンしたいわー」とでも夢見てんだろ。けーっ 現実見ろよな…!』
『え…!あ…そんな…こと、考えたこともないけど…でも、そんな初めてだったら素敵だね…』
『……………マジか』
『え…?…う、うん。』
明良は何故かカウンターに突っ伏し
どっ と、また明良の友人たちが笑い出して…
いつも気の利いた返しが出来てなかったけど、
あの時が最たるものだったと翔子は雑誌に顔をうずめる。
でも、もしかしたら、そう、万が一でも、
明良の方から逢いたがってくれているのだ
自分の初めてを良いホテルでなんてことも夢じゃないかもしれない。
当日、翔子は珍しくポジティブな気持ちで喫茶店へと向かった。
席について、まだ明良が来てないことを確認すると鞄の中の通帳を見る。
無趣味でこれといったお金の使い道もない翔子の残高は、そこそこの額だ。
これなら、明良がどんな夜を所望したって答えられるかもしれない…
そこまで考えて、フと、ある思いが頭をよぎった。
これが明良の目当てなのでは?
そうだ。自分と会うことで明良が得られるようなメリットなど、これぐらいではないか。
そうだ。楽しくないのに会い続けていたのは、ひとえにお金という目的があったのでは?
そうだ。きっとそれなのに目標を達せぬまま私が会うのを止めたから……
「川島ちゃーん!ごめんねぇっ」
急に後ろから、年若い女性の声で親しげに自分の名を呼ばれ、
翔子は思考回路の海から顔を上げた。
親しげに話しかける女性の身長は低く、150cmにも満たない体躯で
一瞬子供かとさえ思わせたが、
化粧で映えた顔つきや声のトーンがどこはかとなく大人の色気を思わせ、
成人している女性だと主張しているようだった。
誰だろう。
記憶を辿るが、見覚えがある以上の情報は出てこない。
だが、翔子を年上とも見ない清々しいほどのタメ口に誰かを彷彿とさせる。
まさか。
「今日、明良は来ないの。あたしがスマフォ拝借してメール送ったんだよね…」
明良の名前にビクリと身体がゆれた。
そうだ。たしか、明良に良く話しかけてきた顔ぶれの中に、彼女の顔もあった。
明良の友人だ。
「騙すようなことしてごめんねぇ。でも来てくれたってことは、明良のこと、まだ好きなんだよね??」
ね?だよね??と何故か必死に確認され、思わずうなずく。
どういうことであろうか。もう明良に付きまとうなとでも言われるのだろうか。
ならば、こんなことしなければ、自分はもう明良に会おうとなどとしなかったのに。
「あ、ああああの…ででもわたし、もう…明良くんとは会いませんから…っ!」
これで安心してもらえるだろうと翔子が満足気に彼女を見ると、
小柄な彼女は驚いた顔を見せ、崩れ落ちたあと、がばりっと起き上がり
必死の形相で翔子に しがみついて言い放った。
「そこをなんとか…!!」
窓の外は未だ春の匂い。
でも一ヶ月前より強くなった日差しが喫茶店に差し込んで、
翔子の目には以前よりハッキリと店内が映る。
しがみついている小柄な女性の後ろには、付き添うように2m近い大きな男性が立っていて
さらに数メートル離れたところに苦笑やら困った表情を浮かべる
見覚えのある青年たちが立ち並んでいた。
日の光に照らされた明良の友人たちは、皆、人の良さそうな顔をしていて
翔子は、
彼らが自分を あざわらっている とは
もう、思えなかった。