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「業務効率のためです」と無表情で俺の好物を差し入れしてくる同僚が、「結婚していなくなったら困るか」と聞いてきた

作者: ましろまち
掲載日:2026/10/20

午前九時まで、あと十一時間四十二分。


俺は画面右下の時刻を確認し、見積もりシートの最終行にカーソルを合わせた。


「森下さん、ここの年間運用費ですが、先方の提示条件と数字が合っていません」


「確認しました。旧仕様の保守費用が残っています。こちらを更新すれば、合計も一致するはずです」


「了解です。修正後、グラフも連動しているか見てもらえますか」


「そのつもりです。浅野さんは提案書の二十八ページをお願いします。導入効果の算出根拠が、前の版のままになっています」


「もう直しました」


「……早いですね」


「森下さんが次にそこを指摘すると思ったので」


栞は俺の画面を一度だけ見て、それから自分のモニターに視線を戻した。


「では、確認する手間が省けました」


「助かります」


「こちらこそ」


会話はそこで途切れた。


隣の席から聞こえるのは、キーボードを打つ乾いた音と、マウスのクリック音だけだ。


営業企画課のフロアは、午後九時を回っても蛍光灯の白い光に満ちている。窓際の島では営業部の若手が電話にかじりついており、少し離れたガラス張りの会議室には、明日の役員報告に備えて資料を読み込んでいる課長の姿があった。


俺たちのデスクは、そのフロアの中央にある。


俺が作った骨子を栞が検証し、栞が整えた数値を俺が顧客向けのシナリオに落とし込む。確認の依頼も修正の指示も、いちいち相手の名前を呼ばなくなって久しい。


浅野航平、二十七歳。営業企画課の主任になって二年目になる。


新卒で入社して今年で五年目。院卒のため学年としては栞の一つ上だが、社歴としては同期入社で、役職も同じだ。


俺のスタンスは、悪く言えば淡泊、良く言えば徹底した合理主義だと思っている。感情論で根回しを増やすよりも、穴のない数字と論理で最短距離を抜けるほうがずっと費用対効果が高い。残業も無駄な根性論も好まない。終わるべき時間にきっちり終わらせて帰るのが一番美しい。


だから、隣にいる同期とも自然と波長が合った。


森下栞、二十六歳。


営業企画課の主任で、俺と同じ役職だ。


配属当初から数字に強く、重箱の隅をつつくような整合性の乱れを瞬時に拾い上げる。誰かが作った資料に杜撰な計算ミスを見つけても、感情を交えて責め立てることはない。淡々と該当箇所を示し、根拠を突き合わせ、最短の手順で是正する。


他部署からは「隙のないキャリア志向」と見られているらしいが、実態はもっと簡潔だ。無駄な社内政治を嫌い、根拠のない楽観論を嫌い、締め切り直前に「そこを何とか」と泣きついてくる人間を何より嫌う。


要するに、似た者同士だった。


「浅野さん」


「はい」


「二十八ページ、確認しました。算出根拠の更新、問題ありません」


「ありがとうございます。比較表はどうですか」


「整いました。削減率の分母を統一したので、旧版より説明が通りやすいはずです」


「見せてもらっていいですか」


栞がモニターの角度をわずかにこちらへ傾けた。


数字の並びを追い、グラフの凡例を確認し、注釈の位置を見る。


「いいですね。これなら先方の役員も突っ込めないでしょう」


「では、確定版に反映します」


「お願いします」


俺が自分の画面に向き直ると、栞はすでに次のシートを開いていた。


迷いがない。


こういう仕事のやりやすさを、俺は心底から買っていた。


……優秀なビジネスパートナーとして、という意味だ。


そこに別の意味を付け足す必要はない。


俺は画面をスクロールし、表の罫線を整え直した。


余計な思考が巡りかけたときは、指先を動かして作業に没頭するに限る。


少なくとも、デスクの上にいる間は。


*

「浅野さんたち、明日のコンペ、もう大詰めですか?」


午後九時半。


給湯室脇の休憩スペースで冷たい紙コップを傾けていると、営業部の佐伯がやってきた。


「最終確認中です。提出は明日の午前九時なんで、まだ気は抜けませんけど」


「いやあ、二人のコンビは盤石ですよね。営業からすると、あの島に投げれば最短で完璧な提案書が返ってくるって、課内でも評判ですよ」


「片づけないと帰れないだけです」


「そういうドライなとこも似てますよね。森下さんも浅野さんも、感情のブレがなくて仕事が速い。社内最強の同期ユニットって言われてますよ」


俺は曖昧に肩をすくめた。


買い被られるのは性に合わない。


「森下さんが細かいところを全部拾ってくれるからですよ。俺の側は、彼女のレビューが通る前提で組んでる部分も多いんで」


「出ました、相棒への絶対的信頼」


「業務上の合理的な役割分担です」


「さらっとそういう言い回しをするあたりが、もうね」


佐伯は自販機のフラップを開けて缶コーヒーを取り出し、プルタブを引いた。


「そういえば、森下さんの話、耳に入ってます?」


「……何の話ですか」


「他部署の課長が、森下さんに知り合いを紹介したいって打診したらしいですよ。要するにお見合いというか、手堅い紹介話ですね」


紙コップの縁を持っていた指先が、わずかに止まった。


自分でも意識してしまう程度には、はっきりと。


「へえ」


俺は残っていた水を飲み干した。


「森下さんに。珍しいこともあるもんですね」


「相手はグループ系列の専門職で、家柄も良くて身元もしっかりしてる三十手前らしいです。まあ、森下さんほどの器量なら、放っておかれないのも当然でしょうけど」


「本人がどう判断するかでしょう」


「それはそうですけど。浅野さんから見て、森下さんがそういう話に乗るイメージってあります?」


「ないですね」


淀みなく言葉が出た。


栞はいつだって仕事を第一に置く。


無意味な飲み会には一次会で明確に線を引くし、私生活の影を社内に持ち込むこともない。誰かと親密にしている気配も、入社してから一度も見かけた覚えはなかった。


手堅い身上書の男とお見合い。


そんなことに貴重な週末を費やすくらいなら、読みかけの専門書を片づけているほうが、ずっとあいつらしい。


「ですよね。仕事人間ですもんね、あの人」


「目の前の案件を片づけるので手一杯でしょうから」


「浅野さんも人のこと言えないくらい働いてますしね。二人とも、しばらく結婚とか無縁そうだなあ」


「さあ。どうでしょうね」


俺は紙コップを屑籠へ落とした。


底に当たる乾いた音が、会話を切り上げる合図になった。


「じゃあ、席に戻ります。明日の朝までに提出データまとめなきゃいけないので」


「あ、すみません引き留めて。頑張ってください」


「お疲れさまです」


フロアに戻ると、栞は変わらぬ姿勢でモニターに向かっていた。


蛍光灯の白い光が、整った横顔を無機質に照らしている。普段と違うところは何一つない。


紹介を受けるのか。


断るに決まっている。


そう結論づけようとして、自席のオフィスチェアに腰を下ろした瞬間、思考に微かな軋みが生じた。


相手はどんな男なのか。


栞は本当に、眉一つ動かさずに突っぱねたのか。


そもそも「私生活に興味がない」などと、なぜ俺が勝手に決めつけているのか。


栞は今年で二十六歳だ。


実務能力が高く、無駄口を叩かず、容姿も整っている。周囲が放っておかないのも道理だし、誰かと家庭を築く選択肢を現実的に検討していたとしても、何一つ不自然ではない。


俺が知らないだけだ。


職場の同期という枠組みの外にあることは、知らなくて当然だった。


モニターの前に置いた右手が、マウスを握ったまま動かなくなる。


シートの数式バーにカーソルを点滅させたまま、ディスプレイの同じ行を見つめ続けていた。


「浅野さん」


不意に、横から声が飛んできた。


「はい」


「先ほどから、スクロールも打鍵も完全に止まっています。視線が同じ行でフリーズしていますよ」


栞の冷静な指摘に、我に返った。


「……すみません。別の箇所のロジックを頭の中で組み立てていました」


「集中力が切れているなら、無理に画面を凝視しても効率が落ちます。これ、使ってください」


栞がこちらのデスクの端に、小さな箱をことりと置いた。一回使いきりタイプの、個包装された人工涙液の目薬だ。


「あ、ありがとうございます。……でも、森下さんの私物ですよね」


「箱買いして引き出しに常備しているものです。未開封ですから衛生面も問題ありません。確認作業の精度が落ちて手戻りが発生するより、目薬一本を消費するほうがはるかに合理的です」


「……おっしゃるとおりです」


俺は苦笑しながらプラスチックの先端をねじ切り、両目に落とした。


まぶたを閉じると、ひんやりとした液体が熱を帯びた眼球を潤していく。


数秒の暗闇の中、隣で書類をめくる乾いた音がした。


目を開けると、栞はすでに自分のディスプレイへ視線を集中させていた。デスクの端には、以前の備品発注で栞が補充してくれた付箋が整然と積まれている。栞は淡いブルー、俺はホワイト。


気づいたほうが無駄なく発注を済ませるという、ただのルーチンワークだ。


佐伯から聞いた話など、俺が口にしない限り伝わるはずもない。


伝える理由も、確かめる権利も、俺にはない。


キーボードに指を戻し、見積もりの検証を再開した。


*

午後十七時四十二分。


共有フォルダの提出用データを課長と最終チェックしようとしていた矢先、そのメールは届いた。


件名は「【至急】明日提出分の提案内容および試算条件の変更について」。


差出人は、今回のコンペ対象であるクライアントの企画部長だった。


本文を素早くスクロールし、添付ファイルを開く。


喉の奥が引き締まる感覚があった。


仕様の根幹に関わる方針変更。


導入拠点の対象数を当初の倍近くへ拡大。既存の基幹システムとの連携方式をバッチ処理からリアルタイム連携へ変更。現場の運用フローを見直すため、初期費用、運用費用、導入スケジュール、現場向け教育工数の再試算を明朝までに差し替えてほしい、とある。


添付された要件定義書の改定案には、赤字の注記がびっしりと並んでいた。


提出期限は、変わらず明日の午前九時。


「森下さん」


「把握しました」


栞はすでに改定案を開き、手元のメモ用紙にペンを走らせていた。


「まず影響範囲を分解します。費用、開発工数、導入スケジュール、教育計画。数字が連動している箇所を洗い出さないと、全体の整合性が崩れます」


「同感です。前提条件の確認が必要な項目は、こちらから先方へ即座に質問を投げます」


「社内側で即座に試算可能な部分は、並行して走らせましょう」


「要件の切り分けと構成の組み直しをお願いできますか。俺は費用モデルとスケジュールの再計算に入ります」


「承知しました」


栞はシートの複製を作り、影響度ごとにセルを色分けし始めた。


俺は電卓を叩きながら、マスターの見積もりモデルを修正していく。


拠点が倍増すれば、現地展開の要員配置計画が完全に狂う。連携方式が変われば、初期の結合テスト期間を延ばさざるを得ない。どこか一箇所を動かせば、ドミノ倒しのように他の数字へ波及する。


こういう緊急時ほど、反射的に手を動かしてはいけない。


全体を俯瞰し、影響度を測り、手戻りのない順序で潰していく。


栞はその手順を誰よりも徹底していた。


「浅野さん、先方への確認事項が三点あります」


「お願いします」


「一点目、基幹連携のインターフェース仕様です。リアルタイム連携の対象となるデータ項目が明記されていません。これでは開発工数の上限が切れません」


「メールで即座に投げて、未確定時のバッファ前提を注記します。二点目は?」


「教育計画です。拠点が増える一方で、現場担当者の拘束時間を半減させたいという要望が追加されています。オンライン前提のセルフラーニングで押し切るか、対面サポートの別枠見積もりを提示するか、判断を仰ぐ必要があります」


「三点目は」


「削減効果の試算根拠です。入力工程の自動化により効果は上がりますが、連携仕様が確定しない限り、確定値としては出せません。ここは幅を持たせたレンジ表記にするべきです」


「了解です。質問票の形にまとめて俺から送ります」


「お願いします。回答待ちの間に、手元の確定枠を埋めましょう」


先方の担当窓口へ質問メールを送信。


ここからは時間との勝負だった。


定時を過ぎ、フロアから一人、また一人と人が減っていく。


午後八時。


午後九時。


午後十時。


フロアに残っているのは、奥の島で別のトラブル対応をしている総務の数人と、俺たち二人だけになった。


十時半を過ぎた頃、先方から簡潔な回答が戻った。


データ連携の詳細仕様は社内情シスが明日以降でなければ出せないこと。教育はオンラインを基本としつつも主要拠点のみ対面を希望すること。


「……これだと、最終的な見積もり総額は確定できませんね」


「ですね。確定部分と、条件付きの前提枠を綺麗に切り分けて見せるしかありません」


「数字を曖昧にしたまま提出するわけにはいきませんから、注記と前提条件をガチガチに固めましょう」


「同意です」


作業方針が完全に一致したところで、栞がオフィスチェアを少しだけ引いた。


「浅野さん」


「はい」


「夕食をまだ取っていませんよね」


「……そういえば」


空腹すら忘れていた。時計を見れば十時四十分を指している。


「コンビニに行ってきます。何か買ってきましょうか」


「不要です。夕方、仕様変更のメールを確認した直後に買っておきましたので」


栞は足元のキャビネットから、小さな紙袋を取り出した。


中から出てきたのは、具だくさんのサンドイッチと無糖のヨーグルト、それに素焼きのナッツだった。


「浅野さんの分です」


「……え」


「あの要件を見た時点で、終電を逃すのは目に見えていましたから」


栞は紙袋を俺のデスクの端に置いた。


遅い時間の作業で油っこいものを食べると翌朝の胃に来るからと、以前、夜食の揚げパンを避けていたことがあった。それを覚えていたのだろうか。


「ありがとうございます。いくらでしたか」


「結構です。まとめて清算したので細かい額は気にしないでください」


「そういうわけにはいきません」


「では、次に浅野さんが買い出しに行くときに相殺してください」


そう言って、栞はすでに画面へと意識を戻していた。


業務効率を最優先した事前のリスクヘッジ。


相棒が低血糖でパフォーマンスを落とせば作業全体が遅延する。至極真っ当で、極めて合理的な配慮だ。


それ以上の感情を読み取ろうとするのは野暮というものだった。


俺はサンドイッチのフィルムを剥がし、咀嚼しながら計算シートの更新を続けた。


*

午前一時十二分。


終電の文字は、とうに乗換案内アプリから消え失せていた。


タクシーで一時帰宅しても、移動と身支度で睡眠時間は削られる。提出完了までこのままデスクに張り付いているほうが、はるかに合理的だった。


栞も同じ結論に至ったのだろう。帰宅の可否についての相談すら発生しなかった。


「浅野さん、構成案を整理しました」


共有フォルダに上がった資料を開く。


総ページ数は当初の四十枚から三十六枚へスリム化され、変更点の対比表が冒頭に配置されている。前提条件の注釈は各ページの最下段に統一され、突っ込みどころが極力排除されていた。


「素晴らしいですね。これなら先方の役員会でもロジックの破綻を突かれる心配はありません」


「ありがとうございます。では、この構成で数値を流し込みます」


「お願いします」


タイピングの音が再びオフィスに響き始める。


集中力が研ぎ澄まされる一方で、眼球の奥に重い疲労が沈殿していくのがわかった。


「浅野さん」


ふと呼びかけられ顔を上げると、栞が無言でスチール缶を差し出していた。


黒いラベル。無糖のブラック。


俺が徹夜作業のとき、必ず選ぶ銘柄だ。


「……ありがとうございます」


受け取ると、冷気が手のひらに染みた。


「下の自販機ですか」


「ええ」


「森下さんは?」


「私は緑茶です」


栞は席に戻り、ペットボトルのキャップを開けた。


俺は缶のプルタブを起こした。乾いた金属音が静まり返ったフロアに響く。


一口含むと、苦味が疲れた頭をわずかに覚醒させた。


「いつも完璧に把握されてますね」


つい、口から零れ落ちた。


栞はキーボードから指を離さずに言った。


「データとして記憶しているだけです。同じ案件をいくつもこなしていれば、同僚の行動パターンなど自然と把握できます」


「データ、ですか」


「浅野さんは深夜の作業時、甘い缶コーヒーを避けてブラックを選びます。夕食が遅いときは炭水化物のみの摂取を避けます。業務を円滑に進めるための共有知見です」


「俺のほうは、森下さんの好みをそこまでデータ化できてない気がしますけど」


栞のタイピングが、ふっと止まった。


「そうでしょうか」


「そうですよ。森下さん、プライベートで何が好きなのか、ほとんど聞いたことがない」


「……業務に関係のない情報ですから」


「まあ、今はインターバルの時間ということで」


栞はモニターを見つめたまま、わずかに唇を結んだ。


そのまま作業に戻るかと思ったが、小さく息を吐いて口を開いた。


「休日は、書店を巡ることが多いです。食事なら蕎麦ですね。温かいものより、冷たい蕎麦を好みます」


「蕎麦。それは少し意外ですね」


「何が意外なのですか」


「もっと、休日は家で英語の論文でも読んでいるのかと」


「読むこともありますが、それだけではありません。ただの人間ですので」


淡々とした物言いに、思わず口元が緩んだ。


冷たい蕎麦が好きで、休日に本屋へ行く。


知ってしまえば何ということもない、等身大の二十代の横顔だった。


だが、俺は今までその些細な日常すら尋ねようとしなかった。


仕事のパートナーという安全な境界線を越えてしまえば、この心地よい緊張感と合理的な距離が崩れてしまうのを恐れていたからだ。


「浅野さんは、休日はどう過ごしているのですか」


「俺ですか。たまっている洗濯物を回して、部屋を掃除して、あとは適当に散歩して終わりですよ。至って平凡です」


「……仕事を持ち帰ってはいないのですね」


「休みに仕事を持ち込むのは非合理的ですから」


「少し安心しました」


「安心?」


「浅野さんは、責任感から無理を抱え込みがちですから」


その声には、同情や気遣いといった湿っぽさはなく、ただ観察事実を告げるような冷静さがあった。


「森下さんに言われるとは思いませんでしたよ」


「私もそう思います。自覚はあります」


栞はそこで初めて、こちらへ視線を向けた。


「お互い様、ということですね」


視線が合って、胸の奥がわずかにざわついた。


俺はブラックコーヒーを口に含み、喉の渇きを紛らわせるように飲み下した。


*

午前二時を回った頃、フロアの空調が送風モードに切り替わったのか、肌寒さを感じるようになった。


栞は椅子の背にかけてあった薄手のカーディガンを肩に羽織っている。俺はネクタイを緩め、シャツの袖を捲り上げた。


作業の峠は越えていた。


試算表のセル参照はすべて検証を終え、スケジュール表との不整合も解消されている。残すは資料全体の体裁調整と、提出用PDFへの書き出しだけだった。


「浅野さん、費用モデルの最終確認、完了しました」


「こちらもスケジュールの調整を終えました。全体の整合性は取れています」


「では、五分だけ目を休めましょうか」


「そうしましょう」


栞が椅子の背もたれに体を預け、小さく肩を回した。


深夜の静寂が、二人の間に落ちてくる。


時計の秒針が刻む音だけがやけに大きく聞こえた。


頭の中に、佐伯の軽薄な声が蘇る。


他部署の課長から、紹介の話があったらしいですよ。


聞く必要のないことだ。


プライベートの領域に踏み込むのは、俺たちのルールに反する。


そう自分に言い聞かせながら、俺の手は空になった缶コーヒーの底を無意味に弄んでいた。


「森下さん」


「はい」


「……昼間、佐伯から少し耳に入ったんですが」


栞の視線が、ゆっくりとこちらへ向けられた。


「他部署の課長から、どなたかを紹介される話があったそうですね」


言ってしまってから、自嘲したくなった。


疲労のせいで、思考のブレーキが緩んでいる。合理的でも何でもない、ただの詮索だ。


栞の手が、デスクの上でぴたりと止まった。


「佐伯さんからですか」


「ええ。しっかりした方を紹介したいという話だったとか」


栞は表情を崩さなかった。


ただ、伏せられた長い睫毛が、微かに影を落としている。


「森下さんなら、そういう話が来ても不思議ではないと思いましたし……まあ、今は案件で手一杯でしょうから、受ける余裕もないだろうとは思いましたけど」


言い訳のように言葉を重ねる自分が、ひどく無様だった。


何を聞き出したいのか。


断ったという事実を確認して安心したいだけではないのか。


「浅野さん」


静かな声だった。


栞は真っ直ぐに俺の目を見据えていた。


「仮に私が誰かとお付き合いをして、将来的に環境が変わるようなことがあれば、浅野さんは困りますか?」


呼吸が止まりかけた。


試すような響きはない。ただ、純粋なファクトを確認するかのような、透き通った声音だった。


俺は缶コーヒーをデスクに置き、指先を組んだ。


合理的な答えなら、いくらでも用意できる。


キーパーソンが抜ければ案件の遂行に重大なリスクが生じる、引き継ぎコストが膨大になる、新しいパートナーとの連携を再構築するのに数ヶ月を要する――。


だが、そんなビジネスの建前で誤魔化すことは、目の前の相手に対する不誠実でしかなかった。


「……困るよ」


乾いた喉から、低く絞り出すような声が出た。


「仕事にならなくなる」


「仕事の相棒として、ですか?」


重い沈黙が落ちた。


サーバールームの低い唸り声が、遠くから響いている。


俺はキーボードの縁に指を添え、それからゆっくりと力を抜いた。


「……それだけじゃない」


一度吐き出してしまえば、もう取り繕うことはできなかった。


「仕事以外の部分でも、困る。お前が隣にいるのが、いつの間にか当たり前になってたからだ」


栞の瞳が、わずかに揺れた。


感情を露わにすることのない彼女が、膝の上で握りしめた拳にぐっと力を込めたのが見えた。


「……そうですか」


「ああ」


「それなら、もう少し早く言ってほしかったです」


栞は視線をディスプレイへと落とした。


画面には、二人が徹夜で磨き上げた完璧な提案書が映っている。


「紹介の話は、お断りしました」


「……そうか」


「はい」


「なんて断ったんだ? 他部署の課長相手だと、角を立てるのも難しかっただろう」


社内政治に聡い栞のことだ。無難に受け流したのだろうとは思った。


「課長には、『現在は目前の大型案件に集中したいため、個人的な件でお時間をいただくのは控えたい』とお伝えしました。角の立たない建前として、それで納得していただけましたので」


「……そうだな。業務を理由にするのが一番リスクが低い」


「はい」


栞はそこで言葉を切り、デスクの上のペンケースに手を伸ばした。


収められていたボールペンを指先で取り出し、ミリ単位で卓上の縁と平行に並べ直す。


彼女が極度の緊張を押し殺すときの癖だった。


ペンを整え終えると、栞は再び顔を上げ、俺を真っ直ぐに見つめた。


「でも、本当の理由は違います」


静かなフロアに、その言葉が落ちた。


「浅野さんにだけは、正確な事実をお伝えしておきます。……社内に、気になっている人がいますので」


心臓が跳ね上がった。


頭の中の計算機が、一瞬でクラッシュしたような感覚だった。


「その人って」


喉が張り付いて、うまく言葉が続かない。


栞は視線を逸らさなかった。逃げも隠れもしない、強い光を宿した瞳だった。


俺は息を深く吸い込んだ。


ここで曖昧な言葉に逃げたら、一生後悔する。


「……俺は、森下が好きだ」


あまりにも直接的で、情緒のない言葉だった。


だが、飾った台詞など俺たちには似合わない。


「優秀な同期として尊敬してるのも本当だし、仕事のやりやすさに甘えてたのも事実だ。でも、それ以上に……一人の人間として、ずっと惹かれてた。関係を壊すのが怖くて、仕事の合理性って言葉を盾にして誤魔化してただけだ」


情けない告白だった。


二十七にもなった大人の男が、保身を認めるような言葉。


「格好悪いよな」


「そうですね」


栞は即答した。


その容赦のなさに、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。


「そこは否定してくれないのか」


「事実ですから」


「手厳しいな」


「浅野さんの前で取り繕うのは、合理的ではありませんので」


そう言って、栞はほんのわずかに、本当にわずかに目元を和らげた。


「私も、同じでした」


「え?」


「浅野さんが優秀で、信頼できて、仕事がやりやすいからこそ……好意を伝えることでその関係が破綻するのを恐れていました。だから、業務効率という建前で覆い隠していました。夜食を用意するのも、好みの缶コーヒーを把握するのも、そう説明しておけば余計な踏み込みをされずに済みますから」


淡々とした口調の奥に、微かな熱が滲んでいた。


「……俺たち、本当に面倒くさいな」


「否定はしません。ただ、お互いにリスクヘッジを最優先した結果です」


「ここでまでリスクヘッジの話をするか」


「最善の着地点を見つけるのが、企画職の役割ですから」


俺は短く息を吐いて笑った。


肩の力が完全に抜けていく。


何年も積み重ねてきた強固な信頼関係は、崩れるどころか、ようやく本来あるべき土台の上に収まったような気がした。


「森下」


「はい」


「明日のコンペが片づいたら、仕事抜きで飯でも行かないか」


栞はわずかに間を置いた。


それから、しっかりと頷いた。


「はい。喜んで」


「良かった。じゃあ、まずはこの仕事を完璧に終わらせよう」


「ええ。提出を遅延させるわけにはいきませんから」


栞はディスプレイに向き直り、マウスに手を添えた。


二人の間に流れる空気は、いつもどおりの研ぎ澄まされた仕事モードに戻った。


だが、画面を見つめる視界は、先ほどまでとは比べものにならないほどクリアだった。


*

午前四時五十分。


窓の外の夜空が、群青色から白薄い青へとグラデーションを描き始めていた。


街が動き出す前の、最も静謐な時間帯。


「浅野さん、最終版のPDFを出力しました」


「ありがとうございます。ハッシュ値とページ順、念のため確認します」


全三十六ページ。


修正箇所のフォント、表の罫線、数値の照合。


すべてのチェックリストを二人で目視で潰していく。


「問題ありません」


「整合性、完全に取れています」


午前五時三分。


クライアントの企画部長宛てに、差し替え版の提案データを添付したメールを送信した。


送信完了のダイアログが消え、受信トレイの最上段に送信控えが収まる。


俺は椅子の背もたれに深く体重を預け、息を吐き出した。


「……終わったな」


「はい。完璧な仕上がりです」


栞は共有フォルダの作業用ログを淡々とアーカイブフォルダへ移動させ、デスクトップを綺麗に整頓した。どこまでも几帳面な、いつもの手際だった。


「お疲れさまでした、森下さん」


「浅野さんも、お疲れさまでした」


互いにノートPCのディスプレイを閉じる。


パタン、と二つの軽い音が重なった。


フロアはまだ静まり返っている。時計の針は五時十五分を回っていた。


「始発、もう動いてますね」


「そうだな」


俺はジャケットを羽織り、立ち上がった。


「……このあと、時間あるか? 言ってた通り、朝飯でも食いに行こう」


栞はデスクの上のペンを筆箱に収め、鞄を手に取ってから、こちらを見上げた。


「はい。何を食べますか」


「森下、冷たい蕎麦が好きだって言ってたよな」


「……覚えていたのですか」


「さっき聞いたばかりだからな」


「でしたら、駅の東口に朝から手打ちを出している店があります。そこの鴨せいろは質が高いです」


「リサーチが早すぎるだろ」


「業務効率のため……ではなく、以前から浅野さんと行きたいと思っていたので」


栞は少しだけ視線を逸らし、小さく付け足した。


その横顔には、オフィスで見せる冷徹な有能さとは違う、柔らかな温度が灯っていた。


「そっか。じゃあ、案内してくれ」


「はい」


オフィスを出て、静まり返ったエレベーターホールへ向かう。


東の空から差し込む朝の光が、ガラス張りのエントランスを白く染めていた。


「浅野さん」


「ん?」


「蕎麦屋、並ぶかもしれません」


「何分でも付き合うよ。今日はもう、締め切りはないからな」


「そうですね」


並んで歩く二人の影が、朝の廊下に長く伸びていた。


その距離は、昨日の夜よりも、靴一足分だけ縮まっていた。

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