↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

『その古井戸ごと追放してやる』――どうぞ。ただしその井戸、我が家の生命線ですけど? ~精霊に愛された水源令嬢は、涸れゆく公爵領を捨ててスローライフしますわ~

作者: uta
掲載日:2026/09/24

「役立たずの井戸番など不要だ。その薄汚い古井戸ごと、貴様を領地から追放してやる!」


異母兄オズヴァルトの声が、婚約披露宴の大広間に高らかに響き渡りました。


シャンデリアの光の下、着飾った貴族たちの視線が一斉に私に集まります。


嘲笑。侮蔑。そして、あからさまな哀れみ。


異母妹アマーリエが、扇の陰で勝ち誇ったように微笑みました。


「まあ、お兄様ったら。お姉様に井戸なんて、お似合いですけれど」


くすくすと笑い声が広がります。


(――ふうん。今日この場で、ですか。せめて宴の後にしてくれれば、料理くらい食べられたのに)


私、リーゼロッテ・ヴァレンシュタインは、前世で日本の水道局技師をしておりました。


事故で命を落とし、気づけばこの公爵家の庶子として生まれ変わっていた――そういう次第です。


庶子として蔑まれ、屋敷の裏庭にある『涸れかけの古井戸』の管理だけを押し付けられて、はや二十年。


ですが、その井戸こそが。


(この領地全体の飲み水を支える、唯一の生きた水源だと、この人たちは知らないのよね)


スカートの裾をつまみ、私は静かに一礼しました。


「……どうぞ」


広間がわずかにざわつきます。


泣き喚くとでも思っていたのでしょう。すがりつくとでも。


「ただ一つだけ、お伺いしても?」


私は顔を上げ、青緑の瞳でまっすぐ異母兄を見据えました。


「あの井戸が――この領地の飲み水を支えている、たった一つの『生きた水源』だと、ご存じでしたか?」


一瞬の沈黙。


そして、はじけるような笑い声。


「はっ、何を言い出すかと思えば! 涸れかけの井戸が水源だと? 頭までおかしくなったか!」


(ええ、そうでしょうね。誰も本気にしない。それでいいんです)


私は微笑みました。心の底から、静かに。


(だって――証明する義務なんて、追放される私には、もうありませんもの)


◆


深夜。月明かりだけを頼りに、私は裏庭の古井戸へと向かいました。


苔むした石組み。今にも崩れそうな滑車。


傍から見れば、確かに『薄汚い涸れかけの井戸』でしょう。


「ウンディーネ」


そっと呼びかけると、井戸の縁から、ちいさな水色の頭がひょこりと顔を出しました。


涙のように潤んだ大きな瞳。透き通る水色の髪。七、八歳ほどの、幼い少女の姿。


水精霊、ウンディーネ。


この井戸に宿り、地下水脈を通じて領地全体の水を秘かに浄化し、供給してきた――本当の水源の主です。


「リーゼ……お顔、こわい。なにかあったの?」


幼い指が、水面にそっと波紋を描きます。


「ええ。少し、大きなことがありました」


私は井戸の縁に腰かけ、この子と目線を合わせました。


「私、この家を追い出されることになったの」


ウンディーネの瞳が、みるみる潤みます。


「やだ。リーゼ、いっちゃやだ……!」


小さな手が、私のスカートを必死に掴みました。


この子が水を与えるのを拒んできたのは、私以外の誰も、この子に優しくしなかったから。


井戸が涸れかけて見えるのは――ただ、この子が拗ねていたから。


「大丈夫。置いていったりしないわ」


私はその小さな頭を撫でました。


「一緒に行きましょう。あなたと私で、新しい居場所を作るの」


「……いっしょ?」


「ええ。ずっと一緒よ」


ウンディーネの顔が、ぱっと輝きました。


(誰にも必要とされなかった私と、誰にも愛されなかったこの子。……そろそろ、報われない献身は終わりにしましょう)


私は懐から、古びた革の筒を取り出しました。


中には一枚の羊皮紙――精霊契約書。


前世の役所仕込みで、私が肌身離さず保管してきた、切り札です。


「ウンディーネ。改めて、私と契約を結び直してくれる?」


「うん! リーゼとなら、なんでもする!」


幼い声が、月夜の井戸に澄み渡りました。


(さて。この井戸の『水源の権利』が、契約により私個人に帰属していること。明日、たっぷり証明して差し上げますわ)


◆


「――出立の前に、一つご報告が」


翌朝、私は玄関ホールで見送りに集まった家族の前に立ちました。


オズヴァルトは腕を組み、アマーリエは退屈そうに欠伸をしています。


「井戸ごと追放、と仰いましたね。謹んでお受けいたしますわ」


私は革の筒から羊皮紙を取り出し、静かに広げました。


「こちらは、裏庭の古井戸に宿る水精霊との『精霊契約書』。三代前の当主が交わし、以降、管理者たる私個人に権利が帰属しております」


「……なんだそれは」


オズヴァルトが眉をひそめます。


「つまり、あの井戸の水源の権利は、公爵家ではなく――私、リーゼロッテ個人のもの。ですので、追放される私が井戸を連れて行くのは、法的にも精霊契約上も、なんの問題もございません」


「はっ、涸れた井戸なんぞ、くれてやるわ! さっさと持って失せろ!」


(ええ、どうぞそう仰ると思っておりました)


私は深々と一礼しました。


「では、遠慮なく」


そのとき、玄関の隅で、老侍女フリーダが震える手で口元を押さえていました。


屋敷でただ一人、私の陰の献身と、あの井戸の真実を知る人。


彼女は周囲の嘲笑の中、ただ一人、深く深く頭を下げました。


「……どうか、お幸せに。あなた様は、この家に過ぎたお方でした」


「フリーダ。……ありがとう。長い間、お世話になりました」


私は微笑み、井戸のほうへ手を差し伸べました。


すると――裏庭から、ひとすじの水の流れが、するすると私の足元まで伸びてきます。


その先に、ウンディーネがぷかりと浮かんでいました。


「リーゼ、いこ!」


「ええ。行きましょう」


門を出る間際、私は振り返らずに呟きました。


(さようなら。あなたたちが失うものの大きさに気づくのは――そう、あと数日のことでしょう)


◆


私が向かった先は、水不足で見捨てられた辺境――ドラッヘンベルク男爵領。


ひび割れた大地。枯れた畑。人影もまばらな寂れた土地です。


そこを治めるのは、竜人の領主にして将軍、ジークリンデ・ドラッヘンベルク様。


青みがかった黒髪に、縦に細い金の竜眼。こめかみからは小さな竜の角。


『氷牙将軍』と恐れられる偉丈夫が、鋭い眼光で私を見下ろしました。


「……水源令嬢、だと? この地に水を引けると?」


無愛想で、言葉数が少なく、確かに誤解されそうな迫力です。


「はい。精霊の力と、私の知識をもって」


私は迷わず答えました。


「ただし条件が。この地に根を張り、精霊と私が安心して暮らせる居場所をいただきたく」


将軍はしばし沈黙し、やがて短く頷きました。


「……無理はするな。だが、やるというなら、俺も掘る」


翌日、驚いたことに将軍は自ら鍬を握り、乾いた大地に穴を掘り始めました。


汗を流し、土にまみれ、そして――


膝をつき、乾いた土に向かって、真剣に頭を下げたのです。


「……この地に、水を」


(あら。……この方、本当は)


私は前世の水脈探査の知識を総動員し、地下水脈の走る一点を見定めました。


地層の傾き、周囲の植生、わずかに湿った土の色。


(間違いない。ここが主脈の浅い場所)


「ウンディーネ。ここよ」


「うん!」


幼い精霊が、掘られた穴の底へ、ぽちゃんと飛び込みます。


次の瞬間――


ごぼり、と音を立て、乾いた穴の底から、澄んだ水が湧き上がりました。


透明で、冷たく、命そのもののような清らかな水。


「……水だ」


将軍が呆然と呟きます。


「水が、出た……!」


「ええ。これが、始まりですわ」


私は微笑みました。


将軍はしばらく水面を見つめ――そっと、目元を拭いました。


「……砂が、目に入っただけだ」


(ふふ。承知いたしました、将軍様)


こうして、荒れ地を緑に変える日々が始まったのです。


◆ ヴァレンシュタイン公爵領


リーゼロッテ追放から、わずか数日後。


異変は、突然に始まりました。


「……お、おい! 井戸の水が濁っているぞ!」


「こっちの水路もだ! 泥水しか出ない!」


領地中の井戸が、水路が、次々と濁り、涸れていきます。


農作物は枯れ、家畜は倒れ、住民の間には疫病の兆しが。


「なぜだ……なぜこんなことに!」


オズヴァルトは執務室で頭を抱えました。


「たかが井戸番一人がいなくなっただけで、なぜ領地全体が!」


やがて、異変を聞きつけた王国の調査団が到着しました。


水源を調べた学者たちは、青ざめた顔で報告します。


「オズヴァルト様。この領地の水は――すべて、裏庭の『古井戸』の精霊井戸に、完全に依存しておりました」


「なっ……!」


「他の井戸も水路も、あの一つの水源が地下水脈を通じて浄化・供給していたのです。その管理者が去った今、水は二度と戻りません」


「水源が……あの薄汚い井戸に、すべて依存していただと……?」


膝から崩れ落ちるオズヴァルト。


その傍らで、アマーリエが金切り声を上げました。


「うそよ! あんな薄汚い井戸が! お姉様が! そんなの認めないわ!」


住民たちの怒りは、日に日に膨れ上がっていきます。


「水をよこせ!」「領主は何をしている!」「もう限界だ!」


暴動の火の手が上がる中――


老侍女フリーダだけが、静かに窓の外を見つめていました。


「……皆、失って初めて気づいたのです。あの方が、どれほどこの領地を支えていたかを」


誰にも聞こえぬよう、彼女は呟きました。


「もう、遅すぎるのですけれど」


◆ 辺境男爵領


一方その頃。


かつて見捨てられた辺境の地は、見違えるほどに変わっていました。


湧き出た水は灌漑水路を巡り、乾いた大地を潤し。


前世の浄水・灌漑知識を活かした畑には、青々とした作物が実り。


噂を聞きつけた人々が周辺領から集まり、いまや賑わう交易都市へと発展しつつありました。


「リーゼ、見て! お魚さんいっぱい!」


ウンディーネが水路ではしゃぎます。


その手には、将軍がこっそり彫った木彫りの魚が、もう五匹目。


「ジーク様ったら、また作られたのね」


「……子供が、喜ぶからだ。それだけだ」


そっぽを向く将軍の耳が、ほんのり赤い。


(ふふ。本当に、可愛らしい方)


そんな平穏な日々に、来客がありました。


ヴァレンシュタイン公爵家の使者――そして、やつれ果てたアマーリエ本人。


「お姉様! お願い、戻ってきて! 水をちょうだい! 領地が、家が、もうめちゃくちゃなの! 助けて!」


かつての華やかさは影も形もなく、彼女は泣きすがりました。


私は静かに、一枚の書類を差し出しました。


「精霊契約は、本人の意思なくして移すことはできません。これが法的根拠です」


「そんな……!」


「そして――ウンディーネ」


私が呼ぶと、水面から幼い精霊が顔を出しました。


アマーリエをじっと見つめ、幼い顔で、きっぱりと言い放ちます。


「あの人たちには、もう一滴もあげない。リーゼをいじめた土地には、二度と水はやらないの」


「そういうことですわ」


私は微笑みました。


「精霊が、そう申しております。手続き上、不可能です。――お引き取りを」


アマーリエは、言葉を失い、崩れ落ちました。


(泣き喚けば水が戻ると、まだ思っていたのね。……あなたたちは、最後までそういう人たちでした)


やがて公爵領は水を失い、没落。


オズヴァルトは失脚し、アマーリエの婚約も破談となったと、後に風の便りで聞きました。


『失ってから、価値に気づく』――典型的な崩壊、というやつです。


◆


季節が巡り、辺境の地はすっかり緑の楽園となりました。


王家からは『水源守護の聖女』の称号と、正式な爵位の打診が届きました。


「リーゼロッテ・ドラッヘンベルク、か。……悪くない響きだな」


井戸端で、ジークリンデ様がぽつりと呟きました。


「あら。それは、どういう意味でしょう?」


私が首をかしげると、氷牙将軍と恐れられた偉丈夫が、みるみる耳を赤くします。


「……いや。その、なんだ。お前が、この地に、ずっといてくれるなら……」


言葉に詰まり、そっぽを向く将軍。


「無理にとは、言わん。だが、俺は」


「ふふ。最後まで仰ってくださいませ?」


「……砂が、目に入った」


「まだ井戸を掘る前ですのに?」


私は思わず笑ってしまいました。


身分ではなく、実力と人柄で私を認めてくれた、初めての人。


この不器用な優しさに、いつの間にか、私の心も溶かされていたのです。


そのとき。


「リーゼ、リーゼ!」


ウンディーネが井戸の縁から、ぴょこんと顔を出しました。


水面に、くるりと指で波紋を描きながら。


「ねえリーゼ、次は……海の精霊にも会いに行く?」


潤んだ大きな瞳が、きらきらと輝いています。


私は、この小さな家族の頭を、そっと撫でました。


「あら。それも素敵ですわね」


見上げれば、抜けるような青空。


足元には、命を運ぶ澄んだ水。


隣には、口下手で優しい竜人の将軍。


そして、ずっと一緒にいると誓った、水の精霊。


(誰にも必要とされなかった私と、誰にも愛されなかったこの子。二人でようやく、居場所を見つけたのです)


報われない献身の日々は、もう終わり。


これから始まるのは、私たちが自分で選び取る、あたらしい物語。


「さあ。今日も、水を巡らせましょうか」


井戸のほとりに、澄んだ笑い声が響きました。


――海の精霊との出会いも、将軍との関係の行方も。


それは、また別のお話。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。