♡ 朝 ♡
今回は――さすがに、美雪に人生を破壊されることはないと思ってた。なんとなく、そんな予感があった。理由はない。ただの、勘。
そういう気分で目が覚めた、一月の、寒くてどうしようもない朝。たしかこの日は、別のクラスの――やたら人気のある男子の誕生日だったはずだ。
顔がいい。性格もいい。運動もできる。そういうタイプ。クラスとか、学年とか、関係なく。存在を知ってる女子は、だいたい全員好き、みたいなやつ。……たぶん。
まあ。例外は、いる。
松永 美雪。あいつだけは、違う。
あいつが好きなのは、もっと別のジャンルだ。失敗してるやつ。あんまり好かれてないやつ。人生に、そこまで期待してないやつ。……要するに。俺。
たぶん、だからなんだと思う。あいつが、ずっと俺にくっついてくるのは。……いや。今のは、後で考える話だ。
とにかく。この日の朝の俺は、「今日は平和だ」って、本気で思ってた。
家の中では、まだ平和だった。学校に行った瞬間に全部終わる――それは分かってたけど、少なくとも、出るまでは大丈夫。そう思ってた。
だから俺は、自分の部屋で、ほんの少しだけ、のんびりしてた。母さんが作ってくれる、いつもの朝ごはんも食べて。一日もつように、ってやつ。……正直、ありがたい。
で。準備も終わって。あとは、家を出るだけ。その時までは――本当に、何も問題なかった。
ドアを開けた瞬間までは。
まさか。朝ごはんを食べ終えた直後に、自分の家の前で――会いたくない人物と、鉢合わせるとは思ってなかった。……完全に、想定外だ。
その衝撃は、冷たい空気が顔や手に当たったこと――だけじゃなかった。
目の前に、いた。
茶色の髪。ツインテール。首にはマフラー。きちんと着込んだ、セーラー服。……こんな朝に?ってくらい、完璧に整ってる。
しかも。手には、小さな袋。どう見ても――食べ物。
で。俺がドアから出た瞬間を、ずっと待ってたみたいに。にこっと、笑った。
……いや。見たことがない、なんてことはない。ある。普通に。何度も。
ただ――ここにいるのは、完全に、想定外だった。
「おはよう、りゅーじくん」
澄んだ声。落ち着いたトーン。……というか。あいつなりに、最大限落ち着いてる時のやつ。松永 美雪。いつもの調子だ。
普通なら。この状況が、普通なら。俺はたぶん、真っ先に叫んでる。「なんで俺の家、知ってんだよ」とか。「なにしてんだ、ここで」とか。……いや。絶対、言ってる。
でも。正直に言うと。ここ数日、あいつと一緒に過ごしてきて――もう、分かってきたことがある。
こういうことを、やるやつだ。松永 美雪は。
だから。驚きはしたけど、完全に想定外――ってわけでもなかった。「いつか来るだろうな」とは、思ってた。
ただ。その「いつか」が、今日だっただけで。……しかも、朝。
正直。運が悪い。普通に。
まあ。意味が通ってるからって、驚かないわけじゃない。
だから俺は、ドアを閉めて。一度、深く息を吐いて。美雪と、正面から向き合った。
「……俺の家、調べたんだろ」
「うん。昨日、放課後に付いてった」
「難しくなかったよ。普通に」
……ああ。そうだろうな。
「……まあ。驚かないけど」
それだけ言って、俺はそのまま、歩き出した。振り返らずに。いつも通りみたいな顔で。
美雪は、当たり前みたいに、俺の後ろを歩いてきた。もう――一緒に登校する流れだと、完全に受け入れてる感じで。
……正直。全然、嬉しくない。むしろ、普通に、嫌だった。
でも。「帰れ」なんて、言えるわけもない。無理だ。あいつは、俺が今まで会った中で、一番、頑固だ。
「お弁当、作ってきたんだよ」
そう言って、美雪は袋を揺らした。
「りゅーじくん、お昼になると、だいたいお腹空いてるでしょ。パン一個だけだし」
……よく見てるな。
「そんなの続けてたら、そのうちガリガリになるよ。ほんと」
「……あ、ありがとう」
反射でそう言って、差し出されたものを受け取った。
小さな箱。よくある、お弁当箱。中を開けると――きれいに詰められた中身が見えた。
小さなご飯。梅干し。あと、細かいおかず。……思ったより、ちゃんとしてる。
「……これ、美雪が作ったのか?」
「うん。お母さんに教えてもらったんだ」
にこっと、いつもの笑顔。
「料理、わりと得意だと思うよ」
……この人、ちょっと――変だと思う。
歩いている途中で――見覚えのある人に、声をかけられた。
町内の、徳橋さん。朝になると、いつも家の前で水を撒いてる、感じのいいおばあさんだ。登校中の俺を見つけると、毎朝、必ず声をかけてくる。
「おはよう、竜司」
……いつも通り。
ただし。今日は――隣に、余計なのがいる。
徳橋さんは、俺の隣をちらっと見て。すぐに、にやっと笑った。
「へえ。竜司、松永さんと――付き合ってるの?」
その笑顔。……刺さった。いつもなら、優しく包む感じなのに。今日は、胸に、どんって来た。
……待て。
なんで、美雪の名前を知ってる? というか。この人、美雪のこと――普通に知ってる?
頭の中で、一気に、繋がった。もしかして。美雪、この辺に住んでる?
……それなら。俺がドアを出た瞬間に、そこにいた理由も、説明がつく。
しかも。顔色も、普通。寝不足っぽさも、まったくない。
……近い。家。普通に。
俺が、この状況の最悪さを処理してる間に――美雪が、前に出た。しかも。自然に。俺の腕を、掴んで。
「徳橋さん、りゅーじくんのこと、知ってるんですか?」
……勝手に、返事までしてる。
徳橋さんは、楽しそうに笑って。
「ええ。とってもいい子よ」
そう言って、俺の方を見た。
「毎朝、ここを通るの。いつも、美雪ちゃんより早くね」
……余計な情報。
「今日は、竜司のおかげで早起きできたみたいね」
その言葉に――美雪は、少しだけ、照れた。頭を、ぽりぽり掻いて。はは、と笑って。
……美雪が、照れてる。そんなの、初めて見た気がする。……なんで、俺が。
「……じゃあ、また後で。徳橋さん」
そう言って、俺は歩き出した。これ以上、あの場にいるのは、無理だった。
――当然。
美雪は、そのまま。俺の腕から、離れない。歩き出しても、ぴったり。
「……なあ。ちょっと、くっつかないで」
「え? なんで?」
……即返し。
「いや、その……」
理由を、探す。必死で。
「……歩きづらいだろ。ほら」
我ながら、ひどい言い訳だ。
「え〜。そんなことないよ」
美雪は、楽しそうに言って。
「こうやって歩くの、すごく楽しいし」
声が、やけに柔らかい。妙に、甘い。
そのまま、さらに距離を詰めてきて――俺の腕に、体重を預けてきた。
……近い。
というか。押されてる。
俺は、じわじわ、端に追いやられながら。
……朝から、勘弁してほしかった。
正直。かなり、居心地が悪かった。……いや。かなりどころじゃない。普通に、最悪だった。
でも。救いがあるとすれば――学校までは、もう、そんなに遠くない。すぐ着く。たぶん。
……そう、思ってた。




