氷瀑の梯――雪崖を渡る声
深淵の心臓を宿す《ネブロス・カルデラ》へ向かうには、吹き荒れる《凍鳴の氷瀑》を越えねばならない。そこは古より凍てつき、滝の如く氷柱を垂らす巨大な天然の要塞。風鳴りと氷鳴が重なり、足を踏み出すたびに微細な震動が身体を貫く。
兄を救う鍵を握るティーナを先頭に、氷壁を支点に刻むナスティア、氷結と火雷で裂くセラとレナ、光と回復で護るパサラ、影走りのミレイ、そして導く現太――八人は凍てつく無数の「氷弦」を前に、一瞬たりとも気を抜けない極限の登攀へと挑む。
ネブロス・カルデラへ最短で辿り着くには、《凍鳴の氷瀑》を強行突破するしかない。
幅三百メートル、高低差五十。陽が当たらない峡間へ滝ごと凍り付いた氷壁は、古の竪琴を思わせる無数の氷弦を垂らしていた。風鳴りと氷鳴が重なり合い、空気は常に微振動している。
レナが氷面に掌を当て、魔力を浸透させながら言った。
「流速の記憶が残っている所は脆いわ。青みが濃い垂直縞を踏んだら終わり」
ナスティアは鉤爪を氷弦に刺し、尻尾でバランスを取りつつ笑う。
「終わりたくねぇから、爪痕つけて道を刻む。ついて来い!」
ミレイの黒翼が影を伸ばし、刻印用の縄梯子を上段へ固定。
ノーラは軽装鎧に替え、細剣の柄尻で試し打ちを繰り返す。
俺とパサラ、セラが中段をサポートし、ティーナは最後尾で結界糸を操る役目を請け負った。
「“門柱”を制御してきた私なら、氷脈のひずみを感じ取れる。……多分」
自信無さげな声に、パサラがそっと白翼を寄せる。
「きみの“願い”を信じてる。怖かったら隣で呼んで」
ティーナは頷いたが、表情は固い。兄を弔った炎の余韻が、まだ胸の奥で燻っているのだ。
登攀開始。
第一支点まではナスティアの爪痕を踏み継ぎ順調だった。だが高度が増すと、氷壁の振動が鞭のように全身を打ち付ける。足場が細い氷弦だけになると、視界が白一色になり、方向感覚が溶け始めた。
そのとき、氷瀑の奥から長い嗚咽のような音が湧き、氷面に薄い亀裂が走る。
「振動源が変わった!」ティーナが結界糸を強く張った瞬間、亀裂が十字に広がり、俺たちの足場がゆっくり沈み始める。
セラが瞬時に魔法陣を描き、溶解熱で氷面を再結晶化させるが、今度は上から氷柱が雨のように落ちて来る。
ミレイが影走りでノーラを抱え横跳びし、俺はパサラとティーナを庇うように光壁を展開した。
水晶の嵐が去った後、ティーナは震える声で叫ぶ。
「氷瀑そのものが“祭壇”の外郭だった! ヴァルザールが遠隔で制御してる!」
嫌な汗が背筋を滑る。自然地形を利用し、侵入者を排除する罠――。
レナが歯を噛み締め、杖を逆手に氷面へ突き立てた。
「氷脈を逆流させれば、崩壊まで数分稼げる!」
彼女の魔力が氷壁内部へ流れ込み、振動が別方向へ逃がされる。その隙にノーラとナスティアが一気に上段を制圧し、縄梯子を掛け替えた。
残り三十メートル――。
俺はティーナの手を引き、火傷するほど冷たい氷弦を駆け上がった。崩落音が背後を飲み込み、足場が寸刻ごとに落ちていく。
跳躍。雪面。息をつく暇もなく振り返ると、氷瀑の半分が轟音とともに峡間へ崩れ落ちていた。
ティーナが膝を抱え、震えたまま呟く。
「守るって、難しいね……」
ナスティアが笑いながら肩を叩く。「でも今日の踏ん張りで、全員生きた。十分守ったさ」
ノーラは剣を鞘に収め、遠いカルデラ湖へ視線を上げる。
「次は“本当の祭壇”を折る番だ」
奔流のように崩れ落ちていく氷瀑を背に、八人は辛くも最上段へ飛び出した。祭典の外郭を担う“氷瀑”の罠を逆流の術で凌ぎ切り、一歩も怯まず駆け抜けたその手応えは、確かな「守る力」を証明した。
だが鍵はまだ、《ネブロス・カルデラ》湖底に眠る“本当の祭壇”にある。氷壁に刻まれた詔が潰えぬうちに、俺たちは再び雪煙を蹴散らし、最後の決戦へと歩を進める。春を繋ぐための針は、あとひと突き先にある。




