深紅の虚門――凍涙の名を呼ぶとき
果てしなき氷壁を越え、補給も帰路も不確かなまま——新堂現太らは北域最深部へと歩を進めていた。凍てつく螺旋回廊をくぐり抜け、兄を囚われたまま凍結させようとする〈深淵門〉の核心――五芒陣が脈動する氷のドームに到達する。
そこに跪くのは、銀灰の巫女エレオノーラ・ヴァレンティーナ・クロスターニ。血に濡れた剣の先に立つノーラをはじめ、ミレイ、ナスティア、セラ、レナ、パサラ、そして現太――七人は命を賭してこの最終決戦へ踏み出す。ここから始まるのは、凍土に咲かせる“春”を取り戻すための、刹那の光と闇の交錯である。
螺旋回廊を登り切った先は、氷でできた天蓋のドームだった。
蒼白い月光が天窓から注ぎ、床に描かれた五芒陣は脈動する心臓のように赤黒く揺れる。
その中心で祈る銀灰の巫女――エレオノーラ・ヴァレンティーナ・クロスターニ。
顔色は雪より青く、睫に白い霜が降りたまま震えていた。
ジェラルドを討った直後の昂揚は、一歩で氷点下に下がる。
俺――現太は息を整え、仲間の配置を確認する。
ノーラが先頭、細剣を突きつけ、ナスティアが左翼で鉤爪を構える。
セラとレナは後衛に展開し、魔力を抑えた浄化符を指の間に差し込む。
パサラは白翼を軽く広げ、いざという時に光壁を張れる距離をキープ。
ミレイは影のように壁際へ滑り、いつでも背後を衝けるよう影走りの足場を刻んだ。
「兄さまの鼓動が……静かに消えた」
巫女の気息は白く、胸にすがる両手が小さく震える。
ノーラは氷塵を踏み、剣先で月明かりを跳ね返した。
「儀式を終わらせろ。あなたの悲願が何であろうと、北域は渡せない」
声は硬質だが、その奥には兄妹を斬った罪の震えが潜む。
エレオノーラ・ヴァレンティーナは俯き、五芒陣へそっと手を添えた。
「止めれば、この門は錯乱して凍嵐を吐き出す。けれど続ければ……兄さまの魂は永久に縛られる」
床の紋様が呻き、闇瘴が柱となって噴き上がる。
セラの浄化符が焼き切れ、レナの氷結が逆流して爆ぜた。
ナスティアが低く吠え、正面へ肉薄する。
「二つに一つ? だったら第三をこじ開けるまでよ!」
鉤爪が闇柱に刻みを付け、ミレイの影が背面へ滑り込む。
俺は光槍を凝縮し、闇柱の根を刺し貫いた。
──が、一撃ごとに柱は再生し、五芒陣の鼓動が速まる。紅い虚門は胎動のように膨らみ、今にも開きかけている。
パサラが歯を噛み、白翼を力いっぱい展開した。
「お願い、あなたの“願い”を教えて! 犠牲じゃなく希望を!」
光が巫女を淡く包み、闇瘴の縁でぎりぎり拮抗する。
ヴァレンティーナの瞳が揺れ、月光を映した。
「願い……? わたしは“門を制御するための存在”として生かされた。願う資格など……」
ノーラの剣先が床に落ち、金属音が凍りつく。
「資格ならここにいる全員が証明する。あなたが何者かではなく、何を望むかで世界は変わる!」
言葉が陣の律動を狂わせた。
闇柱が裂け、赤い霧が床にこぼれる。
ミレイの影走りが背後に刻んだ符を起爆し、ナスティアの爪が渦を引き裂く。
セラとレナが浄化紋を重ねると、闇瘴が白炎に転じ始めた。
エレオノーラ・ヴァレンティーナは耳を塞ぎ、震える声で呟く。
「……ティーナ。兄さまが幼いころ呼んだ、わたしだけの名……」
その瞬間、五芒陣の鼓動が一拍遅れた。
彼女の両膝が崩れ、虚門の縁に亀裂が走る。
ノーラは剣ではなく己の手を伸ばし、冷たい指を包んだ。
「ティーナ、一緒に帰ろう。兄の祈りは“凍土に咲く春”だ。生きてこそ叶う」
闇と光が噛み合い、最後の衝突が起きる。
俺は全魔力を光槍に注ぎ、虚門の核心へ投げ込んだ。
パサラの白翼が闇瘴を抱きしめ、セラとレナの双重浄化が嵐を白炎へ変換――。
轟音。赤黒い紋様は灰に砕け、深紅の虚門は潮が引くように消失した。
凍気が止み、静寂だけが残る。
ティーナは氷床に崩れ落ちたが、泣きじゃくる呼吸の合間に言葉を紡ぐ。
「兄さま……わたし、もう縛られないの……?」
ノーラはうなずき、肩を抱いて立たせた。
「あなたを縛るものは何もない。これからは仲間として歩こう」
ティーナは両手で涙を拭き、震える唇で笑む。
「……ありがとう。名前を、わたしのままに呼んでくれて」
崩れた祭壇の下から一冊の羊皮紙が転がり出た。
そこには黒翼の男――
ヴァルザール・ネブロス=エインヘリアル
――の名と、企図する“深淵儀式”の残骸が克明に記されていた。
城塞の闇は払われた。だが北域の夜はまだ終わらない。
八つになった影が月下に並び、胸の焔は確かに凍土を照らし始める。
そして俺たちは静かに歩を進めた。――春を、必ず連れ帰るために。
祈りにも似た叫びと共に崩れ去った深淵門――兄を縛る氷の檻は砕かれ、エレオノーラ・ヴァレンティーナは“ティーナ”としての在り方を取り戻した。八つの影が凍気に包まれたドームを後にし、城塞の闇を払ったその先には、なお続く北域の夜が待っている。
だが彼女の笑顔は凍てつく大地に確かな温もりを灯し、現太たちの胸には一筋の熱い焔が燃え残った。春を連れ帰る旅はまだ終わらない——願いと絆を胸に、次なる一歩を踏み出すために。




