裂氷の城塞 ―氷魔公ジェラルド・クロスターニ―
夜明け前の静寂を裂くように、闇幕がゆっくりと退き始めた。冷たい大気にわずかな蒼光が差し込むころ、雪厚き山岳地帯にそびえる《裂氷の城塞》が姿を現す。壁面を覆う黒水晶の棘は月光を吸い込み、外郭を鉄壁のごとく強固に守っていた。
しかし、その重厚な防壁の奥には、単なる亡霊軍団を遥かに凌駕する強大な力が蠢いている――門が完成すれば、北域が死の氷原と化すという絶望的な未来を阻むため、俺たちは氷に閉ざされた迷宮へと足を踏み入れる覚悟を固めた。
黎明の蒼光が氷壁を染める頃、裂氷の城塞は結晶樹のように聳え立っていた。凍てつく外郭に黒水晶の棘が芽吹き、無言の亡霊騎士たちが槍を構える。胸を打つのは寒さだけではない。
――負ければ門が完成し、北域は死の氷原になる。
ノーラが細剣を掲げた。
「前衛は私とナスティア、影走りはミレイ。セラとレナは砲撃支援、パサラは防御と回復――突入!」
亡霊の奔流
正門を塞ぐ百体の亡霊騎士。その盾列は雪霧と悲鳴を孕み、見上げるほどの壁に化けている。
パサラが白翼を広げ、神韻の光を弾丸のように撃ちこんだ。霜結界が瞬時に砕け、開いた裂け目へナスティアが突っ込む。獣人の脚筋が氷床を裂き、爪が盾板を叩き割る。
「吠えるなよ、鉄クズ!」
返す刃の軌跡にミレイの黒翼が滑り込み、影走りで亡霊の首を刎ねた。闇瘴が噴き上がるたび、セラの火雷とレナの逆相氷が交互に叩きつけられ、蒸気と氷晶が爆ぜる。
俺は光弾を連射しながら思考を削る。
――ここで魔力を消耗しすぎれば、頂の“本番”でやられる。
だが足を緩めれば槍列は再生する。呼吸一つごとに選択を迫られる神経戦だ。
十分と経たず亡霊は瓦解し、正門の水晶扉が軋んで崩れた。が、その向こうから吹きつける冷気は格が違った。肌に触れた瞬間、血液が氷片になる錯覚。
螺旋回廊
城塞内部は螺旋回廊――凍った硝子でできた蛇の食道。手すりなどなく、外縁は鏡のような氷面が奈落へ滑り落ちている。
硬直する足を動かすたび、靴底が悲鳴を上げる。レナが氷壁を指で弾き、魔力で摩擦係数を上げる術式を全員の靴に流布した。
「これで踏ん張れる。けど持続は二刻が限界よ!」
上方で紅光が点滅し、風鳴りが龍の遠吠えを思わせた。蒼と赤が混じる不気味なグラデーションの中心で、鎖付き氷鞭を抱えた巨人が待ち構えている。
開戦――雪嵐の巨影
蒼銀の鎧が軋むたび、氷鞭の鎖節から霜華が散った。
「ジェラルド・クロスターニ!」
ノーラの呼び声に、巨人は澄んだ嗤いを漏らす。
「妹を奪いに来たか、人間ども。」
言葉の終わりを待たず、鎖が閃光を伴ってうなった。
第一撃――氷鞭が回廊の床を貫通し、奈落から凍気が噴き上がる。魔力の衝撃に膝が折れ、シールドを展開したパサラが悲鳴を飲み込んだ。白翼の光面が玻璃のようにヒビを生み、魔力が逆流して全身を刺す。
「止まれ!」俺は光楯で受け止め、反動で数歩下がる。脛から骨が軋み、息が白く震える。
第二撃――鎖節が跳弾のように散弾化し、螺旋壁を蜂の巣にする。
ナスティアが咆哮し、裂爪で鎖節を弾き返した。「てめえの玩具、折ってやる!」
しかし鎖は黒瘴で補完され、傷口が即座に再生。巨人の胸骨裏で何かが脈打つのが見えた。
セラの魔力視が閃光を放つ。「再生核、胸骨裏──闇瘴でコーティング!」
「突くなら連撃で“上書き”しろ!」ミレイが影走り、刻印を背面に貼り付ける。
レナは氷結で鎖を鈍らせ、ノーラが細剣を霧のような踏み込みで突き込む。しかし鎧の継ぎ目から毒々しい霜華が逆流し、ノーラの腕が一瞬で霜焼けに染まった。
ジェラルドが鎖を振るい、回廊が傾ぐ。
「私の鼓動が消えれば、妹は門に縛られたまま凍結する。邪魔立てするな!」
言葉の端々に狂おしい執着が滲む。だがその愛情がエレオノーラ・ヴァレンティーナを追い詰めている。
核露出――連携の雨
俺たちは殲滅ではなく“突き刺す”ための旋律を即興で編んだ。
パサラが限界を超えて光癒を味方に重ね、白翼そのものを社のごとく展開。
光壁の開口部を利用し、ナスティアが真正面から囮の連撃。
鎖が集中し、巨人がわずかに屈む。その背中を、影となったミレイが滑り込む。
刻印が起爆――黒瘴の鞘が裂け、核が一瞬だけ露出した。
「今だ!」
ノーラの細剣、ナスティアの鉤爪、レナの逆相氷、セラの火雷、俺の光槍――五波の連撃が時差攻撃で同一点に収束する。
蒼鎧が悲鳴を上げ、裂け目から漆黒の霜血が噴いた。巨体が揺らぎ、鞭が床に落ちる。
だがジェラルドは膝をつきながら鎖を握り直し、己の胸を殴打した。
「まだだッ!」
核が再び瘴霜を吸い込み、再生を試みる。それを上回る速度で、俺は全魔力を光槍に注ぎ、最後の一撃を叩き込んだ。
閃光――
蒼鎧は音もなく崩れ、剥き出しの核が氷塵に溶ける。巨体が静かに崩れ落ち、唇が震えた。
「……ティーナ……許せ……」
哀切な祈りを残して、氷魔公ジェラルド・クロスターニは塵と化した。
追悼と決意
静寂。螺旋壁から落ちる氷片が遠い水音を立てる。
ノーラは剣を杖のように突き、霜傷で痙攣する腕を押さえた。
エレオノーラ・ヴァレンティーナの事情はまだ闇の中。だが兄が最後に残した祈りは、確かに“許し”を求めていた。
俺たちは視線を交わし、息を整える。
「先へ進もう。エレオノーラ・ヴァレンティーナを救えるかどうかは、これから決まる」
レナが震える掌で氷霜を散らし、セラが浄化符を握り直す。ナスティアは傷ついた爪を舌で拭い、ミレイは剣を収めて影に溶けた。パサラは光の残滓を集め、仲間の傷を繕う。
頂へ通じる階段――深紅の脈動が呼吸のように明滅している。
次の扉の向こうで、エレオノーラ・ヴァレンティーナは何を想い、何を選ぶのか。
氷の吐息が頬を裂く。けれど胸の焔は、まだ消えてなどいない。
凍てつく螺旋回廊を血と氷の攻防で切り裂き、鎖鞭を振るう氷魔公ジェラルド・クロスターニを討ち果たした。兄妹の悲痛な絆に隠された真実はまだ深淵に沈んだまま残るが、その体温だけは確かに凍りつく運命を拒んでいた。
前衛を務めたノーラとナスティア、影走りのミレイ、砲撃を尽くしたセラとレナ、そして防御と回復を担ったパサラ。七人が重ねた決意の一撃は、「死の氷原」を「生の春」へと塗り替える序章にすぎない。
胸に宿る焔は消えず、凍れる迷宮の最深に待つ《深淵の門》を――必ず打ち砕く。次なる扉の向こうへ、俺たちは再び歩を進める。




