吹雪のあと―小さな安息
氷壁での激戦を経て、脅威の一端を退けたかに見えるものの、依然として明かされぬ“深淵”の影が胸にわだかまりを残す。深く凍りついた世界の中、わずかな勝利の気配に安堵しながらも、真の平穏を得るには程遠い――そう感じさせる余韻が漂う夜。
それでも、闘い続けられるだけの希望は仲間との絆と小さな静寂が織りなす温もり。過酷な氷の舞台にあって、わずかな陽光が射すような瞬間こそ、次なる一歩を踏み出すための心の支えとなるだろう。
今回描かれるのは、まさにその希望を紡ぎながら、一行が旅の疲れを癒す一夜。先に広がる未知の闇と、宿命を担う巫女の言葉を思い返しつつも、仲間たちが再び動き始めるまでの短い休息をどのように迎えるのか。
あの氷壁の洞窟での死闘を終え、辛うじて地上へ脱出できた俺たちは、すぐに夜の野営場所を探さねばならなかった。祭壇を壊し、亡霊兵は消えたけれど、洞窟内部が崩れかけていて長居は危険だったからだ。
おまけに寒さと体力の消耗は限界近く、パサラの回復魔法やセラの応急処置にも限度がある。ナスティアとミレイの傷は浅いが痛みが続くし、レナも魔力を大きく使って疲弊している。ナシアも無言でフードを直しながらついてきているが、さすがに顔に疲れの色が見える。
夕刻にさしかかった雪原を歩くと、運よく大きな岩が風除けになる地点を見つけた。寒風をしのげるだけでも大助かりだ。皆が協力してテントを張り、薪を集めて焚き火を起こし、ようやく小さな拠点を作り上げる。
「あの女、何者だったんだろうね……。エレオノーラ・ヴァレンティーナ・クロスターニだっけ、“深淵”とか言ってたけど」
パサラがケープを引き寄せながら言う。セラは焚き火で杖を温めつつ、「分からないわ。でも亡霊や死者を操っていたのは事実。祭壇が壊れたから、当面は出てこないかもしれないけど……油断はできない」と返す。
ナスティアは尻尾を床に投げ出し、痛む腕を抑えながら「チッ……逃がしちまったし、まだやり残した感があるぜ」と苛立ちを隠せない。ミレイは短剣を手入れしつつ、「仕方ないわ。今は生き延びるのが先……」と宥めるように言う。
一方、レナは毛布をかぶって体を丸め、あまり口を開かない。おそらく魔力を使いすぎて気力が落ちているのだろう。ナシアは保存食の袋を広げ、スープを作るためのスパイスを出している。「さ、まずは食べてから話しましょう」と微笑む。
出来上がったスープはほんのりした香辛料の匂いが立ち上り、凍えた体を少しだけ温めてくれる。全員が紙皿に分け合い、ズズッと音を立ててすすりながら顔をほころばせる。
「はあ……助かる。もう一歩も歩きたくないくらい疲れた」
ミレイがつぶやき、パサラとレナは「私も……」とうなずく。ナスティアは「こんなのよく飲めるな……でも、まぁ悪くない」と尻尾を軽く動かす。セラは「いい香り。ナシア、さすがね」と素直に礼を言う。ナシアは「これぐらいしかできないけど」と肩をすくめる。
テントの中は狭く、皆が雑魚寝のように身を寄せ合うしかない。パサラがうっかり翼を広げかけて、ミレイやナスティアと衝突しそうになる事件も発生するが、「ごめんごめん」と即座に畳んで対処する。セラやレナは苦笑しつつ「大丈夫だよ」と声をかける。
そうした小さなハプニングがあるたび、重苦しかった空気が一瞬だけ和らぐ。戦闘と寒さが続くこの環境で、仲間たちとのやり取りこそが心の支えになっていた。
深夜、焚き火が弱まり、外の風がビュウビュウと唸る。気温がさらに下がり、耳が痛むほどだ。ナスティアやミレイは毛布にくるまり、セラとレナは互いの背中を合わせて体温を分かち合う。パサラは翼を小さく開いてバリアを作り、ナシアはフードをかぶったままノートに何かを書き込んでいる。
俺は薪をくべに外へ出るが、夜空には星が瞬き、息をするたび白い吐息が月光に溶けて消える。まるで何の変哲もない静かな夜。だが、洞窟の奥で交わされた“深淵”という言葉が頭を離れない。
(深淵……あの女はいずれまた現れるのか? 黒翼の男とも関係あるんだろうか?)
頭を悩ませても答えは出ない。とにかく、今は命があることに感謝し、仲間と温かい寝床を共有できることを喜ぶしかない。
テントに戻ると、パサラが居眠りしそうになっている。羽根の先が俺の胸元に当たり、くすぐったい感じがする。だが、彼女は「あ、現太さん……ごめん」とすぐに体勢を直す。ミレイは「ほんとに油断ならないわね……」と冗談めかすが、顔は緩んでいる。
こうして夜は更け、吹雪の前兆はあるものの、今はまだ耐えられそうだ。全員が横になって目を閉じ、交代で見張りをするという段取り。体力を回復しなければ、また明日以降の行動に響く。
セラとレナはまだ魔術書を広げて何か確認しているようだが、すぐに眠気に負けて閉じるのだろう。ナスティアは早々に寝息を立て、ミレイもケープを頭から被って静かにうずくまる。ナシアは「少しだけ外を見てくる」と言い、フードを被って出て行った。
俺は毛布の端を掴んで、体を丸めるようにしている。寒さが身に染みるが、周囲に仲間がいる安心感があるだけ救われる。氷壁の死闘で培った連帯が、今夜の眠りを守ってくれると思えるからだ。
激闘の傷を癒やすための一夜を描きながら、闇との戦いがまだ続くことを示唆して終わる。氷壁で巫女を退けたものの、彼女の言う“深淵”が将来どうなるのかは分からない。深く凍りついた世界に、ほんのわずかな陽光が射すような静寂があれば、それだけで生き延びる価値がある――。そう信じて、俺たちは眠りへと身を委ねるのだった。




