5.アリオンの涙
食堂のガラス面から強引に入り込んだ悪漢がクルカンを連れてどこかへ去っていくのをオルフェは遠くから見つめていた。
きゅう、と小さく鳴く声がする。
ウッドデッキから精霊族のアリオンが顔を出している。
白イルカのような愛らしい姿をしながら性格は勇猛で生息域を脅かす者には容赦なく、頭も良く言葉を理解し人魚族とは会話も交わすらしい。
「……近づきすぎると水をかけられますわ」
後ろから声をかけられてオルフェが振り向くと、赤髪の少女が立っていた。
オルフェは特に返答しなかったが、赤髪の少女――フィアナは意に返さずアリオンの近くに座り込むとパンをちぎって与えた。
「食堂で事件がありましたの。教師が連れ去られて……生徒たちに怪我はありませんが、大騒ぎになりました」
「…………聞いてねぇよ。ここからでもみりゃ分かる」
「あなたに言ってませんわ」
「人魚族がアリオンと会話できるってのは本当なんだな」
はっと人魚族のフィアナは思わず口を押さえた。
……特に隠している訳ではないが、お世辞にも良い人には見えないこの男には知られたくなかった。
「……人魚族だけではありませんわ。この子達は警戒心が強いだけで、仲良くなれば誰とでも話してくれます」
「お前……アリオンの涙って知ってるか?」
「…………精霊族ではありますがアリオンは海獣なので涙は出ませんわ」
「……そういう事にしておいてやるよ」
穿つような鋭い目線から逃れるようにフィアナは背を向けた。
「クルカン先生連れていかれちゃった……どうしよおリリーさん」
「えーっ……そ、そうね」
同級生の嘆きに別に気にしなくてもいいんじゃないかしらと喉から出かかったリリーはなんとか返事を絞り出した。
荒れたテラスを魔法で修復するのを手伝いながら生徒たちは雑談する。
「いい機会じゃないですか、校内の風紀が落ち着いて!」
声を荒げる女性教師にヴィントはびくっと肩を揺らし、慌てて緩く握った拳で口元を隠した。
……おそらくリリーと同じく出かかった言葉を無理矢理飲み込んだ所だろう。
「ここは我々は片付けますので、先生は、」
鬱憤で爆発しそうな教師をヴィントは体良く退場させた。
ここで本音は双方にいろいろと悪い。
「……先生もだいぶ、」
紫色の髪の女生徒は言いかけて手で口元を覆った。
後ろにいた獣人の男生徒が、
「クルカン先生は魔法についての造詣こそ深いが人間性に問題がありすぎる」
ばっさりと言った。
……何となくみんなそう思っていた所だ。
「実力はあるからそのうち帰ってくるだろう」
何かすごい投げやりにヴィントが言うと、
「えー!クルカン先生がいないと授業すんごいつまんない!」
女生徒が不服の声を上げ、リリーが慌てて女生徒の口を押さえる。
まだ近くに他の教師がいるかもしれない。
『――浸水します!!緊急です建物内に入って!!早く!!繰り返します浸水します─―』
急な校内放送に生徒たちが騒めく。
九割を海で占める魔法都市ロマネストは潮汐で海水が流入する事はしょっちゅうだ。
ただロマネストに住まうのは魔法使いばかりで、海水が流入した所で少しの雨と同じ扱い、水圧や体温、呼吸すら魔法でコントロールし気にも留めない。
基本建物内には魔法により浸水する事はないはずだが──…………
間を置かずテラス内も海水で満たされ、生徒たちからわあと声が上がる。
戸惑いの声でもあり、滅多にない現象に対する期待の声でもありどこか面白がっている所もある。
「せんぱい」
不安顔の紫色の髪の少女は一つ下の学年の少女だ。
リリーは不慣れな下級生を中心に固まるように指示を出した。
こぽりと水の塊が動く音がする。
高速で逃げていく魚の群れが見えた。
……逃げていく?何から?
『──繰り返します、建物内に入って!クルカン先生はどこ?は?誘拐?』
ぷつっと切れる放送を機にテラス内はしんとする。
同じ教師たちからも良い印象を持たれていないはずのクルカンを探している、と言う事は他の教師では対応が難しい何かがあったのだ。
いつの間にか戻ってきたフィアナがリリーの二の腕あたりを掴む。
大丈夫、の意味を込めてリリーはフィアナの手に自身の手を重ねたが、フィアナは緊張感のある声で言った。
「アリオンが居ませんわ」
リリーはフィアナと目線を合わせる。
アリオンは気象の荒く生息域を荒らすものには容赦が無い。
何かが近海に──
その時目にも止まらぬ速さで白いものがテラスの外側を横切って行く。
きゃああ、とテラス内から悲鳴が上がった。
続いて現れる黒く巨大な魚影に皆圧倒され、悲鳴をあげ、息を呑んだ。
ゆっくりと地面すれすれを泳いでいく鯨型の海獣──……
「ケートス……!」
「あれは子供ですわ。すぐ近くに親がいるはずです」
「こ、子供であんなに大きいの!?」
フィアナの注釈にリリーが驚嘆の声を上げる。
下手をすると校舎より大きいだろう。
「先程の白いものはアリオンだろう。迷子のケートスを先導しているのか……?」
ヴィントの疑問にフィアナが緊迫した声を上げる。
「アリオンはそんなに懐が広くありませんわ。討伐に追い込んでいるはずです」
「アリオンはケートスを倒せるの?」
「まさか!倒せなくても攻撃はします。そのくらい気性が荒いんです」
リリーの腕を掴んだフィアナは血の気が引いて真っ青だ。
フィアナは大型の海獣が苦手だと以前言っていた。
同じ海で暮らす人魚族なら尚更あの巨体の恐怖は充分染み付いているのだろう。
「ミュシャさん。フィアナさんから離れないで……あまり体調が良くないの。私達はアリオンを追うから」
リリーはヴィントに目で合図しながら紫髪の少女にフィアナを託す。
「リリーさん」
反論したそうなフィアナをリリーは手で制し、
「大丈夫。魔法はちょっと得意」
片目を閉じて笑ってみせた。
学年随一の才女がちょっととはとんだ謙遜だ。
割れたテラスのガラス窓をすり抜けてリリーとヴィントはケートスを追った。