15.未来永劫忘れて欲しい
大切にされていたのだ、いつも。
誰かに叩かれた事など一度もなく、兄たちの罵倒は毒のようで海綿に近く、それこそ男性から性的な目で見られる事も、軽んじられる事も一度もなかった。
「──ストレラとケイラを殴ったというのは本当なのか?フィアナ」
ふたりの兄を殴ったのは本当かと深く眉間に皺を刻んだ厳しい目の王が問う。
「本当ですわ」
フィアナは父である王の目をしっかり見つめて言った。
はぁと深い深いため息が王の口から漏れる。
「……男を殴る事を覚えさせる為にロマネストに留学させた訳ではない」
「何故殴ったのか、と聞いては下さらないんですの?」
「理由は問題ではない、殴るなと言っている」
そうだぞ、兄を敬え、と王の横に控えていた兄たちが口々に囃し立てる。
黙りなさい、と父の静かな抑制に兄二人は押し黙る。
「療養している母を悲しませないようにしなさい」
フィアナは目を伏せた。
父を敬え、兄たちを敬え、母を悲しませないようにしろ
──では、わたくしは?
一体わたくしの事は、誰がどのように尊重してくれるのですか、お父さま。
「はい、分かりました」
失礼しました、とフィアナは王座を辞し部屋を後にする。
兄二人も慌てて父に挨拶をするとフィアナを追った。
「おい、逃げるな、謝れよ」
「そうだぞ、まだ殴った事俺たちに謝ってないだろ」
並永しながら話しかける兄たちを振り切るようにフィアナは泳ぐ速度を上げる。
こみ上げて、鼻の奥が熱くなるのは悲しみだろうか。
痛みだろうか。
王族ではない為王の元に上がれないリリーとヴィントが待つ外へ向かう。
才能が無く居場所が無い為、強い者の陰に隠れて生きるしか無い。
ひどく情けなくて、苦しかった。
雰囲気に気圧されたのか、近衛が黙って外へ向かう扉を開けた。
「あ゛?何でお前らがいるんだよ」
「ひあ!?」
突然後ろからオルフェの声がしてフィアナは飛び上がった。
……そういえばすっかり忘れてた。
「貴方、どうしていつもいきなり出てくるんですの!?……あら?お兄さまたちは……?」
「知らねえ。壁にめり込んでる」
めり込み……振り返ると扉の前にいる衛兵の陰に隠れる兄たちが見えた。
オルフェを怖がっているのかリリーとヴィントを怖がっているのかは分からないが、父に言われて押し黙る通り兄たちは自分より能力が上と思う者に強く出られないのだ。
こっちはこっちでリリーがしゃっとヴィントの陰に隠れ、
「わ、私たちはフィアナさんを迎えにきたのっ」
と言った。
どうもオルフェの事は苦手らしい。
肩をすくめたヴィントが、
「どうやらクラーケンがポート周辺で暴れたらしく、動く船があるかどうか……」
と言った。
ディ・イ・タミラに着いたリリーとヴィントは手続きを踏んで一般人が立ち入りできる区画から王城に入る途中だったらしい。
進む途中でクラーケン騒ぎになり、警備が手薄になった所を奥に進みフィアナたちと遭遇し盗賊たちを捕縛したという事だった。
「じゃあ、帰れないんですの……?」
フィアナは俯いて自分の腕を握りしめた。
リリーは横で目を丸くする。
慌てた様子で、
「とにかくポートに行って使える船があるか聞いてみよう?」
と言った。
故郷であるディ・イ・タミラに戻ってきたフィアナが帰れないのか?と聞いて落ち込んでいる。
何かあったに違いない、とリリーは思った。
帰るのはディ・イ・タミラの方で、ロマネストでは無いはずなのに。
ポートに向いながらフィアナはリリーに尋ねる。
「……ところで何でメイド服なんですの?」
「えっ!あっ!これはっ!慌ててて……着替えるの、忘れちゃったから……」
リリーはスカートの裾を掴んで照れくさそうに答える。
何故そうなったかは分からないが、慌てたのは自分のせいだろう。急に居なくなったりするから、慌てて追いかけてきてくれたに違いない。
フィアナは、
「あの……ごめんなさい」
と小さく呟いた。
聞こえなかったのか、騒ぎにかき消されたのか「わ、なんか揉めてる!」とリリーは飛び出してしまう。
確かに、船の前でヴィントとオルフェが揉めていた。
「どうしたんですの?」
「使える船が一隻しかないが、オルフェが乗ると言って聞かない」
どうやら奇跡的に残った船はリリーたちが乗ってきた船らしく、鍵をよこせとオルフェはヴィントの襟ぐりに掴みかかる。
ヴィントは特に顔色を変えずにオルフェの人差し指を掴むと逆方向に曲げようとした。
たまらずオルフェが手を放したところで船上から蹴落とす。
といっても浮力があるのでハッチ付近には滞空しており……そんなに強い力で蹴落とした訳ではないようだ。
構わず言い合いをする二人をリリーは目を細め、顎に手を当てて考え込んだ。
「四人……収容可能人数は二人……」
フィアナはリリーの横顔を見つめる。
この顔が何を考えているのか読み取るのはフィアナの得意技だ。
「思いついちゃった」
「それしかないですわね」
リリーは地面を蹴って飛び上がると、ヴィントに抱きついた。
正確には船上にいるヴィントに抱きついてハッチから船内に落とした。
フィアナもオルフェに抱きつく……というよりほぼタックルする要領でオルフェを船内に落とし込む。
リリーはヴィントのポケットから鍵を抜き取り船を起動すると同時にフィアナがハッチを閉め船内の海水を抜いた。
こ、こら、何すんだよ!とそれぞれ抗議の声を上げるヴィントとオルフェにリリーがにこにこしながら言った。
「ほら四人乗れちゃった。私たち細身で良かったねえ」
「ちょっと狭いですが問題ありません。収容人数は人間の数であって、異種族であるわたくしたちでは状況が違いますわ」
何か言おうとするオルフェにフィアナがぴしゃりと言う。
「人様の船に乗せてもらうのに文句を言うものじゃありません」
オルフェは目を逸らして大人しくなり、ヴィントははぁ、と軽くため息をついてから船を操縦する体制に入った。
ドンドンと外から船を叩く音がする。
フィアナの兄たちだ。
ヴィントが通信を開くと、
『お、お前!まだ謝ってないだろ!』
『ほ、本当にそいつと結婚するのか!?』
外から声が入ってくる。
「けっ……こん……?」
目を丸くしてリリーとヴィントはオルフェとフィアナを見た。
「ひぃああああ!」
フィアナは絶叫する。
兄たちにはオルフェと口付ける所を見られている。
絶対余計な事を言いかねない。
『だってあいつとキ』
フィアナは身を乗り出して外部通信のスイッチを切った。
兄たちは喋っているが窓越しでは口がぱくぱく動いているのが見えるだけだ。
リリーはフィアナの肩口にぎゅっと抱きつく。
「フィ、フィアナさんと結婚するなら私を倒してからにしてください!」
「はぁ?何の話だ」
「……何か勘違いがあるようだな」
そう言うと冷静に操縦に戻ったヴィントが一瞬剣の柄に手をかけていたのをフィアナは見た。
このふたりなら極狭の船内で暴れかねない。
できれば未来永劫この話は忘れて欲しい、とフィアナは思った。
「動くぞ。側を離れろ」
限定的に通信で外の兄たちにヴィントが警告する。
何か言いたげ、というか喋っているようだかがもう通信を切ってしまっていて外とは会話はできない。
窓の外を険しい表情でフィアナは見つめる。
別れの挨拶はいいのかと声をかけようとしたが、ヴィントはフィアナに声をかけるのをやめた。
家族と不和である事はそれとなく聞いたことがある。
ディ・イ・タミラの海は心地よい。
人魚族の様相で泳ぎ回ると肌を撫でる海水が気持ちよかった。
でもきっと、自分には、二本の足の方が似合っているのだ。
フィアナは自分に言い聞かせた。
「リリーさん、あの……」
不思議そうな顔で見つめるリリーは回していた腕をそっと離し、フィアナの話に耳を傾けるもオルフェの声に遮られる。
「大体お前らは何なんだよ。恋人みたいに振舞いやがって」
お前!と乱暴にヴィントに向かって、
「姉貴との婚約はどうしたんだよ!」
と叫んだ。
ふえ、とよく分からない呟きがフィアナの口から漏れ、船内の空気が凍りついた。