13.今決めることじゃない
はぁ、はぁ、はぁ、とフィアナは肩で荒く息をした。
緊張のせいかガラス壁が破壊されて水圧が変わったせいか、周囲の音がくぐもって聞こえる。
天井から長く伸びてきた黒い触手は間違いなく海獣・クラーケンのものだ。
何故こんなところに?
触手はうねりながら目標を定め、盗賊のひとりを絡めとると壁の外側へ連れ去ろうとする。
フィアナは恐怖で固まったまま動けず、目を見開いたまま硬直した。
「馬鹿野郎!」
オルフェがフィアナを罵倒しながら腕の中に抱き込んだ。
ぎゃぁああという盗賊の断末魔が聞こえる。
オルフェが逃げるんだよ!と同時に叫んだ気がする。
壁の外側は深海だ。いくら人魚族であってもそう簡単に深海に出たりはしない。
体に小型のクジラが一匹乗るくらいの圧力がかかるからだ。
魔法で防護したとしてもどこまで持つか──特に魔力の弱い盗賊たちのような人間では。
まるでラジオの電源を落とすかのように唐突に、深海に連れ去られた盗賊の悲鳴は途切れる。
オルフェの体に遮られ、盗賊がどうなったかは見えななったが末路は想像がつく。
ひっ、とフィアナは短く悲鳴を上げた。
頭目や兄たちはひと足先にドア付近にたどり着いている。
逃げ遅れた人間が何人も絡め取られ、オルフェはフィアナの上半身を乱雑に抱え込んだまま入り口に向かう。
「クソッ……」
「あっ!!」
オルフェが触手に囚われる寸前フィアナを離したが、フィアナの口からは小さな悲鳴が上がるだけだった。
後先考えずにロマネストを飛び出し、心細くなると助けを欲しがり、いざという時は体が強張って動かない。
これでは、これでは──……
何をやってもダメで、居場所がない。
兄たちの言うことは本当だ。
「ううう……」
フィアナは身を縮こませて体を丸める。
ちり、と小さな音を立てて胸元のペンダントが揺れた。
フィアナは左手でペンダントを握りしめて、右手で自身の武器を呼び出す。
何をやってもダメで、居場所がない。
だけどそれは、今決めることじゃない。
「こ……の…………クソ……雑魚が!」
割れたガラス壁を足がかりにして抵抗していたオルフェは両腕で触手に掴みかかり離さない。
オルフェの得意である土魔法に部類される石化魔法をかけている。
石化に苦しみ、何とか抜け出そうとするクラーケンが残りの触手で追撃にかかる。
フィアナは素早く触手に近づき、自身の槍を突き立てた。
クラーケンに物理攻撃は効きづらく、フィアナの得意魔法である水魔法も効きが悪い。
それでも──
「──あるべき場所に帰りなさい!」
触手に差し込んだ槍先から自身の水魔法をクラーケンの体内に送り込む。
確かに水魔法は効きづらいが、海水に住まう彼らにとって真水は天敵だ。
ア゛ア゛ア゛ア゛……と、この世のものとは思えない悲鳴のような叫び声のような呻きを上げながらクラーケンは逃げ出していった。
「あーあ……ったく、引っ掻き回しやがって……」
逃げ出した頭目が戻ってきた声にフィアナは振り向く。
数は三人に減ったが──減った人員がどうなったかは想像したくない。
しっかり兄たちをまた拘束してやってくる。
「……ここは危険ですから、早く出た方が良いですわ」
フィアナが睨みつけながら言うと、それはそうだな、とまるで何事もなかったかのような表情で頭目は言う。
「さっさと目的の物をいただいて帰るとするか」
「お仲間が……亡くなってますのよ!?正気ですか?」
「まったくだ、あいつのせいでみーんな死んじまった!そいつも、」
頭目が指差す、フィアナの横。
オルフェが体を折り曲げて蹲っている。
「──えっ……?ど、え?ちょっと……」
フィアナは困惑して声をかけるが、返事がない。
シャツからのぞく腕には紫色の斑点が浮かんでいる。
「毒……!?」
先程のクラーケンが毒を持っていたのだろうか……素手で掴んだから?
「ほら、さっさと行こうぜ。鍵持ってんだろ」
盗賊のひとりにフィアナは二の腕を掴まれ引きずられるように奥へ連れて行かれる。
「や、やめ……」
てください、と拒絶の言葉の語尾は小声すぎて消える。
床に伏しているオルフェや、拘束されている兄たちを見るもどうにもならない。
「わ、わたくし、か、鍵なんて知りませんわ……」
「もったいぶってもいい事ないだろ?」
扉の前に連れてこられても鍵など所持していない。
「早く開けないとお兄ちゃんの指一本ずつ切り落とそうか?」
ひっと後ろの兄たちから悲鳴が上がる。
「本当に鍵なんか持っていないんです……!」
「部屋の鍵だ!髪留めにしてる部屋の鍵で奥の扉も開く!」
フィアナの悲鳴に近い叫び声に重ねるように兄・ストレラの声が上がる。
「何で言うんだよ!」
もう一人の兄・ケイラの抗議にストレラは髪を振り乱して叫ぶ。
「お、俺は知らない!父上にはケイラとフィアナがやったって言う!」
「はぁ!?」
後ろで罵り合いの喧嘩を始めてしまった兄たちを後目に盗賊がフィアナの髪から強引に髪飾りを外す。
「痛い!」
髪の毛を二、三本一緒に持って行かれたが盗賊は構わず扉に近づく。
「鍵穴ねえな……」
ふっと扉が髪飾りの魔力に反応して開いた。
おお、と頭目は歓声を上げ中に入っていく。
待てよ、俺たちにも取り分あるだろと三人の盗賊たちもフィアナたちを置いて入っていってしまった。
フィアナはそろりと後退するとオルフェの所に飛ぶように戻る。
オルフェ自身は回復魔法で進行を遅めているようだがそれでは駄目だ。
回復には上級の浄化魔法がいる。
限られた者にしか使えない浄化魔法はフィアナには使えない。
……どうしよう。どうしたら。
ふとこの手の毒は人魚族には効かない事を思い出す。
古代、人間たちは人魚族の肉を食べれば不老不死になれると妄信し人魚族を執拗に追って回った。
もちろん、人魚族の血肉に不老不死にする力などない。
海暮らしが長い人魚族は海生生物の毒に対して耐性があり、人魚族の血肉を摂取することで毒に耐性がつく、という逸話が捻じ曲がって伝わったのだろう。
……人魚族の血肉……毒の無効化……
本当だろうか。
失敗したら?
薬も術師も間に合わない。
「何だこれ、無いぞ!」
頭目の大声にフィアナははっとする。
──だめ、間に合わない…………あああ、もう、
フィアナは意を決して口内の内側を噛み切り、オルフェに口付ける。
オルフェの後ろでに拘束されたまま罵り合いの喧嘩をしていた兄たち二人が絶叫した。
意識を失っているのかオルフェの反応がない。
──無心無心無心無心………!
何も意識しない事を意識して舌を突っ込んだ。
「お、え、あ?つ、付き合ってたのか……?」
「な、な、今お前、んな、」
混乱している兄二人に、オルフェから体を離したフィアナは涙目で
「うるさいですわ悪口ばっかり喧嘩ばっかり能無し意気地なしいざという時逃げるだけへたれ役立たずお兄さま大嫌い」
と早口で言った。