12.深い深い海の底
「フィアナさん、大丈夫かしら……」
リリーは潜水艦のガラス窓の内側についた結露を意味なく指で掬う。
艦内の窓は厳密にはガラス素材ではなく、魔法との強化素材であるらしいが。
「女子寮からは自ら出て行ったらしいから何か理由があるのかもしれない……オルフェは、そう彼女には危害を加えたりしないだろう」
しまった最後の一文は余計だった、とヴィントは前髪をかき上げた。
瞬時に、むう、口を固く引き結びリリーの機嫌が悪くなる。
人差し指と中指で軽くリリーの前髪を梳く。
「怒ってません!」
ヴィントの指先を避けるリリーからは不機嫌が漏れている。
リリーは自身の小指で器用にヴィントの指先を絡めとると、何か言おうとするヴィントを制止して言う。
「……うそ、ちょっと怒った。オルフェは、本当はすごく強いから、純粋にフィアナさんが心配なの。でも心配するのはフィアナさんの事を信用していないみたいで……嫌なの」
うん、と相槌を打って話を聞くヴィントにリリーは続けて言った。
「ヴィントはオルフェと付き合いが長いから、知ってるみたいだけど、私は……ヴィントが話したオルフェしか知らないし、どんな人かよく分からない、よく分からない人とフィアナさんが一緒にいるのが……不安なの」
ぎゅ、と絡め取った人差し指と中指を改めて強く握る。
ここで謝罪しては傷つけるだけだとヴィントは判断してリリーの手を反対の手で包み込んでからゆっくり話す。
「校内にアリオンの姿が無かった。フィアナさんの後を追ったんだろう。あのアリオンはかなりフィアナさんを慕っていたようだった」
「うん……」
「ディ・イ・タミラはフィアナさんの故郷で、御家族がついてる。オルフェでも王族である彼女に簡単に手出しはできないだろう」
「うん……」
「時間もそう経ってない。すぐ追いつける」
うん、と相槌を打ってから小さな声で怒ってごめんね、と呟いたリリーはヴィントの胸元に顔を埋めた。
ヴィントは自身の翼でリリーを包み込む。
深度が深まるほど冷え込んでくるから寒がりなリリーにはちょうどいいかもしれない。
「……その昔人魚族の都は地上にあったらしい」
手持ち無沙汰に話し出したヴィントにリリーは耳を傾ける。
「人魚族は下半身が魚の様相で上半身はヒトと大差ない為酸素と光、海水を有する都が必要だった」
ただそれは同時に他種族に弱点が沢山あると晒しているようなものだ。
いつからか都は海中に移り、何度か場所を変え、次第に深く深く深海に降りていく。
「……人魚族にとって深く海の底に都を築けば築くほどその力を誇示する事となり、現在のディ・イ・タミラは人魚族の誇りであり、技術力の結晶でもあるんだ」
深海の都、ディ・イ・タミラは白亜の光に彩られ、人工的に夜も訪れ、水温や気圧や酸素も整えられた人魚族の過不足なき完璧な都なのだという。
「どこぞの教師が言っていた。ディ・イ・タミラほどの都を築くには強大な力が必要だと。ディ・イ・タミラには力の源……アリオンの涙と呼ばれるアーティファクトが存在しているらしい」
リリーは顔を上げてヴィントの顔を見つめる。
「オルフェはいつも力を求めていた。アリオンの涙を追っていてもおかしくない」
「アリオンの、涙…………」
ヴィントにしがみついたままリリーは考える。
アリオンの涙とはどんなものだろう。
街や国単位で滅ぼせるといわれているほどの力を持った危険な海獣が多く暮らす深い深い海の底に潜って都を築くのは、どんな気持ちだったのだろう。
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「だーかーらー、申し訳なかったって謝ったじゃありませんの」
フィアナはため息混じりにオルフェの牢の鍵を開けた。
「牢屋番は手違いの逮捕だって上手く誤魔化しましたし、宝物庫の警らは人払いしておきましたから」
「……テメェ、次やったらただじゃおかねえからな」
んふふ、とフィアナは口に手を当てて笑う。
「ここに来る途中お兄さまたちに会いましたの。わたくしの顔を見るなり飛んで逃げていきましたわ!お父さまはわたくしが殴るなんて露ほども思わないでしょうし、いい気味ですわ」
にやつきが抑えきれず、にひひと笑うフィアナは完全に悪の顔だ。
「……いい顔しやがって」
オルフェは小声で呟いた。
ディ・イ・タミラに来る前のフィアナは死にそうな顔をしていた。
てっきり自分が怖いのかと思いきや、あまり家族とうまくいっていないようだった。
「何か言いました?」
何でもねえよ、と肌艶良さそうなフィアナを伴ってオルフェは牢から出た。
「──宝物庫の奥は発掘採集されたばかりのものや、光に弱い物など保管されている場所があって一般に公開されていないんです。ですから何かあるとすればそこかと……」
宝物庫の奥の扉を開けると、中は暗闇だ。
そこかしこが白亜に輝くディ・イ・タミラとうってかわってガラス張りで都の向こう側──一筋の光も通さない深海が見渡せる。
「どこかに照明が──あぁ、これですわ」
フィアナが照明のスイッチを入れると、僅かだが暖色に輝く間接照明が光る。
「ヘェ。中はこうなってるのか」
聞き慣れない声がしてフィアナは驚き、オルフェは警戒して素早く振り向いた。
「……お兄さま?」
見慣れない男の集団の中にフィアナの兄たちがいる。
ただ、挙動不審で様子がおかしい。
兄たちが両手を後ろ手に縛られているのが見て取れ、フィアナは後ずさった。
「何だよテメーは」
オルフェがフィアナの肩を押し除けて前に出る。
押し除けられたフィアナは突然現れた集団に注意を払いながら周りを確認する。
館内は照明が少なく、薄暗い。
入り口はひとつしかない上に十二人の不審な男と捕えられている兄たち、オルフェと自分。
大体何故兄たちは捕らわれているのか……
「逢引き中すみませんねぇ姫様、王子がどうしても王家の秘宝を見せてくれるって言うんでぇ」
喋る頭目らしき男を筆頭に皆人間の様相をしている。
入国時に善良なヒトとして紛れ込んだ盗賊か何かだろうか。
言ってない、秘宝なんて知らない!と口々に言う兄たちは拘束されている紐を引かれ、まるで滑車で引かれるように横向きに吊り上げられうう、と情けない声を上げた。
「引っ込んでろ三下」
言うなりオルフェは抜き身の剣を構えている。
ちょ、ちょっと、とフィアナは止めに入ろうとするも、あまりの殺気に血の気が引いて動けない。
「おい、いいのか?王子様刺身にしちまうぞ」
「関係ない。口が減ってちょうどいい」
あ?と殺意を滲ませながら武器を構える男たち、や、やめろと悲鳴を上げる兄たちと一瞬騒然となる。
フィアナはオルフェのシャツの裾を引き、オルフェは反射的に裾を引いたフィアナを斬ろうとした。
斬ろうとして、ぴたりと止まる。
フィアナの見開いた目と視線が交差する。
オルフェが剣を持つ腕を止めたのは“何か”を感じたからで、フィアナの方が僅かに早く“何か”を感じ取って咄嗟にオルフェに防護魔法をかけた。
かなり長い間見つめ合っていたように錯覚したが、実際は一瞬だったのだろう、わあああ!と誰かの悲鳴が上がりガラスが破られるような音が響き渡り……フィアナは見た。
上空から真っ黒な、漆黒よりもさらに黒いものがものすごい速さで伸びてくるのを。