10.帰還
船内が僅かに揺らぎ、入港口に接続した事を潜水艦の魔法液晶が告げる。
「ディ・イ・タミラは初めてですの?外は海水ですから気をつけて」
フィアナはそう告げるもオルフェからの返事はない。
フィアナは軽く肩をすくめ、ハッチを開けると潜水艦の外に出た。
「あ?」
オルフェは外に出るなり上空──と言っても天井も海だが──に体を持っていかれそうになる。思ったより浮力が強い。
「……そうですわね、もう少し……こう、重さがあって床を歩くようにした方が過ごしやすいのではなくて?」
赤銅色の髪をたなびかせ、オルフェの周りをくるりとひと泳ぎしたフィアナは人の様相から変化し、元の下半身が魚の人魚族本来の姿に戻っている。
オルフェを床に誘導し、重力魔法で腰回りを重くする提案をする。
オルフェは軽く舌打ちをしたが、大人しく従った。
「酸素があるな」
「ええ。人魚族と言えど上半身はヒト型の生き物とそう変わりませんから……酸素も光も必要とします」
二人は上空を仰ぐ。
天井は白く光り輝いていて擬似的な太陽のようだ。
床も建物も全て白でできており、真っ暗な深海とは対照的だ。
「それにしても…………ポートがこんなにも賑わっているなんて……」
フィアナは困惑気味に呟いた。
オルフェは目線だけでざっと周りを見渡した。
フィアナは言及しなったが、人魚族以外のヒトの多さだろう。
ロマネストには一定の魔力が無ければ入国できないはずだが、そう魔力の高くない、おそらく種族はヒトと思われる者の多さ。
異質ではあるが、悪目立ちしたくないオルフェにとっては好都合だ。
「──じゃあ、ここに王城の紹介状を書きましたから。入国手続きが終わったらいらしてください」
「お前は」
「わたくしは元々ここの者です。手続きはいりません。先に行って家族に会ってますから」
ふいと顔を背けたフィアナの目には家族と会える喜びの色はなく、暗い。
オルフェはフィアナの目を少しだけ見て──紹介状を受け取ると黙って手続きに向かった。
──……ひめさま、ひめさま、お戻り?
「まぁ、テン、あなたもディ・イ・タミラに降りてきていたんですのね」
馴染みのアリオン──いつも学校の海水場に顔を出すアリオンがフィアナに並永する。
フィアナは大型の海獣は苦手だが、アリオンだけは好きだった。
イルカのような愛くるしい様相で、いつも親しげに話しかけてくれるので心の中では友人だと思っている。
……向こうがどう思っているかは、勇気がなくて聞き出せないが。
フィアナはテンという名前のアリオンの顎の下あたりやおでこ周りを撫でさすり挨拶をする。
テンも嬉しそうに甲高い声でピィピィ鳴いた。
──……ひめさま、あの男、ひめさまの伴侶?
「伴侶ではないですわ。恋人でもないです…………そう、ですわね……学友、というのが正しいかもしれません」
──……ガクユウ……
ふぅふぅとアリオンは鼻息を鳴らす。何か考え込んでいるようだ。
「分かりづらかったでしょうか……?同じ学舎で学ぶ仲間という意味ですが……」
──ナカマ!ナカマいいね!
ピッ!と短く鳴くとテンはフィアナの周りをくるくる回った。
アリオンは群れで行動する生き物なので仲間は分かりやすい言葉なのだろう。
──……ナカマ、従えておいて。ひめさま、ディ・イ・タミラ、何か、不穏。良くない。良くない水の流れ
「不穏?」
テンはカチカチカチと口から音を出しながら念話で喋る。この音はアリオンの警戒音だ。
──……分からない。でも不穏。ひめさま、気をつけて……
それだけ言うとテンは上空に上がり、仲間のアリオン達と行ってしまった。
「不穏…………」
ここディ・イ・タミラを離れたのはほんの半年と少しだというのに確かに少し変わった気がする。
以前は人魚族と出入りするアリオンの姿くらいしかなかったのに、明らかに人間が増えた。
しかしそれだけでは不穏とは程遠い。
何かアリオンにしか分からない、動物的直感のようなものがあるのだろうか。
考えてもしょうがない、とフィアナは軽く首を振ると王城に入った。
「お久しぶりですお父さま。お変わりなくお過ごしでしょうか」
フィアナは胸に手を当てて頭を下げる、人魚族式の挨拶で父親である王に挨拶した。
「良く帰ったな、フィアナ。皆元気に過ごしている。お前もロマネストでよくやっているようだな」
「はい。あの……ペンダント……」
「ペンダント?」
フィアナははっとして息をのむ。
顔を上げて笑顔で、
「いいえ、なんでもございません。お母さまにもご挨拶して参りますわ」
と言って父の前を辞した。
以前父から魔力増強のペンダントを送られた事があった。
やはり、あれは父が送ったものではないのだ。
「お母さま……」
母の寝室に入ると人魚族式のベッドに向かう。
人魚族の寝台は大きな水球型で、中はより濃度の高い酸素と水と魔力で満たされている。
水中にふわりと長い髪が広がり、ゆるやかなドレープで飾られた寝着を纏って眠る母は美しい。
「まぁ……フィアナちゃん。おかえりなさい」
うっすらと目を開けて微笑む姿は少女のようだ。
フィアナの母は春に魔力を吸い取る寄生虫に罹患し、駆除した現在も体調が戻らないとは聞いていた。
「ちゃんはやめて下さい。もうそんな幼児ではありませんわ」
ぷいと照れてそっぽを向くものの、母の変わらない態度が嬉しかった。
「こちらへいらして」
母に懇願され、フィアナは戸惑う。
いくら母といえど寝台に上がるのはマナー違反だ。
ね、おねがい、と子供のような目で頼み込まれて仕方なくフィアナは寝台に上がる。
こぽり、と濃度の濃い寝台でフィアナは母に近づく。
「ああ、送ったペンダント、つけてくれてるのね……」
「お母さまが送ってくださったのですね」
「ええ、あなたはわたくしに似て弱いから……もしもの事があってはいけないと思って。肌身離さず付けるんですよ」
胸がちくりと痛む。
弱いと言われたからだろうか、それとも父に似ず非凡な才を揶揄されたからだろうか。
「お母さま……」
「お父さまとお兄さまの言う事は良く聞いて。ロシャンは任せましたよ」
言うだけ言って、少し休みます、と母は眠ってしまった。
昔からそう、母は言いたい事だけ言い、少しも話をきいてくれない。
「……ええ、お母さま、何も心配なさらないで」
優しい母の気を揉ませる事はない。
他種族の男と帰ってきたなどと言っては母は気絶してしまうかもしれない。
「……種族?」
そういえばオルフェの種族は何なのだろう。
身体に獣のような特徴はないが、人間より遥かに高い魔力量を有している。
……クルカンのように得体の知れないタイプもいるし、あまり面と向かって種族を聞くのはマナーとして憚られる。
疑問は残るものの、フィアナはとりあえず母の寝室を後にした。
……願わくば何も知らず、療養していてくれますように。