一の巻 射干玉の夜
深い深い夜の帳が下りて尚、少年は山道を進むことを止めなかった。木に囲まれた細い道を朧げな月明かりを頼りに、ただただ先へと歩むのみ。一歩、また一歩と草鞋の足跡を刻んでいった。
少年の名は千夜丸。旅人である。彼は黒い衣を身に纏い、腰には刀の代わりに濡羽色の蛇ノ目傘を帯刀ならぬ〝帯傘〟していた。一方、服装とは対照的に結った黒髪から覗く顔は色白で、不気味なほどに麗しい。その出で立ちは人外めいた艶めかしさを宿していた。
千夜丸は道祖神の小さな石像を過ぎてすぐの場所でふと天を振り仰ぐ。夜空には煌々と星が瞬いていた。彼は一つ息を吐くと進行方向へ視線を戻す。
彼の足が止まったのはそのときだった。
突如、小道の風が強くなったのである。野分と見紛うほどの突風はやがてつむじ風となり、彼の進路を塞ぐように小道の中央で渦巻いていた。
「……む」
彼の瞳が剣呑さを帯びた瞬間、巻き上げられた砂埃に交じってつむじ風の中で何かの影が動く。それは彼が目を凝らそうとするよりも早く、自らの正体を現した。
旋風が周囲に弾け飛ぶように霧散すると、そこには玉虫色の小さな馬に跨った少女の姿があった。白い頭髪の上には金色の平額があり、緋色の着物と相まって闇夜の中でも鮮やかに咲き映えている。
千夜丸は確信した。
「ほう、馬魔か」
それは頽馬とも呼ばれている風の怪異。空から馬に襲い掛かり、殺してしまうことで有名だった。
千夜丸が興味深そうに少女――馬魔を眺めていると、彼女は険しい表情のまま開いた右手を天に掲げた。刹那、虚空より朱色の槍が召喚され、その柄を彼女の手が掴んだ。
眉をひそめ、馬魔は槍の穂先を千夜丸に向けて言う。
「不吉な妖怪よ。疾く逝ね」
直後、玉虫色の馬が嘶き、馬魔を乗せて駆け出した。
彼女は左手で手綱を握りながら、右手で槍を構え、真っ直ぐに千夜丸を睨みつける。そして軽快な駆歩の音と共に一瞬で接近するや否や、右手の得物をためらいなく黒衣の胸元目掛けて突き立てる。
しかし、彼女の槍は空を穿っただけだった。
穂先が当たる寸前で、彼は地面を蹴って宙に跳び上がったのだ。その高さは馬上にいる馬魔よりも高かった。
千夜丸はひらりと空中で身を翻し、そのまますれ違いざまに回し蹴りを繰り出す。彼の一撃は彼女の腹部に直撃し、鈍い打撲音を立てた。同時に馬魔は後方へ吹き飛んで落馬した。
「ううっ!」
大地の上に投げ出された彼女は顔をしかめながら唸り声を上げる。あの玉虫色の小馬は、彼女と離れた瞬間に存在を保てなくなったのか掻き消えるように消滅した。
千夜丸は華麗に片足で着地し、馬魔の方を顧みる。
「何用だ。吾は馬なぞ率いていないが」
「戯けたことを吐かすな……」
馬魔は槍の石突を地面に突き、杖のようにしてよろよろと起き上がった。腹に受けた蹴りが相当効いたらしく、彼女の表情は今も尚、苦痛に満ちていた。そんな状態でありながら、彼女は腹から声を絞り出して答える。
「……お前は鴉天狗だろう。凶兆の化身であり、全てに禍をもたらす。それは私たち馬魔にとっても例外ではない」
「ほう、吾の背に翼は無いはずだが、よく鴉天狗と見抜いたな」
「その忌々しい妖気は間違えようがないわっ」
両手で槍を構え直し、彼女は呼吸を整える。
千夜丸も肩をすくめると馬魔を正面から捉えた。彼女から一直線に殺意を向けられても、超然とした態度は変わらない。それどころか、口元にはうっすらと笑みが引かれていた。
「鴉天狗め、覚悟しろっ!」
馬魔は眼光強く彼を凝視しながら、はあっと喊声を上げて走り出す。彼女の気迫はまさに野分の如き荒々しさで、彼女が一歩駆ける度に周辺は入り乱れた突風に包まれてゆく。
再び、小道の風が強くなる。
すると、千夜丸はだらりと下ろしていた両手の五指を僅かに開いて呟いた。
「――明烏」
次の瞬間、間合いに到達した彼女の槍が閃く。仕留めた、と思わず口元を緩めた馬魔だったが、すぐに表情は驚きへと変わった。
「な、何っ」
暴風の中、彼女の言葉が木霊する。槍は忌まわしき鴉天狗を貫いてはいなかった。千夜丸の右手には一振りの剣が握られており、彼は槍の軌道を逸らすべく穂先の上から剣を押さえつけていた。
長さは約一尺七寸五分。通常の打刀よりもやや小振りの中脇差である。
彼は素早く槍を弾き返し、真横に剣を振るう。
「くっ」
馬魔は歯噛みしながら後退して斬撃を避けた。
その隙に千夜丸は小さな声を口に出す。
「――暮烏」
すると今度は彼の左手に、右手のものと同型の剣が姿を現した。途端、彼の内から妖気が溢れ、馬魔の起こす風と混ざり合って溶けてゆく。
馬魔には一瞬だけ、彼の背後にある筈のない翼の幻影が見えた気がした。
「挑まれたからには吾も全力で応えよう」
千夜丸は左右それぞれ順手に持っていた剣を器用に回転させ、どちらも逆手に持ち替えた。間髪入れずに片足だけで跳躍すると、彼は一気に馬魔の眼前に躍り出る。
「はっ!」
「っ」
右手の明烏を袈裟懸けの軌道で振るうも、彼女はそれをさらに引き下がることで回避する。そこで彼はすかさず左手の暮烏を、右足を軸にして強引に身体全体を回転させて、背中側から振り抜く。しかし、それすらも馬魔は後退することで避け切った。
彼女が有する槍の間合いは、彼の双剣の間合いよりも長くて広い。ゆえに双剣の間合いまで詰められてしまうと防戦一方にならざるを得ない。自らの武器の特性をしっかりと理解していた馬魔は、不利な状況でも冷静さを欠いていなかったのだ。
すると今度は馬魔が反撃とばかりに槍を勢いよく突き出した。
千夜丸は電光石火の速度で明烏を順手に持ち替え、槍の穂先を下から撥ね除けると、続けて大地を蹴り上げ前方に跳ぶ。そして前宙の後、刃を持つ両手を左右に広げたまま、さらに身体を捻って一回転しながら馬魔へ斬りかかった。
「なっ」
彼女は咄嗟に槍を自身へ引き寄せて斬撃を防ぐ。だが着地後に間髪入れず片足を振り上げて跳び上がった千夜丸の動きに圧倒され、硬直してしまった。
千夜丸は直前で暮烏も順手に持ち替えた後、地面と平行になった身体を軸に一回転させながら、先ほどと同様に遠心力を利用した二筋の切落を放つ。
「うっ――」
と、彼女が呻き声を漏らして後ろに数歩よろめくのと、彼が右足一本で軽々と着地したのはほぼ同時。千夜丸が確かな手応えを認識した瞬間、馬魔は肩口から腹にかけて血煙を上げ、声もなく背中から仰向けに崩れ落ちる。
投げ出された肢体がどさっと音を立てたとき、すでに彼女は絶命していた。
「馬魔に目を付けられるとはな。吾も嫌われたものよ」
独り言を口にした後、千夜丸は慣れた手つきで両手の愛刀を一度、その場で素早く振り下ろす。刃の血を払う血振りである。彼はしげしげと刀身を眺めた後、静かに深い息を吐き出した。すると二つの剣は役目を終えたとばかりに彼の掌から姿を消した。
「さて……」
肩の力を抜き、千夜丸は山道を見遣る。木に囲まれた道はまだまだ奥まで続いていた。
夜明けまでに山越えを成そうと決意し、彼は歩き出した。が、その足は馬魔の亡骸の横で止まる。彼がちらりと確認すれば、彼女の見開かれたままの目と視線が重なった。千夜丸は涼しげな表情を崩すことなく、馬魔の真横で片膝を突いてしゃがんだ。そのまま彼女の瞼に右手を置き、そっと両目を閉じさせると、今度は一切の関心を失ったように真顔ですっくと立ちあがった。
こうして千夜丸は再び旅路に就いた。