プロローグ
ここは高天原。数え切れないほどたくさんの神が暮らす神々の国。
那由多に広がるその国の、中心に仰々しくそびえるひと際大きな建物の名前は天照殿。瓦張りのその宮殿には、八百万の神々の中で最も尊いとされる三姉弟の神々が住んでいた。
まさに日本晴れの日の光に包まれて、のどかな空気が漂うその宮殿の中で、突如として空気を引き裂く大きな声が響いた。
「これは由々しき事態だわ!!」
宮殿中に甲高い声が響き渡って、神使の狗どもが肩を震わせて逃げ去り、物陰に隠れる。
声の主は宮殿の最も奥の、最も大きな部屋で、最高神に相対している幼い少女の神だった。
「つっきー。声が大きい、落ち着いて」
両手で耳を塞いで咎めるのは最高神・天照大御神。彼女は成熟した若い女性の神で、黒い長髪と白い衣装の組み合わせが印象的だが、やたらと豪奢な装飾品や座している玉座が不釣り合いで、着飾っているというよりかは、着飾らされているという雰囲気の方が強い。
「これが落ち着いてなんていられますか!」
威厳を保つために仕方なく付けている耳飾りを鬱陶しそうにする天照に相対して彼女に詰め寄る『つっきー』と呼ばれた少女は、最高神の言葉にも怖気づかず、なおも彼女に詰め寄る。
「だってこれはすべての神々の危機なんだもん! 三貴子は一柱、月読として見過ごせないわ!」
小さな手で自分の胸を叩いて声を荒げる月読は短く切り揃えた黒髪と黒い着物の姿で、なおも頬杖を突いたままの天照を見下ろしている。
「まあまあ、ほら、お姉ちゃんがおはぎを食べさせてあげるから」
そう言って天照はそばに置いている皿の上のおはぎを月読の口元に持っていく。すると月読は怒りに満ちていた表情を一変、見た目相応の屈託ない笑顔を浮かべる。
「わぁいおはぎだぁ! おはぎだぁいすきぃ! ぱくっ! もぐもぐごっくん! おいちー! ……じゃない!!」
しかしすぐに気を取り直して皿をはたきおとす。ただしおはぎはしっかり食べていた。
「えぇー。つっきーおはぎあげたらすぐ機嫌治すのに、今日は違うの?」
「今日は違うの! ……ねえ、お姉ちゃんわかってる? 最高神としてよく考えてよ」
そうして月読は本題を語る。
「今の人間たちはどんどんわたしたちの事を忘れていっている。蔑ろにして、存在を疑って信じてくれてない。人間たちが考え、学び続けて、わたしたちが司る万物に理由付けしていくのは悪い事じゃないと思うけど、それと同時にわたしたちの事を『もう要らない』って切り捨てているの。わたしたち神は人間あってこその存在なのに、わたしたちのことを信じてくれなくなるのはとても辛いし…、悲しいよ…」
少女の声はやがて濡れていた。
そんな妹の姿を目の当たりにして、天照は頬杖から身を起こし、姿勢を正す。
「そうね、それはとても悲しいことね。人間から信じてもらえなくなって、忘れ去られたなら、きっとこの高天原も、八百万の神々も存続はできないでしょう。……それで、そんな現実を嘆いてあなたは何がしたいの? 月読」
自分のことを愛称ではなく本名で呼ばれて、やっと姉が取り合ってくれたと、月読は少し嬉しそうにしながら、胸に秘めていた決意を声に出す。
「もう一度、わたしたち神々の事を思い出してもらえるように、人々の前に現れて、救いを与えたい。……わたしだけの力じゃちっぽけなものだけど、それを積み重ねていったなら、きっといつか…、楽しかったあの頃みたいに、人と神が寄り添って暮らしていける時代が来てくれるはずだから」
「……」
「…だから、お姉ちゃん。わたしに力を貸して」
天照は両手を膝に置いて妹の目を見据える。琥珀色の瞳の奥に情熱の炎を感じて、目を閉じ、小さく息を吐いた。
「……まあ、いいでしょう」
「ほんと!?」
「ええ、…他ならぬかわいい妹の頼みだもの」
ホッとした面持ちで胸をなでおろす月読に釘を差すように「ただし」と天照は付け加える。
彼女は立ち上がり、玉座のそばに鎮座している大鏡に触れた。その鏡は、鏡だというのに手前の風景を映しておらず、ただ白く自ら輝いている。
「やるからには中途半端はだめよ。この鏡が映すすべての時代、すべての世界を巡って、あらゆる種類の区別なく、遍く人々を救いなさい。それがあなたにできる?」
天照の問いかけに、月読は少しの迷いもなく快活に応えた。
「もちろん! だってわたしは神さまだから!」
元気なその言葉に天照は少し微笑んだ。
「それでは行きなさい、月読尊よ。これがきっとあなたの新しい神話になるのでしょう」
「はい!」
天照の異界へと繋がる鏡が一層輝いて、月読はその中へ自分の身を投じた。




