3.謀りの仮面 4/9
事件が起きたのは翌日の昼だった
「きゃああああ、誰か、誰か!」
廊下に響く叫び声。それは、沈花妃の部屋から聞こえた気がした。
珠蘭もそこへ向かう。廊下には宮女たちが集まりざわついている。部屋の戸は開け放たれ、整然としていた室内は荒れていた。棚や書架が倒れ、床には物が散らばっている。
入り口前では沈花妃が伏し、宮女に支えられていた。目立った外傷はなく、意識もあるようだ。花妃を支える宮女がしきりに「水を持ってきて」と叫んでいる。
騒ぎを聞きつけて厨から駆けつけた河江が珠蘭の隣に立った。
「物盗りかねえ。瑪瑙宮で起こるなんて物騒なこと」
珠蘭は頷きも返答もせず、ただじっと花妃の部屋を見つめていた。
散らばったもの、倒れた書架。一つ一つをじっくり眺めていく。時に、腕に付けた二つの腕輪に触れる。翠玉の碧輪と紅玉の紅輪だが、彼女の瞳にはどちらも枯緑色に映る。しかしじいとよく眺めていると二つの色にわずかな違いがある。どちらが紅でどちらが碧か、それを確かめながら腕輪の刻印を指でなぞる。太い直線の彫りがあれば紅、波濤線の彫りがあれば碧だ。そうして色を確かめていく。これが、珠蘭のやり方だ。
「物盗りだとしたら何が狙いでしょう」
宮女の一人が不安そうに言った。それが聞こえたから、珠蘭はずいと指をさす。
「塗箱がひとつ、なくなっています」
珠蘭の発言が、騒ぎに水を打つ。場がしんと静まって、皆が珠蘭に注目する。
「他は元と変わりありません。書架は倒れていますが書はすべて揃っています。ないのは棚にあった塗箱。二つあったはずですが一つが見当たりません」
「あ、あんた……どうしてわかるんだい?」
河江が恐ろしいものでも見るような目を向けたので、珠蘭は答える。
「ものを覚えるのが得意なんです。正確に判断できないものもありますが……物の位置や数といったものは間違えずに覚えられます」
「へえ。そりゃまたすごいねえ」
しかしこの会話を聞いていたのは河江だけではなかった。水影が大きな声をあげる。
「それって、あんたが盗んだからわかるんじゃあないの?」
再び場が静まる。水影は続けて責めたてた。
「盗んだ本人ならばわかるものね、何が部屋からなくなっているのか」
「な……!」
「花妃に取り入ろうとして騒ぎを起こしたんでしょう。ああ、やだやだ」
珠蘭は遠くにいたのでこの騒ぎも知らなかった。もちろん盗んだ覚えもない。疎まれるだけならまだしも濡れ衣を着せられるのは勘弁してほしい。
「私ではありません」
「みんなそう言うのよ」
「違います!」
二人が言い争っている間に、また人が増えた。騒ぎを聞きつけた宦官たちがやってきて、現場を覗きこんでいる。その中に劉帆と海真の姿もあった。
「花妃、無事ですか?」
海真は沈花妃の元に駆けつける。花妃はうっすらと瞳を開け、頷いた。
何名かの宮女は花妃の部屋に入り、失せ物はないかと探していた。散らばったものを片付けているが、元の場所がわからないのかなかなか進まない。
そして、一人が声をあげた。
「大変です。明後日の翡翠宮茶会で着ける予定の仮面が見つかりません」
その言葉に周囲がざわついた。水影が声を震わせながら宮女に聞く。
「そ、その仮面ってまさか……翡翠宮から頂いたあの……?」
「はい。友好の印にと頂いた翡翠の仮面です。他は揃っているのですが、収めた塗箱ともどもなくなっています」
部屋では宦官たちが棚や書架を起こしている。水影も部屋に入り、塗箱がないか探しているようだった。
だが見つからない。合子や書も一つずつ確かめるが失せ物はなく、ここに無いのは珠蘭の指摘通り塗箱だけだった。
水影は珠蘭の前に立つ。
「やはり、あんたが盗んだのね」
「違います」
「塗箱がないと真っ先に気づいたのはあんたよ。とぼけたって無駄、あんたが盗んだんでしょう」
水掛け論となりそうだ。根拠もなく言い放つ強気の水影にうんざりして、珠蘭はため息をつく。
その二人の間に立ち入ったのが劉帆だった。
「そこらへんにしておこうか。そんな言い争いで花妃の御耳を汚すのはよろしくないね」
これには息巻いていた水影もぐっと黙り込んだ。続いて海真が珠蘭に声をかける。
「珠蘭。今こそ、君の『瞳』を使ってほしい。この部屋が元はどうであったのか、覚えている限りを話してくれ。片付けをする宮女や宦官たちもその方が役に立つだろうから」
皆の注目が珠蘭に向く。珠蘭は静かに頷いた。
『瞳』と海真は呼んだが、実際はそこまで格好良いものではない。ただ人よりも記憶力がいいのだ。
色覚異常持つため、見えぬ色を探ろうと景色をじいと目に焼き付けているうち、その場のものを覚えるようになった。瞬間記憶能力とも言う。そうして覚えたものを後になって思い返し、二つの腕輪と見比べて何色であったかを考えるのが、珠蘭の生活であった。
沈花妃の部屋には二度来ている。その時の場面を思い返す。
鮮明に、頭に浮かんだ。
「あなたが持っている書は書架の二段目へ。その合子は棚の下に――桃白の花器は亀裂が入っていますが元からです」
珠蘭の言葉にざわつき、しかし宮女の数名が「その通りかも……」と呟いていた。
「どうして」 と、驚きの声をあげたのは沈花姫だ。海真に支えられながらも身をわずかに起こし、珠蘭を見る。
「桃白の花器に亀裂が入っていることを、なぜ知っているの?」
「花妃の部屋に入れて頂いた際に見ました。一度見たものは忘れませんので」
沈花妃が言葉を呑む。海真が穏やかに微笑んで宥めた。
「これが董珠蘭です。史明が瑪瑙宮に遣わせたのは、珠蘭の異常な記憶力が役に立てると思ったまで」
「……すごいわ。だって亀裂のことはわたくし以外知らないはずなのに」
その間にも次々に珠蘭は物の場所を告げていく。珠蘭を疎んじていたはずの宮女たちは、珠蘭を信じ、散らばったものを片付けるのに苦労しなかった。
しかしどれだけ探しても一つだけ見つからなかった。やはり翡翠宮から贈られた翡翠の仮面である。塗箱ごと失せていた。
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