6.寵愛の末路 11
晏銀揺の手に握られているものが月明かりを浴びて光る。刃だ。おそらく匕首だろう。それを振りあげてこちらにやってくる。
「珠蘭!」
同時に劉帆が動いた。晏銀揺が振りかざすより早く、劉帆が珠蘭の体を引き寄せる。
握られた刃が虚しく空を裂いた。劉帆に助けられていなければ、珠蘭は大怪我をしていたことだろう。
襲いかかってくるのが見えても逃げるというのは難しい。体が動かなかった。
「逃げろ、あれは話が通じない」
「でも劉帆が」
「僕なら何とかなる」
そう話している間にも晏銀揺が再び襲いかかる。今度は二人の間を裂くように匕首を振りかざした。珠蘭は地面を転がるようにして逃げる。劉帆も後ろに跳ねて躱していた。
(逃げなければ)
ここにいても戦える自信がない。手も足も震えている。
後退りをして距離を開けようとしたが、晏銀揺はそれを許さなかった。彼女の狙いは劉帆ではなく珠蘭である。
「許さない。苑月を返して」
珠蘭は身を躱そうとして――伸びた石蒜の茎に足を取られた。
「あ――」
どさ、と鈍い音がした。石蒜に埋もれるようにして、珠蘭の体が地面に倒れこむ。それを晏銀揺が見下ろした。
(これは厳しいかもしれない)
振り上げた刃が光り、下ろされる。
「珠蘭!」
劉帆の、悲痛な叫びが響いた。
風を纏って晏銀揺の腕が振り下ろされる。珠蘭は覚悟を決め、目を瞑った。
風が、吹き抜けていく。
石蒜が、揺れた。
来ると思っていた痛みは、待ってもやってくることがなかった。その代わりに、何かの影が珠蘭を覆っている。
「……え、劉帆」
瞳を開けば、目前に楊劉帆の顔があった。珠蘭に覆い被さるようにしてかばっていたのである。彼は強く目を瞑っていた。眉間に深い皺がより、苦しげな表情である。
「……珠蘭、無事か」
「私は大丈夫ですが、劉帆は……」
劉帆にかばわれたおかげで晏銀揺の姿は見えない。彼女が振り下ろさんとした刃がどこに消えたのかも見えていなかった。そのため代わりに劉帆が怪我をしたのだと思っていた。苦しそうな顔をしていたから、どこか痛むのかと思い込んでいたのだが――劉帆は表情を和らげた。
「僕も無事らしい」
どういうことだ。珠蘭はずるずると身を引きずって、劉帆の影から出る。
そこには晏銀揺がいたが、振り上げた腕は宙で止まっていた。見れば別のところから彼女の腕を掴むものがいる。その腕から辿りついた人物に、珠蘭は息を呑んだ。
晏銀揺の凶刃を止めたのは水影だった。
「逃げて」
静かに告げる。水影の手は震えていた。
「だめかと覚悟したけど、助かったよ」
やれやれ、と呟いて劉帆も身を起こす。珠蘭の手を掴んで晏銀揺から離れた。
その間に水影は晏銀揺を拘束する。手にしていた匕首は地面に落ち、後ろ手に縛られた。これなら襲いかかってくることはないだろう。晏銀揺も観念したのか地面に座りこみ、項垂れた。
「……間に合ってよかった」
水影がぼそりと告げた。そこに劉帆が訊く。
「最近の晏銀揺は黒宮を抜け出していたのか?」
「そう。夜から明け方にかけて、ふらふらと宮を出て行ってしまうの。ここは石蒜が咲くからね」
けれど石蒜は踏み荒らされている。花が好きな者とは思えない行為だ。
「どんどんおかしくなっているから、もう限界かもしれないね。昼はまだいい、でも夜になれば狂ってしまう。黒宮の寂しさは晏銀揺様を引き止められない」
「……そう、か」
水影が語った限界というのが何を意味するのか。それは唇を噛んで悔しそうな劉帆の表情から察することができた。しかし水影は清々しい顔をして空を見上げた。
「あたしもそうなったら解放される。あたしは最後の、黒宮の宮女だから」
「もしかして捕らえられたはずの水影が釈放されたのはそれが理由?」
珠蘭が訊くと水影は頷いて「顔だけ綺麗な冷淡宦官から引き続き黒宮に仕えよって言われて解放されたのよ」と話した。
いつぞや珠蘭が瑠璃宮に向かった時に水影とすれ違ったのはそれが理由だろう。冷淡宦官と聞いて浮かんだのは李史明の顔だ。それを確かめるべく、彼の名を口にしようとしたところで、後ろの方から足音が聞こえた。
振り返れば手提げ燭台の灯りが見える。李史明がいた。
「……はあ。泳がせればやはりここですか」
うんざりとした様子で李史明が告げる。
晏銀揺に水影、珠蘭と劉帆といった面々が揃っていることから簡単に状況把握ができたらしい。史明は珠蘭たちを無視して水影の方に寄る。
「任をこなしていただいて感謝します」
「別に。あんたに言われたから二人を助けたわけじゃない。あたしが珠蘭を助けたかっただけ」
「結果が同じであれば経緯に興味はありません」
はあ、と嘆息して史明は項垂れた晏銀揺の隣に屈む。
すっかり力をなくした晏銀揺は一人で立ち上がれなくなっていた。水影と史明に両脇を支えられ、何とか身を起こす。
「黒宮に連れていきます。劉帆と珠蘭は戻ってください。ついてこられても面倒ですから」
李史明がちらりとこちらを見る。劉帆は「わかった」と小さく頷いた。
「晏銀揺が二度と歌わぬよう、夜は黒宮に閉じ込めておいてくれ」
「劉帆に言われなくたって、そうしますよ」
史明は冷ややかに返すだけだった。
二人に支えられて晏銀揺が去る。去り際、彼女は振り返り、珠蘭を見た。
「ねえ、苑月。会いにきて。あなたがいれば幸福になれるから」
それは珠蘭が聞いた、最後の晏銀揺の言葉である。
石蒜の花畑から歌い手が去り、残るのは踏み潰された花だけ。今さら珠蘭たちがその茎を立てたところで荒らされた花は元に戻らない。
林の方に晏銀揺たちが消えていった後、珠蘭は呟いた。
「晏銀揺はどうして黒宮を抜け出して、ここに来ていたんでしょう」
呪いの歌を紡ぐ者、伯花妃を襲った者。それらの正体や謎が解けても、一つだけわからないことがあった。
なぜ晏銀揺はこの場所で苑月への愛を歌ったのか。
劉帆は珠蘭の隣に立ち、踏まれず凜と咲いた花を眺めて答えた。
「楊苑月の好きな花が石蒜だったらしい――それ以外はわからん」
そう告げた後、彼は身を翻す。花茎を踏まぬよう手で避けながら歩いていく。
紅の花である。珠蘭の瞳にはそれが稀色にしか映らない。
(私にはわからないけれど、きっと悲しい色をしている)
この稀色は悲しい。枯緑色の花畑にて想う。




