6.寵愛の末路 10
外からかすかに声が聞こえる。それは二人が宮を出る合図だ。
欠け月はゆるゆると高度を落としていく。皆、寝静まっている頃だ。歌がなければ静かな宵だっただろう。
「歌が聞こえますね」
「ああ。やはり珊瑚宮だな」
歌は珊瑚宮の方角から聞こえてくる。近づけば近づくほど鮮明に聞き取れた。
距離が詰まるにつれ、緊張感が増す。歌い手は伯花妃を襲っているのだ。珠蘭も念のためにと匕首を借りてきたが、その出番がないことを祈るしかない。おそらくそうなったとしても珠蘭はこれをうまく使えないだろう。
歌が、聞こえる。
『愛しい者が みな死ぬ』
『帰らぬ 帰らぬ』
近くで聞けば、やはり悲しい歌だ。愛しい人の死を嘆いている。その悲痛な叫びはこちらの心も沈ませる。
「僕の後ろで」
珊瑚宮の門前で劉帆が告げた。珠蘭が頷いて後ろに下がると、劉帆は手提げ燭台を掲げる。どうやら歌い手が宮の中にいるのかと疑っているようだ。珠蘭は庭を指さして告げた。
「昼間にきた時、石蒜が折れていました。おそらく庭にいるのかと」
「ほう。石蒜の花畑で歌っているのか。死を嘆く歌に似合いの場所だ」
二人は庭へと向かう。
一部の花は太陽が隠れれば萎むが、石蒜は夜でも咲く。月明かりに照らされ、花をぼんやりと映し出しているようだった。
『幸福は わたしを 裏切る』
『帰らぬ 帰らぬ』
『我が子 愛しい者』
『返して 返して』
歌声は花畑の中心から響いていた。そこに黒衣の者が立っている。黒の襦裙に、黒い被帛をかけている。その者はくるりくるりと舞いながら歌う。足元にある石蒜は踏み潰されて花茎が折れていた。
その者の姿に、劉帆と珠蘭は足を止めた。狂ったように回り、泣き叫ぶように歌う様は異様で、息を呑む。言葉を発する余裕はなかった。
『この国は 幸福を 許さぬ』
『愛しい者たち 待っているのに』
その歌が、ぴたりと止む。
黒の歌い手は月夜を見上げ、呟いた。
「……苑月、苑月」
歌ではなく掠れた呟き。その声音から、歌い手の名が頭に浮かぶ。
晏銀揺――黒宮で出会った先代翡翠花妃であり、劉帆の母。唯一、不死帝に愛された者。
珠蘭は劉帆の方を盗み見た。ここにいる晏銀揺は正気ではない。それを目の当たりにして大丈夫なのかと案じたのだ。しかし劉帆の表情はしんと冷えていた。
「ここまでおかしくなっているとはな」
「昼間に会った時も様子が少しおかしかったので」
「なおさら止めなければね。僕が行く」
視線は晏銀揺に向けたまま劉帆が言った。声は今までになく強ばっている。
そしてじり、と晏銀揺に近づいた時。石蒜の花をかき分けて歩を進めた劉帆に気づいたらしい。月明かりを浴びた晏銀揺の瞳がこちらを向いた。
「苑月?」
晏銀揺は自分の子が死んだと思っている。劉帆は宦官に扮して昼間に会いにいったことがあると話していたが、晏銀揺のうつろな瞳はそう捉えなかったのだろう。彼女は陶酔したように頬を紅潮させた。
「苑月、生きていたのね」
「……晏銀揺」
苦しそうに劉帆がその名を呼ぶ。しかし晏銀揺は止まらなかった。
「ずっとお待ちしておりました。あなたが急に変わってしまったから」
「……」
「あなたと同じ姿をしたものがね、苑月は来ないと話すの。そんなの誰が信じましょう。あなたが宮に通わなくなっても、わたしだけは信じておりました」
彼女の瞳に映っているのは、自らの子の楊劉帆でも、宦官の楊劉帆でもない。彼女が愛した不死帝の楊苑月だ。
(昼間に会った時と、また様子が違う)
晏銀揺は不規則に揺れ、月に照らされて映る頬は青白い。石蒜を踏みつけるのは裸足だった。正気ではないのだろう。昼間の時よりもかなりひどい状態だ。
「僕は……楊苑月ではない」
劉帆が告げた。
「何を仰るの? あなたは苑月でしょう? わたくしにはわかります。あなたが来なくなってからもあなたのことばかり夢見ていた」
「違う。僕は苑月ではない。苑月の愛はとうに死んでいる」
歌では『愛しい者が帰らぬ』とあった。晏銀揺は苑月を待ち続けていたのだろう。次にやってきた不死帝は苑月ではなく態度が一変したとしても、自分を愛してくれた苑月が戻ってくるのを待っていたのだ。
(なんて悲しい話だろう)
珠蘭はぐっと拳を握る。劉帆の発言に狼狽える晏銀揺を見ていられなかった。
「そんなのちがう、わたくし待っているのに」
信じられない、とばかり後退りをする。動揺した瞳が、ぱちりとこちらを向いた。珠蘭に気づいたのである。
瞬間、晏銀揺の顔色が変わった。
「あ、あ、わかったわ……苑月、違う人を想っているのね……?」
劉帆ではなく珠蘭に向けられている。嫌な予感がし、珠蘭は一歩後ろに引いた。
晏銀揺は誰の言葉も聞かず勝手な思い込みを進めていく。頭を抱え、体を震わせた。
「翡翠宮もそうよ、あれはわたくしの場所だったのに。わたくしの翡翠色と同じ衣を着たあの女め」
それは伯花妃のことだろう。晏銀揺は珊瑚宮に来た伯花妃を見てしまったのだ。彼女が翡翠色の襦裙を着ていたことから現翡翠花妃だと気づき、そして襲ったのだろう。
(犯人はやはり晏銀揺)
襲撃事件の真相は手に入れたが、晏銀揺はじりじりとこちらに詰めてくる。珠蘭を見ているようで別のものが映っているのだろう。
「あなたもわたしから奪っていくの。わたしの子も苑月も宮女たちも、奪ったのはあなたね?」
「違う」
すぐさま否定するも晏銀揺は首を傾げるだけ。声は届いていないのだ。
そして――袂から何かを取り出した。
「奪われる前に奪ってやる」




