6.寵愛の末路 9
話し終えたところで劉帆が長い息を吐いた。額を押さえているところから見るに、動揺しているらしい。
「……子は死んだと知らされていることは把握していた。実際、宦官として黒宮に通っていたからね」
「やはりあの饅頭も劉帆が?」
そうであろうと予想はついていたが、劉帆は認めた。
「晏銀揺は気が触れていて、苑月の愛が失われたことを受け入れていないんだ。だから不死帝からと言って僕が饅頭を届けている」
「なるほど……じゃあ、晏銀揺が『あの方』と言っていたのは苑月の頃の不死帝ですね」
「そうだね。愛されていた日々だけが頭にあるんだろう」
劉帆は晏銀揺の近況を知っていたようだが、彼を動じさせたのは水影が語った黒宮宮女たちのことだった。
「……黒宮付きの者はみな、都を出たと思っていたけれど瑠璃宮が殺していたとは。史明に聞いたこともあったが教えてもらえなかった」
「瑠璃宮の差し金で宮女を殺していたのなら、史明は知っていたかもしれませんね」
すると劉帆は「……だろうな」と呟いて、うつむいた。
「水影が瑪瑙宮に忍びこんだ理由も、珊瑚宮の樹然を殺した理由も納得がいく。あれも黒宮を守ろうと必死だったのだろう」
「怖かったでしょうね。急に不死帝の態度が変わり、御子は死んだと告げられ、次々と宮女仲間が殺されていくのは」
こうして真意を知れば、水影のことを恨めない。彼女が人を殺したことは事実であり、それは許せるものではない。だが彼女も、彼女なりの正義を持って行動していたのだ。
「悲しい話だ。苑月が罪を犯さなければ、誰も傷つかなかったのに――でも、」
そう呟いて、劉帆は顔をあげた。珠蘭をじいと正面から見つめる。
「最近学んだことだが、誰かを想うなというのは、案外難しいのかもしれない。自分にその気がなくとも自然と目で追ってしまうし、動向が気になってしまう。厄介なものだ」
どういう意味だろう。珠蘭は理解できず、小首を傾げるしかなかった。
劉帆は苦笑した。宥めるように珠蘭の頭をぽんぽんと叩く。
「気にするな。こっちの話だ――それで、この後はどうするつもりだ?」
この問いに対して、珠蘭は明確な答えを持っていた。すぐさま答える。
「歌を止めます」
「ほう? 伯花妃襲撃の犯人がわかった?」
「おそらく。ですが、それを瑠璃宮に伝えるかは迷っています」
「なるほど。伯花妃には申し訳ないが、それぞれの平穏のためにはそれが最善かもしれないね」
珠蘭は夜半、珊瑚宮に向かうつもりだ。だが史明に釘を刺されているので一人でと考えている。劉帆を連れて行くつもりはない。
「私は、史明に言われてますので、一人で行きます。絶対についてこないでくださいね」
「えー……僕も行くつもりだよ」
「やめてください。史明に怒られたくありませんから」
しかし劉帆は聞く耳を持っていないようで、腰に提げた刀を確認したりと出かける準備に忙しい。それを窘めようとすると、劉帆が言った。
「たぶん史明はわかっているよ」
「でも逃走してきたんじゃ……」
「建前としてね。でも逃げることはわかっていたんだろうさ。本当に閉じ込める気だったならもっと厳重な警備を置く。海真の力を借りても逃げられない」
その言葉に珠蘭の動きが固まる。確かにあの史明から逃げ出してきたのは違和感があった。納得はいくのだが、珠蘭が知る限り史明はそういう男ではない。どういう風の吹き回しか。怪訝に思っていると、劉帆が続けた。
「史明も、変わったんだろうさ。どこかの誰かから、よい影響を受けたのかもしれないな」
そう言ってうんうんと頷く。いまだ理解していない珠蘭を見かねて、「どこかの《《稀色の》》誰かがね」と追い打ちをかけた。
史明と話した記憶はあれど、これが彼を変えたとはっきりわかるものはない。それにまた史明と会う時は嫌味全開で以前と変わらないのだろう。その性格が変わってくれればよいのにと胸中でぼやいた。
楊劉帆とは図々しい男である。宵が深まるにつれそのことを充分に理解した。珠蘭の部屋から出ようとしないのである。歌が聞こえる頃まで寝台に寝転んでいた。
沈花妃に話は通しているらしい。本人がそう語っていたが、自分の部屋に他人の、それも宦官に扮してはいるが男がいるというのはどうにも落ち着かない。
「珠蘭。何か面白い話はないのか?」
暇を持て余しているらしく、度々聞いてくる。面白い話などいくつもあってたまるものか。珠蘭は窓の外を眺めながら「ありません」と素っ気なく答えた。
面白い話を要求したところで返ってこないとようやく学んだのだろう。劉帆は身を起こす。
「じゃあ暇つぶしに話をしよう。僕と史明の話だ」
珠蘭は首を動かし、劉帆の方を向く。その話には少しばかり興味があった。
「僕の生まれは語った通りだが、苑月の命で幼い頃に瑠璃宮に移された。とはいえ苑月は当時の不死帝、いつ命を落とすかわからない身。その上、僕は罪の子だ。いつ誰に殺されるかわからない。身を挺して僕を守るような従順な庇護者が必要だと思ったのだろうな」
「それが李史明だったんですか?」
劉帆は頷いた。
「ああ。あれは僕より十も上でな、年を重ねても見た目の変わらん羨ましいやつだ。元は奴婢だ。相貌を見込んで売りにかけられ都に入った。いわゆる宦官見習いだ」
霞の民は区別されている。大きく良民と賤民の二つに分けられる。賤民とは卑しいものであり、良民が持つ一部の権利を与えられない。例えば人を殺した時、賤民が良民に手を下せば死罪となるが、良民が賤民を殺しても死罪にはならないことが多い。賤民になる者は、過去に罪を犯した家系であったり、霞が島統一にて支配した他国の生まれであったりといった理由である。賤民の子は賤民というのが、霞の民区別であった。
幸いにも珠蘭が生まれ育った聚落は辺鄙なところではあったものの、元から霞の土地であった。そのため賤民として蔑まれることはなかった。
賤民は、隷僕として仕えることが多い。だが相貌の良いものは都に入ることもあった。幼子から都に入り、宦官見習いとして仕える。一定の年齢になれば宦官として処置を施され下級宦官になる。賤民の出であれば下級宦官が精一杯だが、なぜか李史明は上級宦官である。
「苑月は史明を育てた。僕を守るのならば賤民であること隠し、上級宦官にさせると約束したのだろう。物心ついた時から史明は僕と共にいた。あれは僕にとって口うるさい兄のようなものだ」
「史明は苑月からの命を守っているんですね。だから劉帆を危険な目に合わせないようにしている」
「だろうな。特例として上級宦官への道を開いてくれた苑月に感謝しているだろう。不死帝の秘密も守り続け、誰よりも霞の安寧を願っているのは史明だ」
だが、そう語りながらも劉帆の表情は暗い。その理由は、史明が劉帆ではなく、苑月に忠誠を誓っていることかと思ったが、次に劉帆が語ったものがその憶測を否定した。
「だが僕には……不死帝というものが、さほど良いものに思えない」
ぼそりと、弱い声である。その弱さが劉帆の本心であることを示しているように。
「不死帝の仕組みは知らぬ人から見れば不気味で畏怖の対象だろう。霞が平和であるのは恐怖の上に成り立っている。誰かを想う心や涙、そういった感情を仮面で押し隠している。これは本当の幸福なのかと僕は疑問に思うんだ」
「……劉帆は、どんな世が幸せだと思いますか?」
恐怖で敷いた現状は安寧のように見せかけ、血の通わぬ冷えたもの。劉帆が語るものは珠蘭にもよくわかる。だからこそ気になった。彼はどんな世を幸福と思うのか。
珠蘭の問いかけに劉帆は顔をあげた。まっすぐに見つめて、告げる。
「恐怖ではなく心で統治する。誰かを想うことが正義であると胸を張れるような、そんな国であれば幸せじゃないかな」
珠蘭は瞳を閉じて、考える。劉帆が語るように心で統治したのなら。その平和は恐れの上にあるのではない。仮面を外し、感情を表に出し、人と人が想いあえたなら――思い浮かべて心の奥がじわりと温かくなった。
そんな世があればいいと、珠蘭も思う。
「そうですね。それは幸せな世になりそうです」
「そのためには先が遠いな。今あるものを壊しても簡単に辿り着けない」
不死帝が消えれば再び島は戦火に包まれるだろう。劉帆が語るものは簡単に至れる世ではない。わかっているから切なそうな顔をする。
珠蘭は劉帆の手を取った。ぎゅっと握りしめる。
「私は劉帆を信じます」
「へえ? 僕を信じていいの? 後悔するかもしれないよ」
「はい。私は人を見る目があると思っているので」
すると劉帆はくすりと笑った。そして空いた手を重ねる。珠蘭の手は劉帆の両手に挟み込まれる形となった。手のひらは熱く、しかしいやではない。
「見えない色はあるのにね」
「私が見ているのは稀色と、劉帆が言いましたから」
言い返すと劉帆は「そうだったな」と小さく呟いて笑った。




