6.寵愛の末路 7
水影は黒衣を着ていた。宮女と変わらぬ格好だが衣の色だけ異なる。今日は泥のような化粧を施していないらしい。黒を着ているからか肌は青白く見えた。
婦人に気づかれぬよう廊下に滑り出て、庭に出る。しばらく歩いたところで水影が言った。
「あんたが出会ったあの人には、うまく伝えておくから。ここでの出来事は忘れて。その方があんたのためになる」
「私のため?」
「……あの方は可哀想なのよ」
水影は歩を止めて振り返った。その表情に今までのような敵意はなく、あるのは諦念だけだった。
「あの人はね、元は翡翠花妃だったの。だけど愛されてしまった。それだけで失踪したことにされて、ここに隔離されている」
「もしかして晏銀揺?」
伯花妃から聞いた先代翡翠花妃の名だ。それを口にすると、水影は驚いた顔をし、それから小さく息をついた。
「お見通しってことね。そう、あの人が銀揺様。ここも元は翡翠宮だったの。どういう理由か知らないけれど、銀揺様は失踪したことになって、翡翠宮は新しく立て直された。今ある翡翠宮は新しく建てられたものよ」
おそらく苑月があの場所に晏銀揺を隠し、誰も近寄らぬよう呪いの宮だと告げて、黒く塗ったのだろう。黒は禁忌の色であるから誰も近寄りたがらない。
「だけど銀揺様を愛した不死帝は……変わってしまったの」
水影の声が沈む。うつむき、悲哀をこもった語りが続いた。
「二人の間に生まれた子は瑠璃宮に奪われ、ここに通っていた不死帝も来なくなった。愛が冷めてしまったのよ。そして冷めたら、どうなると思う?」
「……嫌な想像だけど、用済みってこと?」
おそるおそる答える。そうでなければよいと願ったのだが、残念ながら水影は頷いた。
「そうよ。瑠璃宮は黒宮の宮女たちを追い詰めた。後宮から追い出すだけならいいのに、それでは口封じにならないから、勝手な理由をつけて殺していったのよ」
珠蘭が息を呑んだ。黒宮が閑散としていたのは、そこに勤めていた宮女がいなくなったのではない。殺されていったのだ。
伯花妃からは宮女たちは後宮を出た、と聞いていた。だが後宮を出た後の話は何もでてこない。死んでいたのならば当然だ。
(不死帝が急に変わったのは、楊苑月が死んだから)
当時の不死帝であった楊苑月が生きている間は晏銀揺を愛でていたのかもしれない。だが苑月が死んだ後は、別の者が不死帝となる。不死帝は変わらずそこにいるのに、晏銀揺への愛だけが失われたのだ。
瑠璃宮は二人の子である楊劉帆を奪って行ったが、晏銀揺や宮女たちは邪魔になる。もしも黒宮付きの宮女が逃げ出し、晏銀揺が隠れ住んでいることを広めてしまえば――それを恐れて瑠璃宮は宮女たちの口を封じた。
珠蘭は不死帝の謎を知っているため、人が変わったように晏銀揺への関心を欠いた理由も思い当たる。だが不死帝の謎を知らない水影や晏銀揺にとっては不可解だろう。愛が冷めたと捉えるのも仕方の無いこと。急に瑠璃宮が刃を向けてきたように思え、さぞ恐ろしかったことだろう。
「最初は宮女長が殺された。次はあたしと同じ年だった宮女よ。言いがかりをつけられて首を刎ねられたの。瑠璃宮から人がくるたび誰かが死ぬ。今は、あたししか残っていないわ」
「水影はずっと晏銀揺に仕えていたのね」
「銀揺様を守れるのはあたししかいない。瑪瑙宮や翡翠宮に忍び込んでいたのはそのためよ。瑠璃宮が怪しい動きをした時、あたしや銀揺様を守るため、殺される前に殺してやろうと思っていた」
水影は自らの手をぐっと握りしめる。殺される前に殺す、その決意は今も変わらないようだ。
今にして思えば、翡翠宮で水影に連れ去られた時の会話が納得できる。あの時水影は『誰に命じられて、殺しにきたの?』と問いかけていた。珠蘭が瑠璃宮の口利きで入ったことから警戒していたのだろう。
「瑠璃宮は、宮女を殺し、不死帝と銀揺様の御子も奪って殺した。あたしたちを罪人と呼んでね」
水影が呟く。おそらくその子供とは楊劉帆だ。水影はその子供が今も生きていることを知らない。知らされていないのだろう。
珊瑚宮の樹然をここで殺した理由も納得がいった。黒宮を探る樹然は瑠璃宮からの手先に見えたのだろう。殺される前にと簪で刺したのだ。
「銀揺様は、たくさんのものを失って、今は心を失っている。おかしくなってしまったの。だからこれ以上あんたが近寄ってはいけない」
水影が黒宮の詳細を明かすということは、珠蘭に対する意識の変化があるのだろう。敵対心は感じられない。だから素直に訊く。
「……水影は、私のことを心配しているの?」
問うと水影はじっと珠蘭を見つめ、それから薄く微笑んだ。
「……あんたは、助けてくれそうな気がしたから」
「水影や晏銀揺を?」
「違う。他の人たちが黒宮のような苦しみを味わうことがいやなの。怯えた暮らしをするのはあたしたちだけで充分よ」
そう言って、悲しげに己の手を見つめる。
「だって、この手は汚れすぎちゃったから。今さらあたしが助けてもらえるなんて思ってない」
その手は震えていた。水影の向こうで、垂れた柳の枝が風に揺れている。さらさらと音を立て、それは水影の罪を責めているようでもあった。
「……珠蘭。あんたは不思議よ」
水影が歩き出す。柳の木を通り過ぎて林の入り口へと向かった。
「その瞳、あたしには見えない色が見えてる。あたしにはこの後宮が鬱屈とした暗い場所にしか見えないけれど、あんたなら違うものが見えているのかもね」
そう言って、水影は手を振る。林の中に入ろうとはしなかった。珠蘭を見送った後黒宮に戻るのだろう。来客が帰ったことで悲嘆に暮れる晏銀揺を宥めるのかもしれない。
「元気でね。二度と来ちゃだめよ」
その言葉に珠蘭は振り返らなかった。
帰り道は、林を抜けるまでを長く感じた。憂鬱な心が足取りを重たくさせている。




