6.寵愛の末路 6
黒宮へは長い道のりだ。以前ここを通った時を思い出す。
あの時は珊瑚宮女の殺人事件について調べていた時だった。あれは悲しい事件だった。後宮を去った呂花妃の悲しそうな表情が頭に焼き付いている。
人の悲しむ顔も記憶されてしまうのが辛いところである。簡単に思い出せてしまうから、切なさが蘇ってたまらない。
(あの事件……何か忘れてる気がする)
解決したはずの事件だが、何か引っかかっている。大事なものに気づいていないような、もどかしさがあるのだ。
それが何であったか考えているうちに視界が開けた。林を抜けて黒宮に辿り着いたのだ。
黒宮は呪われた宮だと伝えられ、後宮の者たちは滅多に立ち入らない。そのため草木はのびのびと育ち、清浄な空気が漂っている。柳の木が垂れ、幹は凜と構えている。ここが厳かな場所のように感じられた。
前回はここで水影扮する老宦官と出会い、滞在時間は短かった。だが今回は水影らしき人物もいない。
まず黒宮に近寄る。黒と名がつく通り、柱は黒い。
(禁忌の色である黒……死んだ宮ってことなんだろうけど)
廃宮だからとあえて黒にしたのかもしれない。そっと柱に触れてみる。
(感触が違う)
翡翠宮や瑪瑙宮では手触りが滑らかだった。しかしこの柱は手触りがざらついている。さらに細かなひびが入っている。
違和感を抱き、そのひびに爪をかけた。すると、ぽろりと薄い黒の塊が落ちた。
(黒く塗っていただけ?)
塊を手にのせ観察する。黒い塗料を塗っていたらしい。塗料が剥がれたところは元の色が出ていたが、黒ではない。珠蘭の瞳に映るは枯緑色。
(緑か紅か……)
衣の袖をまくり、腕輪を出す。こういう時、すぐに色の判別がつかないことがもどかしい。幸いにもここは日差しが入っていて明るい。珠蘭でも時間をかけて腕輪と見比べれば判別がつくかもしれなかった。
翠玉の碧輪と紅玉の紅輪に刻まれた模様をなぞり、色を確かめる。
(これは紅ではないかもしれない。となれば)
もう少しで答えが得られるというところで、背後から声がした。
「綺麗な色でしょう?」
落ち着いた、年配の女人の声だった。咄嗟に振り返ればそこにいるのは枯緑色の襦裙に被帛を纏った婦人がいる。
髪は綺麗に結い上げているもののところどころに白髪が目立つ。数本の簪を差していることから宮女ではないだろう。凜と背を伸びた立ち姿は気品に満ちている。物怖じせず珠蘭をまっすぐ見据える様は伯花妃の品格に似ていた。
後宮で見たことのない人物である。珠蘭の記憶力にこのご婦人らしき姿は残っていない。それに後宮に勤める者としては随分と年齢を重ねている。
何者か、と構える珠蘭だったが、その婦人はゆったりと微笑んで柱を指さした。
「その柱、元は翡翠色ですよ。黒く塗ってしまったけれど綺麗なのよ」
なるほど。これは翡翠色だったのか。答えを得たことは嬉しいが、婦人への警戒心は残っている。
「あなた、どうしてここにいらしたの? ここは呪われた宮だから近づいてはいけないでしょうに」
婦人は穏やかな声音で問う。声音と裏腹に、こちらの様子を探っているのだろう鋭いものを感じた。
どう答えればよいものか。珠蘭が逡巡する隙に、婦人が手を取った。
「せっかくだからお茶でもいかが? 美味しい饅頭があるのよ」
「え?」
「こんな可愛らしいお客様が来ているんですもの。寄っていってちょうだい」
予想外にも婦人は好意的だった。皺が刻まれた手は意外にも力が強く、珠蘭の手をがっしりと掴んでいて逃げられそうにない。
観念してそのまま黒宮へと入った。
黒宮は意外にも広い。あちこちの柱や壁は黒いが、薄らとひびが入っているところを見るに、これも塗料だ。これを剥がせば、婦人が語った通り翡翠色になるだろう。
広い宮にしては宮女の姿が見当たらない。掃除はされているが、すれ違う宮女は一人もなく、宮は閑散として静かだ。宮女の数が少ないと言われる瑪瑙宮でさえもう少し騒がしいのだが、ここはそれ以上に人がいない。
珠蘭は婦人の後をついていく。向かったのは広い部屋だった。几や長椅子、厨子などが揃っている。どれも細部に装飾が施されていて、花妃の部屋と似ていた。
婦人は珠蘭を部屋に残した後、廊下に出て行った。しばし待っているとお茶と饅頭を戻ってきた。どうやらそれを運ぶ宮女もここにはいないらしい。
「どうぞ召し上がって。わたくし一人ではつまらないから、あなたが来てくれて嬉しいわ」
「……ありがとうございます」
茶は質素な味がした。沈花妃が好むような蜜糖入りの茶でもなく、伯花妃が楽しんでいた香り高い茶とも違う。聚落で飲んだような、どこにでもあるお茶だ。
歩き疲れて乾いた喉を潤し、今度は饅頭に手を伸ばす。それを手に取ろうとして、珠蘭の動きが止まった。
(これ、見たことがある)
枯緑色の饅頭。頂点に押された独特の焼印。珠蘭の頭がぐるぐると巡る。優れた記憶力は簡単に思い出した。
(劉帆からもらった饅頭と同じ)
知らない人から頂いたものを食べるのは勇気がいる。手に取った饅頭は小さく千切って口に運んだ。痺れたり、苦かったりすれば吐き出そうという考えだったのだが――その味も劉帆に頂いたものと同じである。ふんわりと甘い皮に餡。
向かいに座る婦人は珠蘭を眺めて微笑んだ。
「どう、美味しいでしょう? これはね、わたくしの好物なの。愛しい人がわたくしのために用意してくれるの」
細めた瞳は陶酔に満ちている。珠蘭はというと『愛しい人』の単語に違和感を覚えていた。婦人がうっとりと語るので、息を呑んでそれを聞く。
「でもたくさんあるからさすがのわたくしも余してしまうの。これを運んでくる宦官にもお裾分けしているんだけれど、それでも余るから、こうしてあなたが食べてくれると嬉しいわ」
同じ饅頭を持っていたことから楊劉帆が浮かぶ。珠蘭は小首を傾げながら宦官の名を訊いた。
「その宦官の名を教えていただけませんか?」
「ええっと……あら。何だったかしら。思い出せないわ」
誤魔化しているのではなく、本当に思い出せないのだろう。婦人は「困ったわ」とぶつぶつ呟いている。
「誰かに聞けばわかると思うんだけれど。ごめんなさいね、最近どうも物覚えが悪くて」
「じゃあ思い出した時に教えてもらえれば」
珠蘭が告げると、婦人はにっこりと微笑んで頷いた。
「ええ。それよりもあなた、帰り道は大丈夫? 送っていってあげたいけれど、わたくしはここから出られないの。心配だわ」
「たぶん、大丈夫です。これを頂いたら帰ります」
「寂しいわ。でも困った時は瑠璃色の柱を目指して歩けばいいの」
瑠璃色の柱。後宮内にそれがあるのは、瑠璃宮だけだ。この黒宮から瑠璃宮へはかなりの距離がある。目指して歩くというには、遠すぎる目標だ。
「瑠璃色の柱を目指せば、あの方がいるの。わたくしの知り合いだと伝えればご厚情をかけてもらえるでしょう――そうだ、あなたの名を教えて。今度あの方がいらした時、あなたのことを伝えておくわ」
瑠璃宮に婦人の知り合いがいるのだろうか。終始笑顔で話し続けているが、それが妙に引っかかる。
(何だろう。この違和感)
眉を寄せながら婦人を眺める。怪訝な顔をした珠蘭に気づかず、婦人が立ち上がった。
「お茶のおかわりを持ってくるわね」
そう言ってこちらに背を向ける。その簪が見えた瞬間だった。
(……あ)
見覚えのある簪だ。髪に差しているのですべての文様は見えなかったが、夾竹桃の花が半分ほど見えていた。
夾竹桃の花は翡翠宮の宮花。あれは翡翠宮の簪だろう。しかし現翡翠宮の主である伯花妃のものとは限らない。
(伯花妃の簪は夾竹桃の花が四輪。先代翡翠花妃の簪には三輪だったはず)
珠蘭はそのどちらも見たことがある。花が三輪の翡翠簪は苦い思い出がある。珊瑚宮の樹然が殺された時その胸に突き刺さっていた簪だ。
(樹然は、先代の翡翠簪で刺し殺されていた。殺されたのは黒宮近くの柳の木。殺したのは水影だったけれど)
そしてこの黒宮の柱は、黒く塗られているだけで元は翡翠色だと言う。
(失踪した先代翡翠花妃。先代の翡翠簪。誰も近寄らない呪いの宮。じゃあ、あの婦人は――)
様々な点が繋がっていく。婦人の名が頭に浮かびかけた時、扉が開いた。
「珠蘭」
現れたのは婦人ではない。瑪瑙宮で会った時と同じ顔をした、水影だった。
「今のうちにきて。長居されたら困るの」
捕らえられた水影が生きていることは、以前瑠璃宮ですれ違っていたのでわかっていた。表情やまなざしに敵意は感じられない。珠蘭は頷き、水影と共に部屋を出た。




