5.不死帝の黒罪 10/10
準備は滞りなく進んだ。伯花妃に見せてもらったものが参考になった。どのようなものを用意すればいいのか学んでいたので、沈花妃も驚くほど手際よく用意することができた。
珠蘭と沈花妃の入れ替わりを知っている宮女はわずかだ。宮女の装いをした本物の沈花妃は人目につかないよう、珠蘭の部屋へと移動した。
(今晩、海真が来る。兄に話は通っているだろうから、構えなくてもいいけど)
兄と妹。ゆったりと話せる時間は先日の散策の時ぐらいだった。今日は人払いをしているので朝までのんびりと兄妹の語らいが出来るだろう。
花妃に扮して、部屋で待つ。しばらく経つと外が騒がしくなった。珠蘭は小窓から覗いた。
瑠璃宮の宦官や官吏たちが列を作っている。手提げ燭台を持った者や不死帝がいることを報せる小太鼓を持った者など。その中央を歩くのはいつぞや瑠璃宮で見た不死帝だ。金飾の仮面をつけているが、あの下には海真がいるのだろう。
瑪瑙宮の宮女たちもばたばたと慌ただしい。朝から張り詰めていた緊張感が、いま爆発しようとしている。部屋前にいるひとりが戸をたたき「不死帝がいらっしゃいますよ」と掠れた声で教えてくれた。
不死帝と対峙する部屋はここではない。専用に作られた寝室がある。そろそろ移動する頃だろう。花妃に扮した珠蘭は仮面を着け、扇を手に部屋を出た。
先に寝室で待つ。ここに不死帝が入れば宮女や宦官たちは離れるよう伝えてある。
開いた扇で口元を隠しながら扉を睨んでいると、しばらく経って扉が開いた。
「お待ちしておりました。沈花妃でございます」
恭しく礼をする。手を前で合わせ腰を落とす花妃の礼だ。これは沈花妃に教えてもらって練習した。
不死帝は振り返り、部屋の外で待つ宦官や宮女たちに向けて手をあげた。下がれ、という合図だろう。すぐに扉は閉められた。
人払いをしたといえ外の者たちに聞こえぬよう、部屋の奥まで歩く。不死帝は何も語らず後ろをついてきた。
(わかっているはずのに、兄様が不死帝の格好をしていると緊張する)
不死帝は畏れの対象である。それがすり込まれているからか、中身が兄だとわかっていても恐ろしい。
部屋の奥でようやく足を止める。珠蘭が仮面を外そうとした時だった。
「珠蘭」
沈花妃の格好をしているからこそ、名を呼ばれると心臓を掴まれたようになる。どぎまぎしながら不死帝を見上げようとすると、彼の口元が弧を描いた。
「なんだ。まだ僕がわからないのか」
「は、はい?」
そう言って、不死帝が自らの仮面に手を伸ばす。いざ仮面を外すと、そこにいたのは董海真ではなかった。
「な、なんで、劉帆が……」
劉帆が来るなど聞いていない。今の不死帝は海真のはずだ。
狼狽える珠蘭に、劉帆はくつくつと笑う。劉帆の手は珠蘭の顔に伸び、瑪瑙色の仮面を外した。
「そこまで驚かなくてもいいだろう。僕だって不死帝候補の一人だ」
「で、でも今は兄様が不死帝ですよね?」
「もちろん。だから今日は海真に頼みこんで、僕が不死帝になった」
劉帆は愉しそうに言って、冕冠や飾りを外す。それらを外し身軽になったところでふかふかの寝台に寝転んだ。
「そう固まっていてもつまらんだろう。朝まで長いんだ、気を楽にした方がいい」
「は、はあ……てっきり兄様が来ると思っていたので……」
「だろうな。でも瑪瑙宮も入れ替わっている。文句は言えまい」
それは劉帆の言う通りだ。入れ替わっているのはどちらも同じ。
だが、兄が来ると思っていたのだ。それが劉帆となれば身構えてしまう。いまだ一歩も動けず困惑したままの珠蘭に、劉帆は手招きをした。
「ほら、おいで。何も手を出したりはしないから」
「う……」
「それは海真にも誓っている。あれは妹のことになるとしつこいな。何回約束させられたかわからん。ともかく僕を信じて、さあさあ」
しばし悩んだ後、珠蘭もおずおずと寝台に腰掛ける。隣に寝転ぶほど気を許すことはできないのでこれが精一杯だ。
「ふむ。甜糖豆でも持ってくればよかった。そうしたら懐いたかもしれないのに」
「あ。久々に食べたいですね」
「今度持ってこよう。たくさん持ってきて、君が何粒で音を上げるか試してもよいな」
「百粒は余裕です」
「それは僕の懐が甜糖豆だらけになりそうだ」
まさか百粒も持ってくるのかと想像して、珠蘭は笑った。すると劉帆が起き上がってその顔を覗きこむ。
「うん。君は笑っていた方がいい」
「そうですか?」
「自覚がないのか。君の笑っている時は可愛いよ」
可愛い、と改めて言われれば妙な気持ちが生じる。腹の奥底を温かなものでくすぐられているような気分だ。じいと劉帆を見つめ返すのも気恥ずかしく、珠蘭は顔を逸らした。
劉帆は再び寝台に寝転ぶ。天井を見上げながら呟いた。
「……君とじっくり話がしたかったんだ。だから楽にしてほしい」
「私と話……ですか?」
「うん。だから寝転んで。本当に手は出さないから」
いつもの軽薄な物言いから、真剣なものへと変わり、珠蘭は隣に寝転ぶ。見上げた天井は高く、宮女室とは違う豪奢な造りだった。
おそらく瑪瑙色の装飾を施しているのだろう。残念ながらこの瞳では枯緑色にしか見えない。ましてや燭台の灯りが頼りの夜だ。
隣に珠蘭が寝転んで少し経ったところで、劉帆が口を開いた。
「これからする話は、誰にもしないでほしい。海真や史明は知っているけれど、君が知っているとなれば史明は許さないだろうから」
「もしかして……晏銀揺に関することですか?」
史明に脅されたことを思いだして聞く。劉帆は「そうだよ」とあっさり認めた。
「君が探りを入れていたことで史明は警戒している。この話は不死帝や後宮だけでなく、霞にとってよくないことだからね」
「それを私が知っても、いいのでしょうか?」
劉帆は体勢を変えてこちらを向く。寝台に垂れた珠蘭の髪を一房撫で、穏やかな声で告げた。
「いいよ。君が、後宮は悲しみのない場所だと信じていると言っていたから、僕の気が変わっただけだ」
「……先日の、私が言ったやつですね」
「まあね。あれを聞いて、僕も少し考えを変えた。だから君に話そうと決めた」
髪から手を離し再び仰向けになる。劉帆は天井をじいと眺めながら、語り始めた。
「不死帝は罪を犯したことがある。それは僕や海真よりもずっと前の、二十年前に不死帝だった者だ。彼の名は苑月。生まれは随分と遠い聚落で、海真と同じように容貌で選ばれて都に連れてこられたのだろう」
珠蘭は頷きもせず黙ってそれを聞いた。劉帆と同じように天井を見上げたまま。
「その頃、瑪瑙宮に入った花妃がいた。晏銀揺だ。苑月は不死帝として瑪瑙宮に渡り――そして出会ってしまったんだ」
「まさか……苑月が晏銀揺を好いてしまった?」
「そう。血族制ではない不死帝にとって恋は罪だ。禍根を残すことになる。でも苑月は晏銀揺を愛してしまった。彼女を瑪瑙宮から翡翠宮へと繰り上げたのもそれ故だろう」
晏銀揺が翡翠宮に遷ったのは、不死帝の恋が理由だった。誰かを愛することのない不死帝が、晏銀揺に想いを抱いてしまったのである。話はそれだけで終わらない。末路まで、劉帆は知っているようだった。
「苑月の罪はそこでとどまらず、ついに形となった。二人の間に子が生まれてしまったからね。不死帝は死を超越し、子を必要としない。だから瑠璃宮は焦った。この子供を殺そうとした」
「ひどい。子供に罪はないのに」
「そうだね。だから苑月は晏銀揺とその子を守った。晏銀揺は行方不明となったことにし、翡翠宮を廃宮にした。晏銀揺らは後宮の奥に匿われたんだ」
伯花妃が言っていた一時期の後宮に響いた赤子の泣き声は、やはり晏銀揺に関係していた。伯花妃の勘は正しかったのだ。
しかし気になるのはその子供がどうなったのか、である。匿われた後、子はどこへ消えたのだろう。今も後宮の奥に潜んでいるのだろうか。
「今の瑠璃宮にとって苑月と晏銀揺のことは禁忌だ。これを知るのもわずかな官吏や宦官しかいない。不死帝の罪は封じなければならないからな」
「これが苑月の……罪でしょうか」
「そう。自らの立場を忘れた苑月が、ただの男として晏銀揺を愛してしまった。それが罪のはじまりだ。でも苑月が犯した罪はこれだけじゃない」
劉帆はそこで区切り、深く息を吐いた。次に紡がれた声は今までよりも低いものへと変わり、苑月が犯した罪の重さを語るようであった。
「……苑月は晏銀揺だけでなく、子も愛してしまった。その子供がいかにして後宮を生き延びるか、そのことばかり考えるようになったんだ」
「でも不死帝制度は血族制ではないから、その子供が生きる術はない……はずですよね」
「そう。幸いにも生まれた子は男児だった。苑月によく似た顔をしている――だから悪いことを思いついたんだろうね。生まれた子を生き延びさせるため、彼は企んだ」
劉帆は起き上がる。棚に置いた不死帝の仮面を取ると、それを目元に当てて振り返る。
「子を不死帝にする――この仮面制度は苑月の罪を隠してくれるからね。あとは子供の身長や体格が不死帝相応に育つのを願うだけだ」
仮面をつけて微笑んだ後、劉帆は仮面を外す。そこにあったのは諦念と切なさの混じった瞳だ。
「その子供は、可哀想だと思うよ」
その一言から察する。苑月が残した子供とは目の前にいる者ではないかと。
思えば史明も不思議なことを言っていた。現不死帝である海真が死んだら次を探す、と。珠蘭は次の不死帝が劉帆であると考えていたので、その発言に違和感を抱いた。だがもしも劉帆が苑月の子ならば、辻褄があう。
「その子供は不死帝候補として存在しながらも、けして不死帝になることはない……ですか?」
探るような珠蘭の問いかけに劉帆は頷いた。
「そう。いつも次の不死帝として存在しながら、けして不死帝にならない。それが苑月が遺した、子を守るための手段だ――君は誰のことかわかったのかもしれないけれど」
再び劉帆が寝台に腰掛ける。今度は寝転ばなかった。珠蘭の髪をすくい上げ、撫でる。しかしその目は遠くの何かを見ているようだった。
「その子は幼い頃から『後宮は悲しみの場』だと教えられてきた。苑月が暗殺された後もそうだ。次の不死帝は、苑月の子を罪人の子と疎んじて、隙さえあれば殺そうとしていた。何度命を狙われたかわからない」
「……劉帆、あなたは」
「知らないふりをして、でも聞いていて。君に話していれば不思議と楽になるから」
髪を撫でる指先が震えている。劉帆にとっては、口にするのも勇気がいる話かもしれない。弱々しい姿を少しでも励ましてあげたくて、珠蘭は己の手を劉帆に重ねる。髪を撫でていた指先は驚いてぴたりと止まった。
「……本当に君は不思議だね」
「自覚はありませんが」
「僕にとって君は不思議な存在だ。その瞳が稀色しか映さないとしても、僕の知らない色をたくさん知っている」
苑月の子は後宮で生まれ、後宮で生きていくのだろう。彼が負った不安や寂しさを思い浮かべ、珠蘭は重ねた手を優しく握りしめる。少しでも抱えているものが解けていくように願って。
「辛くて泣きたくなったら、呼んでください。いつでも劉帆のそばにいますから」
「ふふ。君は、そういう優しいことも言えるんだね」
「はい。甜糖豆を持ってきてもらえればいつでも」
告げると劉帆は笑った。その瞳は寂しげに潤んだまま。
晏銀揺のことを探ってはならない。史明が珠蘭に忠告したのはこれが理由だろう。史明は楊劉帆を守っているのだ。
楊苑月――それが、過去に不死帝であった者。晏銀揺を愛する罪を犯した者。
(晏銀揺のことは忘れよう。伯花妃に聞かれたとしても、私は答えない)
珠蘭はそう誓った。いま聞いたことは忘れて、明日からはいつも通りに劉帆と接しよう。それが一番だと考えたのだ。
此度の不死帝の渡御により、揺らいでいた瑪瑙宮の立場は守られた。沈花妃が傷つくこともなく、誰もが傷つかない最適な道を進んだのである。
後宮にしばしの平和が訪れた。珠蘭が晏銀揺のことに触れることもなくなった。この件は胸に秘め、二度と思い出さぬつもりであった。
それが一変したのは、秋の頃。風が涼しさを纏う頃、後宮に死の歌が響いた。




