5.不死帝の黒罪 7
命じられるまま後を追う。部屋を出て、渡り廊下へと向かった。
そこは黒宮に向かう時に見た渡り廊下だ。あの時の伯花妃は警戒してあたりを見渡していたが、今日はそれをしない。歩きながら珠蘭に話す。
「おぬしがかばってくれなければ、珊瑚宮の呂花妃が襲いかかってきた時、我は怪我を負っていただろう。お前には恩義がある」
「いえ、あれは当然のことで……」
「いつぞや持ってきた届物を宮女が無下に扱ったと聞いた。あれは宮女の独断であって我が命じたことではないが、おぬしを傷つけたのは確かだ。だから、今から見せるものは翡翠宮からの詫びと恩返しだと思えばよい――入れ」
それは渡り廊下の先にある、薄暗い部屋だった。重厚な扉で遮られ、窓はない。翡翠宮の奥にある離宮のようだ。
重たい扉を開く。中は薄暗かったが、燭台の火が灯っていた。
扉を閉めた後、伯花妃は告げる。
「沈花妃は帝を受け入れぬのは想い人でもいるのだろう。呂花妃のように宮に引き入れているのかはわからぬが、だいたいは予想がつく」
珠蘭は答えず、伯花妃の後をついていく。
「我も、羨ましいとは思う。毒だらけの後宮で何かを想えることは、純粋にうらやましい」
「伯花妃は恋に憧れるのですか?」
「……我はそのようなものを忘れた。伯家を背負うだけで精一杯だ」
その言葉はひどく寂しい。伯花妃は、呂花妃のように誰かを想うことに羨望を抱いているのだろう。名門伯家を背負うことは、その想いを抱く隙さえ与えなかったのかもしれない。
室内は埃の匂いがする。壁にはいくつもの架があり、書が乱雑に並んでいる。厨子の扉には埃の糸がかかっている。
だが床は綺麗だった。何度も行き来しているのだろう。
最奥には燭台の灯りに照らされ、伯花妃がいた。いや、二人目の伯花妃がいたのだ。
「え……どうして、二人も」
珠蘭は隣にいる伯花妃を見る。そして前方にも、同じ仮面を身につけ、同じように髪を結った伯花妃がいる。
何度も首を動かして確認する珠蘭に、隣にいる伯花妃は笑った。
「よく見ろ。お前の前にあるのは、本物の人間ではない。人形に衣と偽髪を着せただけだ」
目をこらせば、確かに顔がない。綿を詰めた布袋に仮面を着け、伯花妃と同じような衣を着ているだけ。その髪を撫でながら本物の伯花妃が告げる。
「この偽髪は宮女たちに協力してもらった。これを被るだけで我のようになる」
「薄暗い中なら本物みたいです」
「普段から仮面を着けて顏を隠す。我に似せた偽髪、我が使う簪や衣はすべて二つずつ揃えた。この部屋にあるのはどれも伯花妃に成るための道具」
歩揺や簪まで、伯花妃の厨子にあったものと同じものが並んでいる。
「どうして、これを揃えたんですか?」
すると伯花妃は高らかに笑った。「決まっておろう」と愉快そうに切り出す。
「不死帝が来た時のためだ」
「不死帝が来た時のため……?」
「死を超越したなど得体の知れぬ男に、どうして我の肌を見せねばならぬ。我は不死帝に心を許しておらん。共に閨に入るというのならば代役にこれを着せて過ごすだろう」
つまり、不死帝に会いたくないということだ。あっさりとそれを告げたことに驚いていると、伯花妃は仮面を外した。
初めてみるその顔は美しい。双眸はやや細くつり上がっているものの、凜として涼やかである。透き通るような肌や額から鼻筋にかけての造形、どれも美しい。
沈花妃が愛らしさの象徴であれば、伯花妃は聡明さを顔に映している。これを仮面で隠し続けていることが勿体ないと思えてしまうほどだ。
「仮面を外してもよいのですか?」
「おぬしを信頼しているからな。滅多にないことだ、その優れた記憶力に我の顔を焼き付けるとよい」
そして同じ仮面を身につけた人形に触れる。その瞳は温かな光を秘めていた。
「幸いにも霞には仮面という武器がある。うまく使えばこうして身代わりを立てられる。我は、呂花妃や沈花妃の気持ちがわかるつもりだ。得たいの知れぬものと共に過ごすなど許せるものか」
身代わりを立てる。その言葉に閃いた。
うまくいけば沈花妃の願いを叶えつつ、瑪瑙宮が帝を受け入れることができるはずだ。
珠蘭の表情が晴れやかになったことに気づき、伯花妃が笑う。
「我が何を伝えたいか、わかったようだな」
「秘密を教えていただいてありがとうございます」
「よい。これは恩義を返したまで。沈花妃を救ってやるといい」
珠蘭は深く頭を下げた。もう一度仮面をつけた伯花妃は満足そうに頷き、珠蘭の肩を優しく叩いた。
「後宮が誰しもにとって優しき場所になるよう、願っている」
燭台の灯りを消し、扉を閉める。部屋を出た伯花妃は、凜と背を伸ばして珠蘭の先を歩いていった。
翡翠宮を出て瑪瑙宮に戻る頃には空が暗くなっていた。随分と長居をしてしまった。急ぎ戻るも、瑪瑙宮の空気は重たい。
宮女たちはざわつき、厨にいるはずの河江も出てきている。何事かと珠蘭が近づけば、待っていたかのように河江が口を開いた。
「沈花妃が部屋に閉じこもっているんだよ」
「それは私が出て行った後からですか?」
河江は頷いた。
「今は誰も入らないでくれと言うんだ。夕餉を持って行こうとしたんだけどね、それも食欲がないと断られてしまったよ」
様子が気になり、珠蘭も部屋に近づく。
沈花妃が部屋にいることは間違いない。すすりないているのだろう音が聞こえる。燭台の灯りも見えた。
「昨日も塞ぎ込んでいただろう。これ以上泣いていれば花妃の体が参ってしまうんじゃないかねえ……」
厨には花妃を慮ったのだろう薬湯が用意されていた。まだ湯気がのぼっている。冷めてしまう前に届けたいところだ。珠蘭は部屋に近づき、扉を叩く。
「董珠蘭です。部屋に入ってもよろしいでしょうか?」
けれど、すぐに返事はなかった。しばらく待っていると、掠れた涙声で「来ないで」と聞こえる。
これは参った。良き案が浮かんだというのに、どうしたら伝えられるだろう。
結局、この場で宮女たちが沈花妃の部屋に入ることはできなかった。そのうちに夜の濃さが増していく。




