5.不死帝の黒罪 5
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翌日、珠蘭は瑠璃宮に向かっていた。
何でも沈花妃宛の書状が届いているらしい。城外からの書状はいったん瑠璃宮に送られ検閲にかけられる。検閲が終わる頃、宮女が取りに向かうのがしきたりだ。それは昼過ぎに終わるとのこと。沈花妃は珠蘭にその受け取りを依頼した。
瑠璃色の門柱が見えてくる。これは何度見ても美しい。蒼色は心が凪ぐ。いったん足を止め、その瑠璃色を目にしっかりと焼き付けた後、宮に入った。
宮に入ってすぐである。廊下の向こうを歩いてくる人物がいた。襦裙を着ていることから女人だろうが、頭から長布を被っているため顔はわからない。手を前で組み、おずおずと歩いていた。珠蘭の方をちらりとも見ようとしなかった。
(どこかの宮女にしては、襦裙の色が違う)
目を引いたのは襦裙の色だった。黒衣。漆黒のような色はどの宮でも使われていない色。
気になってすれ違い様に、相手の様子を伺う。俯いてはいたが、布が揺れた隙にその耳朶が見えた。
「……水影」
咄嗟に、その名が出た。
呟こうと思ったのではなく自然と、こぼれるように。
黒襦裙の者はぴくりと背を震わせたが、何事もなかったように歩いていく。珠蘭は振り返り、もう一度声をかけた。
「あなた、水影では?」
水影は珊瑚宮の一件にて捕らえられたはずだ。だが、その後の話は聞いていない。処断されたのだと思っていたのだが。
(あの形は間違いなく、水影だ)
確信するも、水影は振り返ろうとせず歩いていく。逃げるように歩を速めていた。
珠蘭はそれを追う。もしも水影ならば、なぜここにいるのか。まさか逃げ出したのかと嫌な汗が浮かぶ。
だが、それ以上の深追いは許されなかった。
「董珠蘭!」
冷ややかな声が廊下に響く。見れば、李史明がこちらをひどく睨みつけていた。ぎらついたまなざしに怒気が潜んでいる。
珠蘭が史明に気を取られている間に、水影は去っていった。瑠璃宮から出て行こうとしているのだろう。これ以上追いかけることはできず、歩み寄ってくる史明を待つ。
「そこで何をしている」
「申し訳ありません。見覚えのある者がいたもので」
史明は水影が消えた廊下を見やり、舌打ちをする。
「お前は気にしなくていい。あれはこちらで処理したことだ――用件はわかっている、こちらへ来い」
嫌な汗はまだ体に張り付いていて気持ち悪い。史明の声が冷淡であることも不快感を倍増させる。
渋々史明についていくと、向かったのは宦官たちが使う部屋の一つだった。今は誰もいないらしい。珠蘭が部屋に入るなり、史明は扉を閉めた。
「董珠蘭。お前が後宮に来た目的をわかっているのか?」
「後宮内の掌握、情報収集だと思っておりますが」
その返答を、史明は鼻で笑った。
「少し違うな。瑠璃宮に命じられた件だけ、情報収集をすればいい」
「どういう意味でしょうか?」
李史明は振り返り、珠蘭の方へと歩いていく。彼の右手は、腰に提げた刀の柄を撫でている。
「他の宮から余計な話を聞き、余計なことをしているようだな。その好奇心はお前を殺す」
一瞬にして、思い当たる。それは先代翡翠花妃、晏銀揺のことを示しているのだろう。
つまり、彼は晏銀揺について探られたくない。今にも刀を抜きそうな手や、鷹のように鋭い眼光がそれを告げている。
史明は珠蘭の前に立つ。この距離ならば、史明が刀を抜けば一瞬で斬られるだろう。
「劉帆に気に入られているからと調子に乗らぬようにな。私は、お前を斬ることに躊躇いを持たない。劉帆ができぬと言うのなら、私がやるまで」
珠蘭は口を噤んだ。その態度が気に入らなかったのだろう、史明は忌々しそうに言った。
「それともお前は、自分が殺されるより兄が殺された方が考えを改めるか? お前もこの制度は知っているだろう、『代わり』はいくらでも作れる」
「……っ、それは……」
「お前の兄が死んだとしても、何も変わらぬ。似た容姿の者を探せばよいこと」
名は出さなかったが、従わないのなら不死帝を殺しても構わないと告げているのだろう。
だが、違和感があった。
(兄様が死んだら、次の不死帝は劉帆がなるはずじゃ……)
史明は『似た容姿の者を探す』と告げた。次は劉帆のはずが、なぜかその名が出ない。
「命を守りたいのなら従え。お前は瑠璃宮の駒だ」
疑問を口にすれば史明の怒りを買うのだろう。珠蘭は深く頭を下げた。
「わかりました。従います」
「二度と忘れるな。次はお前を斬る」
珠蘭が大人しくしたがったことで満足したのか、史明は引いた。右手は刀の柄から離れている。
このまま解放されるのかと思いきや、史明は袂から書状を取り出し、床に放り投げた。
「それが目的だろう。さっさと沈花妃のところへ持って行け」
その書状は沈花妃の父が送ったものである。書状を拾い、珠蘭は一揖する。李史明は、もうこちらを見ていなかった。
部屋を出ればようやく、自分の手足が冷えていることに気づいた。かすかに震えて、手は血気を欠いて青白い。
恐ろしかったのだ。晏銀揺の名を出せば、瑠璃宮の冴えるような蒼色が牙をむく。
この後宮が抱える闇を、改めて知った。




