5.不死帝の黒罪 2
翡翠宮に向かう道中、珊瑚宮が見えた。まだ呂花妃は宮に残っているのかもしれないが、宮の様子は静かだ。宮女の姿もあまり見かけない。
呂花妃が宮を出れば、ここは閑散とした場所になるのだろう。この暑さが引いて涼やかになれば、無人の地に石蒜が咲くのだろうか。
(それもまた、悲しい)
呂花妃と接したのはわずかな時間だったが、朗朗とした花妃だった。想い人を失った寂しさが後宮を出て解放されることを願うしかない。
しばらく歩くと翡翠宮に着いた。すぐに部屋に通される。翡翠宮の主、伯花妃が待っていた。
「呼び立ててすまぬな」
伯花妃は立ち上がり珠蘭を出迎えた。
「おぬしに頼みたいことがある。遠慮なく座ってくれ」
閉じた扇で向かいの席を指したので、指定されるがままに腰掛ける。少し待っていると宮女が茶と菓子を運んできた。
蜜糖の入った甘い茶を好んだ沈花妃と異なり、伯花妃が好むのは香り高い茶らしい。器には茉莉花の花が浮かび、その香りが部屋に満ちていく。
伯花妃は宮女に部屋から出ていくことと、周りに誰も近づけぬよう命じた。人払いをするほどの話らしい。珠蘭は緊張した面持ちで伯花妃が話し始めるのを待った。
花妃が口を開いたのは、宮女たちが部屋を出て、さらに足音も聞こえなくなって数分が経ってからのことだ。
伯花妃は警戒心が強いのだろう。今日も仮面を外していない。いつぞや渡り廊下で伯花妃を見た時も周囲の様子を疑っていた。それもこの警戒心からの行動だと珠蘭は考えた。
「おぬしに探ってほしいことがある」
その真剣な口ぶりは、茉莉花の香りも霞むほど。今にも貫かれそうなほど鋭い眼光が向けられている。
「探ってほしいのは不死帝のことだ」
扇を開き、口元を隠す。顔の上半分を仮面で覆い、下半分で扇で隠せば、腹の鏡と言われる顏は見えなくなる。この頼み事は伯花妃にとって重たいものだと示していた。
珠蘭も表情を強ばらせていた。不死帝のことを探るなど危険すぎる。珠蘭は不死帝の秘密を知っているが、それを微塵も出してはならない。口を真一文字に結び、気を引き締めた。
「不死帝がどうやって死を超越したのかわかれば、伯家の悲願は成就されるが……それは難しいだろう。だから探ってほしいのは別のこと」
珠蘭は黙り、続きを待つ。この場で沈黙以外の反応をすることが怖かった。
「先代翡翠花妃が失踪したことを、おぬしは知っているか?」
「……消えた、と聞いたことはありますが」
「先代の翡翠花妃は、晏銀揺と言う。都よりだいぶ離れた場所にあるさほど権力もない家の出だ。銀揺は瑪瑙宮の花妃だったが、翡翠宮に遷った。これの意味がわかるか?」
珠蘭は少し考えた。瑪瑙宮から翡翠宮へと遷った理由――思い浮かんだのは序列だ。
「翡翠宮が、序列一位だからでしょうか」
「さすがだな、おぬしは聡い」
伯花妃は満足そうに頷き、扇を閉じた。
「子を成す必要のない不死帝にとって、後宮とは遊びの場だ。気まぐれに渡ることもあれば、今のように数年渡らぬ時もある。ここに愛などというものはなく、後宮の花妃は飾りでしかない。にも関わらず、銀揺は翡翠花妃となった。晏家がよほどの名家ならばわかるが、そうではない、晏家ではせいぜい瑪瑙か珊瑚だろう。さらに不可解な異動の後、晏銀揺は失踪している」
「当時の宮女に話を聞くことはできないのでしょうか?」
「当時翡翠宮にいた宮女は、晏銀揺失踪の後後宮を出ている。先代の失踪については伏せられ、現在は知らぬ者の方が多い――どうだ、おかしな点が多いだろう?」
珠蘭も、晏銀揺が翡翠花妃となった理由や失踪について考えてみるが答えはでない。険しい顔をしていると伯花妃が言った。
「これは噂だが、晏銀揺が失踪する前、今から二十年程前だな。後宮に赤子の泣き声が響いたことがあったらしい」
「……え? なぜ子供が」
珠蘭の目が丸くなる。その反応に伯花妃はにたりと笑った。
「嘘か真かは知らぬ。その頃の晏銀揺は翡翠花妃だったそうだ。この噂と晏銀揺が関係しているかはわからぬが、面白い話であろう」
伯花妃は香茶を啜る。ぬるくなっているのだろう。白い湯気は姿を消していた。
先代翡翠花妃だった晏銀揺と、その失踪。子を必要としない後宮で聞こえた赤子の泣き声。聞いたものを頭の中で並べるとなぜか身震いがした。今はこれらの情報が点になっているが、線になった時――末路はどうなるのだろう。触れてはいけないものに辿り着くのではないか。
手が震える。それに気づいたか気づいていないのか、伯花妃は珠蘭に告げる。
「我が探ってほしいのは、晏銀揺が失踪した理由だ。もしも愛がないと言われるこの後宮で晏銀揺が不死帝の寵愛を受けていたのなら……我は後宮での生き方を変えなければならない」
「生き方を変えるというと?」
「我は名門伯家の娘だ。不死帝が誰かを愛する心を持っているのならば、どんな手を使ってもその寵愛を手に入れなければならない。我と伯家が、この霞で生きていくためにも」
伯花妃はまっすぐにこちらを見つめていた。強い意志を秘め、伯家を背負っていくという覚悟が感じられる。
この件に触れてもいいものか。珠蘭はうつむき、しばし考えた。
不死帝に関するかもしれないことを、易々と引き受けるわけにはいかない。だが伯花妃が語った晏銀揺は気になる。
無言の空気と珠蘭の揺れる瞳から察したのか、伯花妃が言う。先ほどの声よりも幾分柔らかな声音で。
「強要はせぬ。何かわかったら教えてほしい、そういう頼み事だ。気をゆるめて茶を楽しめ」
香茶はすっかりと冷えていた。あれほど濃く香っていた茉莉花も今では香りがわからない。一口茶を啜れば、瑪瑙宮の蜜糖入り茶とは異なる、苦く渋い味が口に広がった。
***
伯花妃から聞いた話はなかなか頭を離れず、その夜は寝付くのに時間がかかった。ようやく太陽が昇った時には寝不足で瞼が重い。頭もぼんやりとしていた。
珠蘭は厨へ向かい、河江の仕事を手伝う。最近は厨での仕事も手伝うようになっていた。とはいえ皮むきなどの雑用だ。
朝餉の粥を持ち、沈花妃の部屋へ運ぶ。部屋に入ると花妃は華のように微笑んだ。
「まあ珠蘭! 待っていたのよ」
ここ数日と違って、沈花妃は随分と嬉しそうにしている。良いことがあったのだろうか。沈花妃の笑顔につられて、珠蘭の表情も柔らかくなる。
「何か良いことでもありましたか?」
「そうなの。今日、海真がこちらに来るんですって。昨日劉帆が来て、教えてくれたの」
珠蘭が翡翠宮に向かった後、劉帆は沈花妃と会ったらしい。そこで海真の来訪について話したのだろう。
昨日は部屋に帰れば約束通り甜糖豆の残りが置いてあった。ちゃんと届けてくれたらしい。
「今日は牡丹簪か紅鈴の歩揺を挿すかで悩んでいるの。朝餉の後で相談に乗ってちょうだいね」
髪飾りはどちらも沈花妃のお気に入りのものだ。久方ぶりに海真に会えることが喜んでいるのだろう。その姿が微笑ましく、こちらも幸せな気持ちになる。
(兄様が来るってことは、劉帆も来るのかな)
劉帆が来るのならばこちらに声をかけてくるだろう。その際に、昨日伯花妃から聞いた晏銀揺のことを聞けるかもしれない。
伯花妃の頼み事を聞くつもりではないが、晏銀揺の謎は珠蘭も気になるところだ。




