5.不死帝の黒罪 1/10
珊瑚宮女殺人事件の話題で後宮は騒がしくなり、それは瑪瑙宮で咲き誇っていた毛地黄が花の盛りを終えて、日中の暑さが増す頃まで続いた。
あれ以来、茶会などの催しは見送られている。瑪瑙宮の主、沈花妃はそれを残念がっているようで、午後になれば話し相手がほしくなるのか宮女たちを自室に呼ぶ。今日は董珠蘭が呼び出された。
「あれからどこの宮も静かね」
河江が淹れた茶を飲みながら沈花妃が言う。ここ最近は他の宮との交流もなく、瑠璃宮も忙しいのか宦官が来ることもなく、沈花妃はつまらなさそうである。
不死帝が瑪瑙宮に渡るという話もあったが、先の一件で見送られている。沈花妃にとっては心落ち着ける日々となっていた。
(あれから海真もきていない)
海真が瑪瑙宮を訪れることもなくなった。先の一件による忙しさはもちろんだが、沈花妃を泣かせたことも影響しているだろう。
「たまには散策でも、と思うのに、外は暑いのよね」
「そうですね。都の暑さは体に堪えます」
「珠蘭は都の出ではないのよね? 故郷は海があるのでしょう?」
問われて、気づく。珠蘭は沈花妃に故郷の話をしたことがない。海の近くということも知らないはずだ。
おそらくは兄の董海真から聞いたのだろう。沈花妃は海真と珠蘭が兄妹であることを知っている一人だ。他は楊劉帆と李史明しか知らない。
そこまで話すほど、兄と沈花妃は親しい仲であるのだ。
(宦官と花妃の恋か……)
複雑な気持ちを抱いてしまうのは、相手が自分の兄であるからだけではない。瑪瑙宮に仕える一人として、沈花妃の抱く想いがどれほど儚いものかを知っている。ここは後宮だ。
何より、先の一件がある。珊瑚宮の呂花妃は後宮に上がる前からの想い人を宮に引き入れていた。その危うい恋は、想い人樹然の死という悲しい末路を辿った。
珠蘭は、もどかしい気持ちが渦巻く胸中を隠すように黙っていた。沈花妃が微笑みを浮かべたまま続ける。
「海真から聞いたことがあったの。故郷は海近くの聚落だって」
「はい。ほとんどの人が海に関する仕事で生計を立てていました。私たちの父も漁師です。兄は花妃に故郷の話をしていたんですね」
「出会った頃に教えてもらったわ。わたくしが海を見たことがないと話したら教えてくれたの」
海真の話をする時、沈花妃は幸せそうに表情を綻ばせている。それほどに好きなのだろう。
いつだったかの夜。花妃が泣いていたことを思い出す。帝の渡りを、海真の口から聞きたくなかったと泣いていたことだ。あれで沈花妃の気持ちはわかったが、海真の心はわからない。
沈花妃の部屋を出て厨に向かう途中のことだ。渡り廊下を歩いていると見覚えのある姿が庭にいた。その人物も珠蘭に気づき、片手をあげる。
「やあ。久しぶり」
楊劉帆だ。劉帆もなかなか瑪瑙宮に来なかったので会うのは久方ぶりだ。珠蘭は渡り廊下を下りて、庭に出る。
「今日はどうしたんです?」
「珊瑚宮の一件がどうなったのか、気になるだろう。功労者である君に話をしないのはおかしいと思って報告にきた」
劉帆がやってきた目的は沈花妃ではなく珠蘭だったようだ。庭にいたのも珠蘭がここを通るのを待っていたのだろう。
「珊瑚宮はどうなりますか?」
「樹然を宮に入れていたことは、瑠璃宮や不死帝を裏切る行為だ。さすがにそれは見過ごせない」
「ですよね……」
となれば死罪か。そうなることはわかっていたが、呂花妃を思うと辛い。沈痛に俯く珠蘭だったが、劉帆は優しくその肩を叩いた。
「安心して、呂花妃は死なない。内通罪は伏せて罰することになったからね。呂花妃は実家に返すことになったよ」
後宮に入られなくなったとしても生きているのならばよい。珠蘭はほっと息をつく。呂花妃としても、後宮を出た方がいいだろう。想い人を殺された場所に続けるのは辛いはずだ。
「珊瑚宮の庭は、君の予想通り、男の体が埋まっていたよ。これは呂花妃が責任を持って弔うそうだ。後宮を出て心安らげる場に彼の墓を作り直すのかもしれないね」
「想像していたよりも寛大な沙汰が下ったんですね」
「そこらへんは翡翠宮の伯花妃が助力してくれたのもある。今回の一件に伯花妃はかなり助力してくれた。不死帝の耳に入れず、内々で片付けるって形になったよ」
「……なるほど」
不死帝の耳に入れず、と言いながらこの楊劉帆は次の不死帝である。今回のことは海真も聞いているだろう。つまるところ不死帝は知っているのだが、知らないふりをしたのだ。
珠蘭は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「そうやって労ってくれると嬉しいねえ。こうみえて史明の説得は大変だったんだ。あいつは石頭すぎる」
「ああ……李史明を説き伏せるのは難しそうですね」
李史明と対峙するのを想像するだけで、胃がきゅっと締め付けられる。瞼を開けば冷ややかに、口を開けば嫌味が飛んでくるような男だ。出来ることなら会話もしたくない。
劉帆は袂から小さな包を取り出した。
「ということで。解決記念にこれを持ってきた」
包を開けば、中には甜糖豆が入っている。いつぞや劉帆からもらった美味しい菓子だ。
「事件解決の功労者である君と、史明説得という裏の功労者である僕。二人で食べようかと思ってね」
「ありがとうございます。頂きます」
甜糖豆は珠蘭の好物である。早々に礼をつげ、遠慮せず手を出す。その動きの速さに劉帆が苦笑した。
「うん。今日も食いつきがいいな。そうやって素直だと、食べさせてよいものか悩む」
「また出し惜しみですか。早く一口ください」
楊劉帆は意地悪なもので、好物を目の前にちらつかせておきながら、なかなか与えようとしない。これでは生殺しだ。
珠蘭が痺れを切らして、包に手を伸ばす。甜糖豆を一粒つまむと、劉帆が驚きの声をあげた。
「ついに盗んだか」
「盗むって失礼な。一緒に食べるって言ったじゃないですか」
「だからといって勝手に持って行くことはないだろう」
「劉帆がくれないからです」
互いに文句を言い合いながら、庭の奥に歩く。宮の影に隠れるようにして並んで座り、甜糖豆を口にした。
今回の甜糖豆も美味しい。一粒含めば糖粉が甘く蕩けていく。豆の柔らかさに甘味が混ざり、口中が幸福に包まれる。
二人で食べると言ったくせに、劉帆が口にしたのは一粒だけだった。残りはほとんど珠蘭が食べている。包に残った豆が数粒となったところで、劉帆が口を開いた。
「明日、海真がここに来ると思う」
「久しぶりですね。花妃も喜びそうです」
「……そうなれば、いいけどね」
どうも歯切れが悪い。嫌な予感がして、劉帆をじいと見る。劉帆は視線を合わさず俯いたまま言う。
「僕だって、あの二人のことはわかっているつもりだ。だけどこの場所で恋を認めることはできない。それは罪深いことだから」
どうして罪深いことと言い切れるのだろう。そして苦しそうな声音も。
「黒罪だ。愛なんてここに赦しちゃいけない」
劉帆の言葉は珠蘭に向けたものではなく、自分自身の奥深くにある何かを説き伏せるような、そんな掠れたものだった。
一変した様子がどうも気になり、珠蘭が声をかけようとしたその時だった。遠くから足音が聞こえる。宮の影から顔を出すと、そこには宮女が一人。
「董珠蘭様ですね」
珠蘭の瞳は衣の色を正常に判別できない。枯緑色に見えている。しかし見覚えのない顔であるから、瑪瑙宮の宮女ではないだろう。
その宮女は珠蘭を見るなり駆け寄ってきて一揖した。
「翡翠宮からやって参りました。伯花妃が董珠蘭様をお呼びです」
「伯花妃が、私を?」
宮女は頷く。
「ご相談したいことがあるそうで。一緒に来て頂けますか?」
この会話を聞いていたらしい劉帆もやってくる。苦悶の表情は消え、いつもの飄々とした態度に戻っていた。
「行ってくればいいじゃないか。沈花妃には僕から話しておこう」
「それはありがたいんですが……甜糖豆を数粒残していたことが気にかかります」
珠蘭が正直な気持ちを明かすと、劉帆は失笑した。
「君は本当に甜糖豆が好きだな。君の部屋に届けておいてやるから気にせず行ってくればいい」
「ありがとうございます」
甜糖豆の無事がわかれば心残りはない。安心して礼を告げる珠蘭だったが、劉帆はまだ笑いが止まらぬようで口元がひどく緩んでいた。




