4.恋色なき園で 12
麝香の香りがする。よほど濃く焚いているのか頭が痛くてぼんやりとするほど、強く香っている。
その香りの中で珠蘭は意識を取り戻した。頭頂部は金物を打ち付けたように痛み、体も窮屈だ。あまりの香りの強さに鼻を押さえようと手を動かしたが、手首が縛られているようで動かせない。
(私はどこにいるんだろう)
重たい瞼をゆっくりと開く、そこは暗い部屋だった。窓は板で塞がれ光が入らず、燭台の灯りだけが頼りだ。香の煙が充満している。香りの濃さが息苦しさを呼んで、喉が締め付けられるようだった。
「起きたのね」
床に寝転がっている珠蘭に、女の声が落ちた。顔を動かして見上げれば、そこには翡翠宮の宮女がいた。
「あのまま殺してもよかったのだけれど、あんたの目的が知りたい」
宮女は身を屈め、珠蘭の顎を掴んだ。
近づけば宮女の顔がよく見える。仮面をつけているがその唇の形や垂れた耳。翡翠宮前で会った時の、菓子を踏みつけた宮女だが、それ以外でも見た覚えがあった。
何よりもわかりやすい特徴は、粉である。宮女の口元からぱらぱらと粉が落ちる。よく見れば、口元に不自然な罅が見えた。
(……この人は、会ったことがある)
珠蘭の記憶力が、その特徴を捉えた。同じ形をしている。
だがそのことは明かさなかった。いま自らが置かれている立場がどれほど危険なものかわかっているからだ。
宮女は問う。冷徹な声が静かな部屋に響いた。
「あんたは誰に命じられて、あたしを殺しにきたの?」
「……は?」
「とぼけないで頂戴。瑠璃宮から送られてきたあんたの目的はわかってる。次は誰を殺すの? あたしか、それとも――」
その問いかけは意図がまったくわからない。おそらく誤解している。珠蘭が瑠璃宮からきたのは誰かを殺すためだと考えているのだろう。この宮女は、何かを恐れている。
「瑠璃宮にとって不都合な罪人を殺しにきた?」
「違う。私は珊瑚宮の事件を調べているだけ。誰かを殺すつもりなんてない」
すると、宮女は嗤った。ぱらぱらと粉を落としながら。
「あれも殺すつもりで来ていたでしょう」
あれ、とは。珠蘭の瞳が驚きに丸くなる。
「珊瑚宮の男が探っていたのは罪人を殺すためだろう。あんたと同じ」
宮女は確かに『珊瑚宮の男』と言った。
(これで、繋がった)
珊瑚宮女殺人事件。繋がらず点といて散らばっていたものが、一つの線になる。
しかし問題は、この窮地を如何にして脱するかだ。手足は動かせず床に寝転んだまま。助けを呼ぼうと声をあげればこの宮女に殺されるかもしれない。
(どうしたらいいだろう。この部屋がどこにあるのかわかれば)
部屋を見渡す。暗くて色の判別が難しい。
おそらくはどこかの宮だ。宮女に与えられた部屋だろう。寝台に厨子、木棚がある。
(瑪瑙宮の厨子はもっと質素な扉だった。この部屋の厨子は、扉の細部に彫り込みがある)
珠蘭の部屋のものと比べれば豪華な作りだ。だが瑪瑙宮や珊瑚宮で見たものと違い、夾竹桃の花が彫られている。そうなればここは――翡翠宮かもしれない。
その時、部屋の外から足音が聞こえた。誰かの話し声もする。
好機だ。珠蘭はにたりと口元を緩め、挑発的に見上げた。
「違うと言ってるのに聞き入れないのは、あなたの耳が老いているから?」
宮女がぴたりと動きを止めた。珠蘭は徐々に声量をあげる。
「老人に扮しているだけだと思っていたけれど、感覚も老いているなんて。先日黒宮で会った時は、もう少し私の声が聞こえていたと思うけど」
「あんた、気づいていたの?」
「手よ。皺を作って顔をごまかしたとしても、手はごまかせない。あの時の老宦官は手だけが若かった」
ぎり、と噛みしめるような音が聞こえた。宮女の顏が不快だとばかり顰められている。
「黒宮で出会った老宦官はあなた。その名前を当ててもいい?」
「うるさい!」
ついに宮女が叫んだ。忌々しそうに眉根をよせ、珠蘭の首に手をかける。
その瞬間である。
「見つけた!」
外から声がして、扉が開く。現れたのは翡翠宮の花妃、伯花妃と楊劉帆だった。
なだれ込むように部屋に押し入った劉帆はすかさず珠蘭と宮女の間を割りこむようにして、駆け寄った。
「大丈夫か? 怪我は?」
「無事……だと思います。身動きが取れないので縄を外してもらえれば助かります」
淡々と答える珠蘭の様子を見て、安堵したように劉帆が笑った。
「冷静だな。もっと怯えるのかと思ったが」
「大慌てでしたよ。殺される覚悟をしました」
「それにしては落ち着いている。まあいい、縄を外すから待っていろ」
まずは両手の縄から解いてもらう。拘束が外れればようやく助かったのだと気持ちが落ち着く。冷静になろうと心がけていたが、今になれば両手が震えていた。血の気が引いて白い。
怖かったのだと、今になって認める。
「どうしてここがわかったんですか?」
「珠蘭が珊瑚宮に行ったと沈花妃から聞いてな。だから珊瑚宮に行ったんだ。呂花妃は珠蘭を見ていないと言ったが、宮女の一人が翡翠宮に向かう珠蘭を見たと教えてくれた」
伯花妃と共に翡翠宮に行くところを目撃していた宮女がいたのだ。それがなければ劉帆がここ来なかったかもしれない。
「ありがとうございます」
礼を告げると、なぜか劉帆はそっぽを向いた。
「……お前が、無事でよかった」
歯切れの悪い言葉だ。照れているのかもしれないが、部屋の薄暗さが彼の表情も隠している。
今度は足の縄を解きながら、ごまかすように劉帆が呟いた。
「途中までは呂花妃も来ていたんだが、どこに行ったんだろうな」
室内にいるのは劉帆と伯花妃だけだ。廊下には騒ぎを聞きつけて集まった宮女が数名。呂花妃の姿は見当たらない。
珠蘭を捕らえた謎の宮女を睨みつけているのは伯花妃だ。冷ややかなまなざしが責めるように彼女を捉えている。
「おぬし、翡翠宮女だろう? 誰の命でこのようなことを? この者を捕らえろなど、我は命じておらぬぞ」
「……」
「口を割らぬのか」
手に持った扇で手のひらを叩く。苛立たしげな音が響いた。
「では割らせるしかないな。誰ぞ、この者を――」
伯花妃は、捕らえよ、と命じるつもりだったのだろう。その声は廊下で野次馬のごとく覗きこんでいる宮女たちに向けられていた。
だが遮られた。部屋の外にいた宮女たちに悲鳴があがる。それは野次馬を押しのけて、部屋に入りこむ。
「……やっと尻尾を出したわね」
現れたのは呂花妃だった。手に匕首が握られている。宮女たちは、匕首を持った呂花妃を恐れて悲鳴をあげたのだろう。
「樹然を殺したのも珠蘭を捕らえたのも、やはり伯花妃の仕業だったのね」
「な、なにを――」
呂花妃の血走った眼が伯花妃に向けられている。突然の乱入に伯花妃は後退りをするが、その拍子に体勢を崩して床に座りこんだ。
「我ではない。やめろ」
「言い訳は無用。樹然の仇!」
ふわりと被帛が舞う。呂花妃が手を振り上げたのだ。しっかりと握りしめられた匕首が、燭台の灯りを反射してぎらりと光った。
「まずい!」
劉帆が叫んでそちらに駆け寄ろうとする。同時に珠蘭も、転がるようにして伯花妃の前に立ち塞がった。
「呂花妃! お待ちください!」
運良く足の縄も解かれていたので花妃たちの間に割りこむことができた。伯花妃をかばうように両手を広げると、呂花妃は動きを止めた。
「退いてちょうだい。私は何としても仇をとらなきゃいけないの」
「いいえ、出来ません」
「董珠蘭。あなたには理由を話したでしょう。だから、そこを退けて」
珠蘭は首を横に振った。そして呂花妃を正面から見据える。
「犯人は翡翠宮の者でも、伯花妃でもありません」
「……なんですって」
「それに、呂花妃も、私に隠していることがあるはずです」
しかしまだ呂花妃の瞳にある復讐の炎が消えていない。とどめを差すように珠蘭が告げた。
「話し合いましょう。それでも嫌だと言うのなら――首のない体を、掘り起こしましょうか?」
呂花妃が息を呑んだ。動揺が指先に伝わり、手にしていた匕首が甲高い音を立てて床に落ちる。
珠蘭は部屋にいる全員を見渡し、もう一度告げた。
「事件について、話し合いましょう」
異を唱える者はいなかった。




