4.恋色なき園で 9
二人が瑪瑙宮に戻った時である。挨拶に伺おうと沈花妃の部屋に向かった時、こちらが開ける前に、勢いよく戸が開いた。
「……そんな話、聞きたくなかった」
現れたのは沈花妃だった。その顏が涙に濡れている。部屋には海真が残っていて、花妃を引き止めようと手を伸ばしていたが――。
「嫌よ。聞きたくない!」
花妃が叫んで、逃げるように廊下を駆けていく。騒ぎを聞きつけた瑪瑙宮女たちが沈花妃を追いかけていった。
瑪瑙宮に戻るなりこの騒ぎである。現状を理解できない珠蘭は呆然と立ち尽くすしかなかった。
「……あ、ああ。戻ってきてたのか」
部屋から出てきた海真が珠蘭と劉帆に気づき、声をかける。
「ごめんな騒がしくて」
海真は深く息をついて、壁にもたれかかり座った。精神的に参っているのかもしれない。顔色がよくない。
その海真に近づいたのが劉帆だ。顔を覗きこんで、聞く。
「花妃に伝えたのか?」
「……ああ」
「それでこの騒ぎか。前途多難だね」
一体何を伝えたのだろう。珠蘭が理解できずにいると、劉帆がこちらを向いた。
「今日ここに来た用事は沈花妃に伝えることがあったからでね。なあにささいな用件だ。近日、瑪瑙宮に不死帝の渡御があるって話さ」
想像もしていなかった言葉に、喉がぐっと詰まったように苦しい。
不死帝のお渡りは数年ほどない。どの宮も共通である。それでも各宮はいつでも不死帝を迎え入れる準備があると宣言していた――瑪瑙宮を除いては。
唯一、瑪瑙宮だけは不死帝を拒んでいる。数年ぶりの渡御があったとしても瑪瑙花妃は不死帝を迎え入れない。これは後宮内の序列を揺るがし、瑪瑙宮の立場を苦しくさせるものだ。
「瑪瑙宮を思うなら、不死帝を受け入れるべき……だけどな」
苦しそうに海真が呟いた。
「ごめん、先に瑠璃宮に戻ってるよ」
海真はそう言い残して立ち上がる。弱々しい背だ。沈花妃を泣かせてしまったことが彼にとって悔やまれるのだろう。
瑪瑙宮を、沈花妃の立場を思うのなら、不死帝を受けいれた方がよい。しかし沈花妃は頑なだ。
「……許されないものだね」
海真が出て行くのを見送った後、苦々しげに劉帆が呟いた。
「この後宮は毒だから。恋なんて許されない。帝も花妃も、宮女も宦官も、みんな」
廊下は爽やかな風が吹いている。遠くの方ではすすり泣く声が聞こえた。どこかで沈花妃が泣いているのだろう。
「他の宮女たちが『翡翠宮は寵愛の宮』と言っていたのを聞いたことがあります。過去にそういう事例があるのなら、恋や寵愛も許されるのでは?」
「ああ。それは先代の翡翠花妃かな」
あっさりと劉帆は答えた。
「不死帝は一時期、翡翠花妃をひどく愛でたらしい。とはいえ――わかるだろう?」
劉帆が言葉を濁して聞いたのは、不死帝の秘密のことだろう。
当時の不死帝が一人を愛したとしても、不死帝が死んで次の代になれば愛は終わる。同じ不死帝のくせに、中の人間が変わるのだから当然だ。
「先代翡翠花妃は姿を消し、今の翡翠花妃に変わった。この後宮では寵愛なんて遷ろうものだから、恋も愛も許されぬ場所だ」
劉帆は悲しげに呟いた後、廊下の奥を見やる。
「……誰しもわかっていると思ったけどね」
その言葉は珠蘭に向けられたものではない。廊下の奥にいる涙の主か、それとも瑠璃宮に向かう弱々しい背か。
昼間の重たい雲は失せ、宵闇を黄金色の月が照らす。月は丸く大きいので眩しい夜だ。渡り廊下を歩けば涼しい風が吹いて心地よい。
自室に戻ろうとしていた珠蘭も、その心地よさに足を止めた。廊下の柵から身を乗り出して月夜を見上げる。
すると、庭に誰かがいるのが見えた。沈花妃だ。彼女も庭に下りて、月夜を見上げていた。
「沈花妃。お体が冷えますよ」
外気はほどよい涼しいといえ薄着でいれば風邪を引く。珠蘭が声をかけると沈花妃は振り返って微笑んだ。
「いいの。少し、頭を冷やしたいから」
瞳は赤く腫れていた。散々泣いていたのだ、腫れは明日まで残るだろう。
花妃は珠蘭の隣へ戻ってくる。それから静かに呟いた。
「不死帝の渡御について、聞いた?」
珠蘭が静かにうなずくと、花妃は月夜を見上げたまま、ゆっくりと呟く。自らその言葉を噛みしめるように。
「このような態度を取っていればわたくしも、瑪瑙宮の皆も、立場が悪くなる。わたくしが頷けばいいだけなのはわかっているの。いつかその日が来ることも覚悟していたの」
そこで少しの間を置いた。次に沈花妃が唇を開けた時、潤んだ瞳から一粒の涙がこぼれ落ちた。
「わかってはいるのに……聞きたくなかった。それだけは海真の口から、聞きたくなかったの」
薄々と、二人の関係は察していたが、この涙が確証となった。
沈花妃は恋をしている。相手は董海真だ。
(今の不死帝は海真だから……本当は結ばれるかもしれないのに)
沈花妃が不死帝の正体を知れば安堵して受け入れたのだろうか。しかし海真はそれを告げなかったのだろう。だから、沈花妃はこうして苦しんでいる。
想い人への気持ちと、宮を背負う花妃の責。
もどかしさが胸中で暴れて、苦しい。沈花妃の涙が恋を秘めて、月夜に煌めいているから余計に。
「恋なんて許されなかったのよ」
その呟きが夜に溶ける。珠蘭に向けて、そして沈花妃自身に向けての、切ない独言だった。