4.恋色なき園で 8
風がじっとりと湿度を孕んでいる。まもなく雨が降るのかもしれない。時折空を見上げながらあてもなく歩いていく。後宮の奥へ進むにつれ、伸びた雑草が目立つようになる。砂利道はいつしかなくなり、獣道になった。
呪われた黒宮に近寄る者はいない、というのは本当かもしれない。人の往来を感じさせるものはあまりなかった。鬱蒼と茂る草木がそれを強く感じさせる。
しばし歩いたところで、開けた場所に出た。道に砂利は敷いてないものの、あたりの雑草も随分と減る。ここだけ誰かが手入れをしているのかもしれない。
あたりを見渡すと、先の方に黒塗りの建物が見えた。他の宮と似た門柱がある。あれが黒宮かもしれない。
(名前通りに黒い宮だけど、想像よりも朽ちてはいない)
廃宮と聞いていたので朽ち果てた建物を想像していた。しかし黒く塗られているだけでそこまで古さは感じない。むしろ綺麗だ。
黒宮に近づこうと歩を進めた時である。近くの茂みが揺れて、人影が現れた。
「お嬢さん、そこで何をしているんだい?」
嗄れた声がして珠蘭はびくりと体を震わせる。
振り返れば、そこにいたのは老宦官だった。正灰色の袍を着て、腰が曲がっている。木の枝を杖代わりにしていた。
「ここは黒宮。呪われた宮だ。宮女が近づいて場所じゃあない」
「すみません。道に迷って」
嘘をつきながら、宦官の顔を盗み見る。
老宦官は仮面をつけていた。珠蘭にはその仮面が枯緑色にしか見えていない。蒼や黄でないことは確かだろう。
(紅か、碧)
自らの腕につけた二本の腕輪と見比べればある程度はわかるのかもしれないが、老宦官の射るようなまなざしを受けながら、腕輪の色と見比べることはできない。
鼻先や口元は見えているが、そこには深い皺が刻まれている。特にほうれい線のあたりは土気色した肌が重たく垂れているようだった。
「来た道を戻ればいい。黒宮に近づいてはならん。おぬしも呪いを受けることになるぞ」
老宦官は怒っているような、からかっているような声だった。彼の真意がなかなか読めず、じいとその顔を見る。
(あれ……? どこかで見たことがある?)
確証はない、がなぜかそう思った。
瑪瑙宮にこれほど老いた人はいないし、瑠璃宮でも見かけていない。だというのにこの唇の形と、特徴的に垂れた耳。どこかで見た覚えがあった。
(誰かに似てる)
けれど、誰に似ているのかまではわからない。顔が見えないからだ。
じいと食い入るように見れば、視線に気づいたらしい老宦官が慌てて顔を背けた。その拍子に何かがぱらりと落ちる。
(いま落ちたの……粉?)
粉のようなものがぱらぱらと落ちたように見えたのだ。そのことに気づいているのかはわからないが、老宦官が言う。
「はよう戻るがいい。ここに長居してはならん」
違和感はそれだけではない。肩だ。杖をついた時の肩の動きがおかしい。
男性と女性は体つきが違う。男性は肩幅が広く、それに比べて女性の肩幅は小さい。中には女性のような体つきをした男性もいるが――この老宦官の肩はどちらとも違う。腕の動きと少しずれて肩が動く。
何にせよ、戻った方がいい。珠蘭はそう判断して、一揖の後に背を向ける。来た道を引き返そうと踏み出そうとして、立派な柳の木があることに気づいた。
(呂花妃は『黒宮の近く、柳の木の下で樹然の首があった』と言ってたけど、この柳かな)
他に柳は見当たらない。この木が遺体の発見現場かもしれないと考え、そこに近寄る。数歩ほど寄ったところで、老宦官が声をあげた。
「ならんぞ。おぬしも呪われると言うておる」
「でも、この柳が気になって」
立派な柳だ。枝は垂れ、風に揺られて葉が鳴る。幹も太く、随分と古くからここにあったのだろう。陰鬱とした黒宮周辺で、ここだけが洗煉された場所のようだった。
そっと幹に触れる。特に目立った傷はない。ここに遺体があったのか疑わしくなるほど普通の柳だ。
「ここは、人が殺された場所じゃ。おぬしもあの男に祟られるぞ」
その言葉に、珠蘭は振り返った。
「ここで男が死んだんですか?」
「この柳の下で、男が胸を突かれて死んだんだ。苦しむ男が柳に呪いをかけている、早々に立ち去らねばおぬしにも呪いが降りかかるぞ」
珠蘭は首を傾げながらその言葉を反芻する。
(違う。死んだのは、珊瑚宮の宮女のはず。でもここで『男』が死んだと言ったのはどうして)
もう一度柳の幹を見る。よく見れば、幹の根元に何かが引っかかっている。布の切れ端だ。老宦官に気づかれぬようさっとその切れ端を取る。どうやら幹に引っかかって裂けたものらしい。
(手触りはそこまで。たぶん宮女の襦裙だ。となると――)
長く立ち止まっていては老宦官に疑われる。切れ端を手中に隠して、振り返った。
「忠告通り戻ります」
「その方がよい」
老宦官が喋るたびに何かの粉がぱらぱらと落ちる。本人もそれに気づいたのか口元を手で隠していた。すらりと細く、白い手だ。皺がない。
警戒しながら珠蘭は背を向け、歩き出す。老宦官が追いかけてくる様子はなかった。
来た道を辿りながら、考える。
(襦裙の切れ端。殺された男。翡翠の簪……難しい事件だ)
いまだどれも結びつかず、事件という図の上で点として漂っているだけ。これらを線で繋げば事件は解けるのだろうが。
しばし歩いていると、前方から誰かがやってきた。薄藍色の袍だ。その人物は珠蘭の姿を見つけるなり足を速めてこちらに寄ってくる。
「なんとも辺鄙なところに来てるものだ」
珠蘭の前にやってきた楊劉帆は笑った。
「暇になったから瑪瑙宮へ向かえば、君は翡翠宮まで遣いに行ったと聞いてね。探しにきてしまったよ」
「すみません。一度、黒宮に来てみようと思いまして」
「だと思った。翡翠宮に行くだけにしては随分と遅いからね。好奇心旺盛な稀色の瞳だ」
劉帆はからからと笑いながら、珠蘭の隣を歩く。
「瑪瑙宮には海真も来ているんだ」
「……となれば、沈花妃は喜んでいるでしょうね」
「あれは旧知の友だからね。沈花妃にとっても海真にとっても、心安らげる相手なんだろう」
確かに、二人が会えば穏やかな顔をしている。特に瑠璃宮の襲撃事件依頼、海真は瑪瑙宮に来ていなかった。無事であることは伝えていたが、直接会うまでは気がかりだっただろう。
「ところで珠蘭の方は? わざわざ黒宮まで来たのだから、何か得るものはあったのかい?」
「呂花妃に聞いた遺体の発見現場でこの切れ端を見つけました。色が判別できなかったので、劉帆に見て頂ければ」
珠蘭は襦裙の切れ端を渡した。柳の木に引っかかっていたものだ。
劉帆はそれをまじまじと眺めた後、告げる。
「ふむ、紅色だ。これは珊瑚宮の宮女が着る襦裙と同じ色だ」
これが珊瑚宮女の襦裙であることを珠蘭も予想していた。あの場所に珊瑚宮女がいたことは間違いない。あの場所で殺されたのか、それとも布が千切れるような何かがあったのか。
老宦官は男が死んだと言っていたことも不可解だ。これも劉帆に聞く。
「劉帆は、殺された宮女の首を見ましたか?」
「見たよ。生首ってのは、あんまりいいものじゃないね」
「……男だった、ということは?」
おずおずと聞けば、劉帆が目を丸くした。
「何を。男が殺されたといいたいのかい?」
「先ほど黒宮で出会った不審な宦官が『柳の下で男が胸を刺されて死んだ』と言っていたので」
これに劉帆も首を傾げた。思い当たるものはないらしい。
「初めて聞いたね。後宮内でそういったことがあれば耳に入るはずだけど……黒宮付近で遺体が見つかったと聞いたのは珊瑚宮女の話ぐらいだ。それに後宮に宦官ではなく『男』がいたなんてよくない話だね」
珠蘭は低い唸り声をあげて考えこんだ。どうも繋がらない。
(呂花妃は柳の下で樹然の首を見つけたと言っていたけれど……この切れ端は襦裙。胴体があの場にあったということだ。胴体が見つからなかった理由は――)
ひとつ。珠蘭の頭に仮説が浮かんだ。もしもそれが合っているのなら、すべての点が繋がる。
けれど、まだ口に出来ないのは、確証がないことと、犯人の姿が見えないことだ。
珠蘭はため息をついた。隣の劉帆だけは、疲れた様子の珠蘭を眺めて楽しそうに微笑んでいた。




