3.謀りの仮面 9/9
翌日の朝である。宮は水影がいなくなったことを除けば普段通りである。珠蘭は身支度を終えて、日課となりつつあった廊下掃除を始めようと水汲みに出た時のことだ。
「珠蘭、こちらへ」
部屋を出るなり沈花妃と鉢合わせ、呼び出されてしまった。慌てて水桶を部屋に戻し、花妃の元へ向かう。
昨日のことがあったからか、朝から薬湯を飲んでいたらしい。花妃の部屋には鼻の奥まで沁みるような甘ったるい薬草の香りが充満していた。
「珠蘭。今まで、あなたに冷たく当たったことをお詫びするわ」
花妃はそう言って、頭を下げた。
「や、やめてください。宮女に頭を下げるなんて――」
「これは宮女と花妃の関係ではない。あなたという人に対して、わたくしは謝っているの」
このような場を他の者に見られたら誤解されてしまう。慌てる珠蘭だったが、どうやらそれが花妃にとって面白かったらしい。くすくすと笑っている。
「あなた、冷静な子だと思っていたら、そんな風に慌てる時もあるのね」
花妃は厨子から瑪瑙の簪を取り出し、珠蘭に手渡した。
「髪の支度を、お願いしてもいいかしら? これからもあなたにたくさん手伝ってもらいたいことがあるの」
それは瑪瑙宮にきてから初めての仕事だ。珠蘭は顔を綻ばせた。
髪の支度を終えしばらく経った頃である。董海真と楊劉帆がやってきた。花妃に話があるとのことで人払いをし、しかし珠蘭は残るよう命じられた。
「……沈花妃には話しておこうと思いまして」
普段よりも落ち着いた声音で海真が切り出した。
「董珠蘭は李史明の遠縁だと話しましたが……実は俺の妹です」
海真は花妃をまっすぐに見つめて明かした。
その重大な秘密をここで告げてもよいものか、面食らった珠蘭は反応できずに固まっていた。劉帆は普段と変わらず薄っぺらな笑みを浮かべていたから、事前に海真と打ち合わせていたのかもしれない。
さてこの秘密を知った花妃はというと――珠蘭の顔をじいと見つめながら、何やら口元を緩ませている。喜びを押し隠そうとして、しかし口元は正直にそれを明かしている。
(私が海真の妹だからって、ここまで喜ぶものだろうか)
その反応に違和感を抱くも、疑問をぶつけることはできなかった。
「それなら……先に言ってくれたらよかったのに」
沈花妃はむすりと頬を膨らませて海真を睨んだ。
「なかなか言い出せなかったもので。花妃もどうか内密にしていただければ」
「ええ、もちろん。あなたが宦官になる前からの知り合いですもの、協力するわ」
その会話に少しばかり引っかかるものがあった。海真が宦官になる前とはいつだろう。故郷にいた時に沈花妃との面識はないはず。
(二人はどこで出会ったんだろう)
その間にも海真の話は続く。話題は珠蘭をここに連れてきた理由だった。
「珠蘭の瞳が花妃の役に立つことはもちろんですが……一番の理由は、あるものを調べてもらうためです」
すると、思い当たるものがあったらしく、花妃がすぐに答えた。
「珊瑚宮女が殺された件かしら?」
「はい」
どうやらこれが、珠蘭が後宮に入った一番の目的。海真は沈花妃に話しているようで、しかし珠蘭にもこの件を調査しろと告げているのだ。
「なるほどね。どうして急に、珠蘭が来たのだろうと不思議だったけれど、これで納得できたわ――わたくしに出来ることなら協力します」
沈花妃は海真と劉帆、珠蘭の三人を見渡し、穏やかな声音で告げた。
海真と花妃はまだ話したりないらしく長く続きそうなので、劉帆と珠蘭は部屋を出た。
庭に面する廊下を歩けば、毛地黄が咲き誇っている。毒があると知っているから恐ろしい花のように感じるが、知らなければ独特の形をした印象深い花になるのだろう。
「見事、信を得たね」
劉帆はそう言って、珠蘭の肩をこついた。
「信頼というより、身を守っただけですけど……」
「扉の仕掛けは随分と面白かった。あんなことをする宮女がいるなんて僕は知らなかったよ」
「故郷で学んだ知識ですから、威張れるものじゃありません」
どうにもこの劉帆という男は苦手だ。からからと笑って人をからかっているくせ、たまに核心をついてきたりもする。
何より面倒なのが、こうして共に過ごす時間が多いことだ。壕で一人だった珠蘭にすれば、誰かが共にいる状況は慣れない。
「花妃の協力を得れば珊瑚宮の調査もうまく行くだろう。君の瞳のおかげだ」
すると、劉帆は立ち止まり、懐から包を取り出した。
「好むかはわからんが、今回の慰労として持ってきた甜糖豆だ」
甜糖豆は霞でよく食べられているお菓子だ。柔らかく似た豆に糖や蜜を絡めて乾燥させる。豆の周りには乾いて固まった蜜の粉が張り付いているので、噛めば固いが中は柔らかい。豆も甘味をしっかりと吸いこんで甘く仕上がっている。
珠蘭の好物だ。壕にいた頃はよく海真が持ってきてくれた。
「ありがとうございます。頂きます」
お礼を告げて甜糖豆をもらおうとした珠蘭だったが――劉帆は包をなかなか渡そうとしない。それどころか手を伸ばして奪おうとする珠蘭の姿を楽しんでいるようだった。
「あの、早く頂きたいんですが」
「君があまりにも嬉しそうにしているからね、素直に渡していいものかと」
「慰労のために持ってきたんですよね? ありがとうございます、早くください」
「食いつきが良すぎるとそれはそれで渡したくないな」
甜糖豆が好きだと知られてしまったがため、からかわれている。
「早くください。それ、好物なんです」
「だろうねえ。甜糖豆を出した途端、目の色が変わった」
と興味を示したがために、渡すのを渋っているのだろう。厄介な男だ。
こうなれば諦めようと珠蘭が手を引っ込めた時、劉帆が訊いた。
「君の瞳は、この包を何色に映している?」
「……残念ながら枯緑色です」
その返答が気に入ったのか、劉帆はにやりと笑った。珠蘭の手に甜糖豆の包を置く。
「面白いねえ。その瞳は僕には見えない色が映っている」
「逆ですよ。私が、皆さんのように色を認識できないだけです」
「そうかな? 僕は少し君が羨ましいよ、僕の知らないものを見て、僕の知らない色を視る」
この瞳のことなど褒められるようなものではない。劉帆の話を無視して、包を開く。白い糖粉が絡んだ枯緑色の豆が五粒。美味しそうだ。
その一粒を口に運ぼうとした時、劉帆が振り返って言った。
「稀色だ」
稀色――そう言われても、いまいちピンとこない。赤と緑の区別もつかず、褪せたこの色の何が珍しいことか。自嘲気味に嗤うしかできなかったが、劉帆は違っていた。
「その瞳は、僕の知らない稀色が映っている。紅と緑を欠いた君だけが知る、稀色」
一粒。口の中に放り込んだ甜糖豆の衣がゆるゆると溶けていく。甘味を残し、口中には枯緑色の豆が残っているのだろう。
いやこの豆は、劉帆に問えば稀色と答えるのかもしれない。豆を噛んでみれば、それは柔らかく、ひどく甘かった。
後日、水影の失踪が知らされる。
衛兵や宦官が追いかけたものの水影を捕らえることはできず、彼女は翡翠宮の近くで姿を消した。




