3.謀りの仮面 8/9
向かったのは珠蘭に与えられた宮女部屋である。しかし扉は開けず、入り口で身を屈めた。
「一体、何をしているのかな? 部屋に入らないのかい?」
扉と壁の隙間をじいと眺めたまま固まる珠蘭に、海真が訊く。訳がわからないといった顔をしていた。
その問いに、まだ答える気はなかった。確認を終えた後、珠蘭は水影を見上げる。
「水影は、私がいない間に部屋に入って、仮面を探したと言っていました。部屋に入ったのはいつ頃ですか?」
「あなたとそこの宦官が出て行った後だけど」
そこの宦官とは劉帆のことだろう。珠蘭の口元がにやりと笑みを浮かべた。
「でははっきりと答えます。水影は私の部屋に入っていません」
珠蘭は皆の顔を眺めながら告げた。
「何が起きるかわかりませんから、ここに仕掛けを残していったのです」
「仕掛けって、それは」
驚きの声は海真からである。珠蘭は扉の下部を指さして答えた。
「扉と壁に米糊をつけ、糸の両端を貼り付けました。扉が開けば糸は外れて落ちます」
「なんでそんなことを」
「昼間の騒ぎがありましたから用心して仕掛けました。自衛として、ですね」
濡れ衣を着せられるかもしれない不安は、正直あった。貴重品のない部屋であるが、不在の際に荒らされたくはない。そこで考えた仕掛けである。
元は壕にいた時に教えてもらったものだった。故郷の者たちは貧しく、施錠のついた扉を持つ家は少ない。その上漁師が多いので海に出てしまえば家は空っぽになる。そこでこの仕掛けが流行った。侵入防止にはならないが形跡は残る。松脂を使う家もあったが持ち合わせていなかったので、仮面と肌を密着させるために使う米糊を用いた。
その仕掛けはというと、しっかりと残っている。糸はたるむ様子さえない。
「これが残っているということは、部屋に誰も入っていない。水影は私の部屋に入っていません」
「それを仕掛けているのは僕も見たよ。なかなか面白いことをするものだと思った。まさか侵入の形跡を残すための仕掛けとは知らなかったが」
劉帆が頷く。彼は珠蘭と共に部屋を出たためこの仕掛けを知っていた。
「な……た、たかがこの糸で!?」
水影は動揺していたが、無視して仕掛けを外し、部屋の扉を開ける。
「どうぞ木棚もご確認ください。厨子や寝台の下も見ていって構いません」
扉を開け放った後、珠蘭は冷ややかに言った。
水影が言った木棚の下段には、河江の証言通り水桶と雑巾がある。寝台の下には史明からもらった袋。厨子の合わせ扉を開いても中は空だ。
海真、そして沈花妃がそれを確かめた後、水影を見た。
「……では。この仮面はどうして」
水影は珠蘭の部屋から持ってきた、と証言したが、珠蘭の部屋に立ち入っていないことは照明された。そして水影が語った場所には河江の証言通り、別のものが置いてある。
そしてもう一つ。水影の証言には致命的な欠陥があった。
「沈花妃。仮面の入った塗箱を二つ、お借りしてもいいでしょうか」
珠蘭が訊く。花妃は頷いた後、宮女の一人に部屋から持ってくるよう告げた。
「私の記憶によれば花妃の部屋にあった仮面の塗箱は二つ」
「そうね。一つは瑪瑙宮で作った瑪瑙の仮面。もう一つは今回の翡翠面よ」
「その塗箱二つは棚に並んで収めてありましたが、雨が降っていて薄暗い部屋でも私は迷わずに翡翠面の箱を手に取ったと――水影は言っていましたね」
今は陽も沈んでいるが、今日は朝から曇天で、昼は特に雨が降って薄暗かった。手燭を遠くにやれば、暗さはほぼ変わらない。
沈花妃は、宮女が持ってきた仮面の塗箱二つを几に置かせた。
「珠蘭。あなたは、どっちの箱に翡翠面が入っているかわかりますか?」
静かに、問う。
塗箱の外装はどちらもまったく同じである。綺麗に塗られた箱には金飾と丸く削った宝玉を埋めこまれている。どちらも後宮の妃が作らせたものであるから、外箱は変わらないようだ。
「どちらも見分けはつきません。私には同じ箱に見えています」
枯緑色の玉が埋め込まれた、枯緑色の箱。珠蘭の瞳が、薄暗い中で色を判別するのは不可能に近い。
これに廊下から眺めていた野次馬の宮女たちがざわついた。
「同じ箱って……どうして」
「わかりやすく塗ってあるじゃない。朱色と翡翠色の箱でしょう?」
宮女たちのざわつきから箱の本当の色を知る。おそらくそうであろうとは、珠蘭もわかっていた。
瑪瑙宮は瑪瑙朱色を基調としている。不死帝おられる瑠璃宮は瑠璃色に。一度も行ったことはないが翡翠宮もその名通りの翡翠色をしてるだろう。
珠蘭は、紅と緑の判別がつかない。紅に近い朱色も判別は難しい。
「……やっぱり、あなたにこの色は見えていないのね」
沈花妃が言った。
「部屋が荒らされて無くなったものを言い当てた時も、珠蘭は『塗箱』としか言わなかったの。色が見えている人ならばすぐ『翡翠色の塗箱』がないと答えたはずよ。あなたはあの時も『二つあった塗箱』と言って、見分けがついていないようだった」
「薄暗い中で翡翠の塗箱だけを持っていくのは珠蘭に難しいってことだねえ。ふむ、なるほど。部屋に侵入した形跡もなく、盗んだ目撃情報は怪しいとなれば――」
劉帆が数度頷き、とぼけた顔をして水影を見た。
「君は、その翡翠の仮面をどこで見つけてきたんだろうね?」
珠蘭への疑いが晴れれば、今度は水影が怪しくなる。
濡れ衣を着せようとしていたことはもちろん、無くなった翡翠仮面が急に出てきたのはどうしてか。水影が盗み、機を見計らって持ち出してきたのならば辻褄が合う。
「まさか君が盗んだのかい?」
劉帆はにっこりと微笑んで、水影に詰め寄った。
水影は数歩ほど後ずさりをし、それから――近くにいた沈花妃を両手で突き飛ばした。
海真が慌てて沈花妃に駆け寄ったその隙に、水影は部屋を出て行く。咄嗟に海真が叫んだ。
「誰か、水影を捕らえろ!」
水影は野次馬の波をかき分けて走っていく。衛兵や宦官がそれを追いかけた。
「……私も、」
追いかけようと一歩踏み出した珠蘭だったがその腕は劉帆に掴まれた。
「君が行ってどうする。後はこちらに任せればいい」
それに、と言いかけて沈花妃に視線を送る。花妃は突き飛ばされて床に座りこんでいたが怪我はなさそうだ。しかし顔色はよくない。宮女に裏切られて呆然としているのだろう。
「花妃の元にいます」
珠蘭が告げると、劉帆は満足そうに頷いた。




