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豊饒の女神  作者: 蒼太郎
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第5話:森の中、暗転

 なんだこいつは。

 外見は熊に近いと思うのだが、その体長は3mを優に超えている。

 後足で器用に立っており、その丸太のように太く長い前足には、明らかに他の生物の命を刈り取るために備わっている巨大な鉤爪があった。

 外見は熊に近い。そう称したが、これはもはや熊ではない。熊よりももっと獰猛で、強靭で、貪欲な生物、いや、化物と言った方が適切かもしれない。


『グリズルじゃ。我としたことが…道理で先ほどから他の生き物の気配がせぬわけじゃ』


『ど、どういこと?』


『おそらくこの一帯の生物は、こやつに食い殺されたか、恐れをなして逃げ出したか、そのどちらかじゃ。…それに今は、こやつらにとっての繁殖期。同種の異性以外の縄張りへの侵入を、グリズルは絶対に許しはせぬ』


 途端、咆哮。

 その巨躯から想像するに難くない地鳴のようなそれは、容赦なくヒカルに襲い掛かり、全身の筋肉を緊張させ、骨を軋ませ、脳髄を揺らし恐怖で塗りつぶす。奥歯がガチガチと音をたて、身体が小刻みに震え、毛穴という毛穴が開き脂汗が全身を滲ませる。

 生まれて初めての死の恐怖に、ヒカルの思考はパニックに陥っていた。


『ヒカル!我の声を聞け!怯んでおる場合ではない、殺されるぞ!今すぐここから逃げるのじゃ!早く!』


「…っ!」


 サラの存在と叱咤がヒカルの意識をつなぎとめる。

 恐怖に打ち震え、竦み、棒立ちになりそうな身体に鞭打って反転し、勢いよく駈け出す。

 グリズルは、そんなヒカルをせせら笑うかのように唸り、その巨体に似つかわしい強大なパワーで跳躍すると、信じられないほど軽やかな身のこなしでヒカルの前に着地した。


 振るわれる巨腕と剛爪。


 咄嗟に後ろに跳躍し、取り出した登山用のストックで防御を試みる。グリズルの一撃にストックは薙ぎ払われ、間一髪直撃はしなかったものの、ストックを握っていた左腕にはすさまじい衝撃が加わった。

 あと一瞬ストックを手放すのが遅れていたら、肩ごと持っていかれていたかもしれない。

 そんな想像にぞくりと背を震わせながらも、左腕の痛みに冷静さを取り戻し、着地するとすぐに方向を転換し、一気に駈け出した。


「サラ!具現化とかなんとかで、あの熊みたいなの何とかできないか!?」


『無理じゃ!まだ我がヒカルの魔力に馴染んでおらぬ!このままでの具現化はそなたへの負担が計り知れぬ!』


 精霊と契約する者にとって大事なことは、精霊が見えることは勿論のこと、『慣らし』と呼ばれる己の魔力を契約した精霊に馴染ませる作業であると言われている。この『慣らし』が上手くいっていないと、せっかく精霊を具現化してもヘナチョコな力しか行使できなかったり、精霊が契約者の魔力を摂受する際に加減が分からず、根こそぎ持って行ってしまい、最悪、死に至る場合もあるのだ。

 サラにとっても、ヒカルの優先順位は高くなりつつあるので、できればそのような危険な賭けは避けたかった。


「ぐ…それじゃあ、仕方がないか。頑張って逃げてみるよ!でも!本当に危なくなった時は頼む!!」


『…気は進まぬが』


 グリズルにとってヒカルはただの捕食対象に他ならない。そんな捕食対象が、攻撃をかわしたばかりか、またしても逃走をくわだてていることにグリズルは酷く怒り、もともと縄張りを荒されて腹に据えかねていたこともあり、その怒りは頂点に達した。

 そうして発せられた咆哮は、さきほどよりもさらに大きく、グリズルの怒りが半端なものではないことを周囲に示すかのようだった。


 咆哮を聞いたヒカルは、竦みそうになる身体を叱咤し、はいているズボンのポケットから十徳ナイフを取り出すと、折りたたまれていたナイフを展開し、右手で構え、駆けながらグリズルの様子をうかがった。

 グリズルは咆哮を終えると、背中を見せ逃げいているヒカルに狙いを定め、一足飛びで肉薄し、一撃で仕留めようと再びその巨腕と剛爪を振りあげる。

 それを見たヒカルは、ナイフでリュックサックの肩掛け部分を切り落とし、顔の前で腕を交差させると、勢いよく前転した。その直後に振るわれたグリズルの剛爪によって、リュックサックは寸断され、中に詰めていた荷物も残らずバラバラに引裂かせて四散した。

 もちろん、ヒカルにそんなことを確認している余裕はなく、前転した勢いを利用して素早く立ち上がると、一刻も早くこの場を離れるべく、駈け出そうとした。


 そして、そこに響く三度みたびの咆哮。


 二度目のときはある程度予想できていたためなんとかなったが、今回は完全に虚を突かれる形となり、一瞬とはいえ硬直した身体はむき出しになっていた木の根に躓き、あっけなく転倒してしまった。


「ぐ…あっ…」


 吐く息は荒く、流れる血液は熱く滾り、足の筋肉は痙攣を始めている。男だった時よりも軒並み低下している今の筋力や体力では逃げきるのは到底無理だったのかもしれない。だからといって、男だったら逃げ切れたとも思えないけれど。

 余裕があるはずがないのにそんなことを考えているヒカルのもとへ、まるで舌舐めずりをするかのような唸り声を上げ、のしのしと近づいてくるグリズル。


「く…サ、サラ…。頼む…」


 息も絶え絶え、サラに具現化を示唆する。まだ…こんなところで死にたくない!

 多少危険でも、たとえ僅かでも、そこに生き残るための希望があるのなら!


『ぐ、仕方がない!』


 やってみる価値は、大いにある!


『意識をしっかりと持って、多少つらくても辛抱せえよ!ヒカル!』


 瞬間、全身の筋肉が弛緩し、背骨がずるりと引き抜かれるような感覚。己の魔力が精霊に摂受されているのを理解する。

 ヒカルとグリズルの間の空間が歪み、周りの空気が、森が、世界が緊張する。それを、グリズルは己の視覚と研ぎ澄まされた野生の感覚で感じ取り、歩みを止め、訝しんだ。

 歪みが徐々に収束し始めると、歪みの中心から光が漏れ出した。歪みが収束すると漏れ出す光は多くなり、漏れ出す光が大きくなると歪みが収束し、そして、一際大きく煌めいたかと思うと、歪みは収束を終え、そこにはサラがヒカルを庇うように現れた。


「!!!!!!!!!!」


 咆哮。サラはその小さな体躯からは想像もつかないような雄たけびを上げる。

 それは、グリズルの地鳴のような咆哮がまるで児戯であったかのような凄まじいもので、世界を鳴動させた。


「悪いのはそなたの縄張りに知らずとはいえ踏み込んだ我ら。しかし、だからといってヒカルを死なせるわけにはゆかぬ。これ以降、ここには二度と来ないゆえ、今回は全力で見逃してもらうぞ!!」


 サラは大きく息を吸うと、直径がヒカルの身長ほどもある巨大な火球を吐き出した。

 火球はグリズルの手前の地面に着弾すると、大地や周りの木々を爆散させ、その衝撃でグリズルを後方へ大きく吹き飛ばした。

 吹き飛ばされたグリズルは地面を二転三転し、転がった先にあった岩に激突して気絶してしまった。


「ヒカル!大事ないか!?」


 サラはそんなグリズルに目もくれずにヒカルに振り返ると、その無事を確認した。


「あ、ああ、うん。多少身体がだるいだけで、全然心配ないよ。…それにしても、すごい雄たけびと火の玉だったなぁ。精霊ってのはあんなにすごいものなの?」


「あの程度は序の口じゃ。…それよりもあのグリズルが目を覚まさぬうちに早く森を出た方が良いじゃろう」


「ああ、そうだね。追いかけっこは二度とごめんだし、さっさと抜けてしまおう」


 危機は去った。あとは森を抜けて近くの村で休もう。


 と、安堵したのも束の間、ヒカルの横合いの木々がなぎ倒され、先ほどとは別のグリズルが乱入してきた。


「ぬかった…!つがいであったか!」


 番のグリズルは、縄張りを荒されたことはもとより、伴侶を虚仮されたことに怒り狂い、そのバスケットボールほどもある自身の握り拳を何の躊躇いもなく、ヒカルに打ち下ろした。

 ヒカルと番のグリズルとの距離は1mも無く、サラが防御に走るが間に合わない。咄嗟に左手を上げて直撃を防ごうとするが、訪れた衝撃はその程度の防御などまったく意に介さず全身を突きぬけ、左腕の肉を潰し、骨を砕き、守ったはずの肋骨を圧し折り、内臓に損傷を負わせ、肺の空気を絞り取った。それだけに止まらず、ヒカルは数メートルも吹き飛ばされ、その先にあった樹木に背中から強かに打ちつけると、地面に崩れ落ちてぴくりとも動かなくなった。


「ヒカル!大丈夫か!?ヒカル!!」


 全身を襲う激痛でヒカルの瞳孔は開ききり、呼吸をすることもままならず、その耳はサラの声すら拾えない。

 痛みを少しでも緩和させようと、脳内麻薬が大量に分泌されるが、焼け石に水でまるで効果が上がらない。


 そして、激痛に対する最後の防衛手段の使用が身体から提唱され、脳が承認し、


「ヒカル!我の声を聞いておくれ!頼む!答えておくれ!」


 ヒカルの意識は、あっさりと暗闇に落ちた。

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