第4話:サラシと煩悩
どこへ行ってしまったのだろう。
慌てて周囲を見渡すが、木々の葉が触れ合う音や小鳥のさえずりが聞こえるだけで、サラと思しきものは影も形もない。
急激に押し寄せる不安。出会って間もないが、サラはすでにヒカルの中で大きな存在となっている。しばらくはこの世界について学ぼうと、この世界で生きてみようと、前向きに考えることができたのだってサラがいてくれたおかげだ。そんなサラがいなくなってしまったら…
ヒカルはまるで母親とはぐれてしまった幼子のように目に涙を浮かべ、しかし泣くのだけは必死にこらえて、これからどうしようかと考えた。
「…っ」
涙がこぼれないように堪えるだけで精一杯。どうしようかなんて考えても良い案なんてちっとも浮かばす、頭の中では不安がグルグルと渦を巻いている。
「サラぁ…」
誰も知らない世界で、何も知らない場所で、一人ぼっちは寂しすぎる。そんな気持ちから、誰に言うともなく呟いた言葉には、驚くことに明確な返事があった。
『ん?呼んだかの?』
「サ、サラ!?」
期待していなかった呼びかけに対する思わぬ反応に驚きは圧倒的な嬉しさに駆逐され、ヒカルはサラの姿を認めようと辺りを見るが、そこにはサラがいなくなった時と、何ら変わりない光景が広がっているだけだった。
『ヒカル、こっちじゃ』
湧き上がった歓喜が急激にしぼんで行き、再び不安が訪れようとする中で、またしてもヒカルに対するサラの呼びかけがあった。
『そなたの中じゃよ、ヒカル。我は今そなたの中にいる。我の声が直接ヒカルの頭の中に響くであろう?』
「え?えっと、ボクの中ってどういうことだ?」
『契約した精霊というのは、契約者の魔力を摂受して己の身体を具現化し、世界に何らかの影響を与えるのじゃ。
しかし、具現するためには魔力を摂り続けならなくての。そんなことをすればどんな人間であっても魔力がすぐに尽きてしまるから、普段はこうやって姿を消し、契約者の中に宿ることによって魔力の消耗を抑えておるのじゃ。あ、ちなみに今は精神がつながっているゆえ、ヒカルの言葉は口に出さぬとも思うだけで我に通じるから次からはそうするとよい』
『えっと、サラ、聞こえる?こんな感じ?』
『うむ、聞こえるぞ。そのような感じじゃ。先ほどまでのように言葉として発しておれば、周りからは独り言をぶつぶつ言っている危ない輩にしかみえぬからのう!』
こちらの不安や心配はお構いなしという様子で、からからと笑うサラ。それにしても、あらかじめ言っておいてくれてもよかったのに、と、文句の一つくらいは言ってやろうかと思ったが、サラがいない不安で泣きそうになっていたことをからかわれると思い、ここはグッとこらえた。
『…話は変わるがヒカルよ。そなたの中はなんとも心地が良いのう。まるで揺籃のようじゃ』
『そ、そうなんだ』
心地よいと言われて悪い気はしない。逆にうれしくて照れ隠しに頬をかくヒカル。
『うむ。我の声も聞こえるようだし、ヒカルは精霊との相性が良いのかも知れないのう』
精霊との相性か。それもなにか自分が女になっていることと関係があるのかもしれないな。
この世界での精霊の在り方や人々がどう認識しているかや、精霊と契約している人たちなどについて調べていけば何かわかるかもしれない。そうヒカルは心に留めておくことにした。
『よし、サラもちゃんといることだし、そろそろ近くの町か村にでも行こうか。道案内頼むよ?』
『うむ。任せておけ。…まぁ、案内といってもこの広場から麓の村まで突っ切るだけじゃがの』
「よぉーし!」
気合いを入れるために自分の頬を両手で軽くたたき、ヒカルは勢いよく駈け出した。
そして、駈け出してわずか数メートルで胸を両手で押さえ、へなへなと座り込んでしまった。
『ん?どうしたのじゃヒカル。具合でも悪いのか?』
『い、いやそうじゃないよ。…ただ、ちょっと忘れてた』
身体が女性のものになっていたことをすっかり失念していた。
胸は男だったときと違い、大きく前にせり出し、シャツを窮屈そうに押し上げている。この状態で走るとどうなるか。…つまりは擦れてしまうのだ。どこがとか、聞くな。
おまけに擦れた時に伝わってくる、くすぐったさというか何というか変な刺激のせいで妙な気分になってしまう。これでは近くの村に行くのはおろか、森を抜けることさえままならない。
ヒカルは登山用に持ってきていた救急セットから包帯と包帯止めを取り出すと、上着として羽織っていたウインドブレーカーを脱ぎ、長袖のシャツとアンダーウェアをたくしあげ、包帯をサラシ代わりに巻き、ずれたり外れたりしないように包帯止めでしっかりと固定した。
多少きつく巻いたので、胸に圧迫感があるが、これならよほどのことがない限り外れないだろう。
『…それにしても』
なかなか大きい。ヒカルとて元は17歳の男子。このようなものに興味がない訳はなく、包帯をサラシ代わりに巻いていく過程ではその大きさ、形、色艶に、自分のものであるにもかかわらず、ドギマギしてしまった。
これで自分についてなかったらもっとよかったのになぁ…と、ついつい益体もないことを考えてしまうヒカルであった。
『…ヒカルよ。そなた、今何か破廉恥なことを考えていなかったか?』
『え!?そ、そんなことないと思うよ?』
『…はぁ、やれやれ』
精神でつながっているということは、こういう考えもサラには伝わってしまうのかもしれない。そんなことでサラに呆れられたくはないし、自分以外に知られるというのにもちょっと抵抗がある。
精霊との精神の同居は禁欲の修行になるかもなぁと思うと同時に、プライバシーってなんだろうと考えてしまうヒカルであった。
「ん…こんなもんかな」
軽く飛び跳ねたり、上半身をねじったりしてサラシの具合を確かめる。幸いにもずれる心配も擦れる心配もなさそうだ。
しかし、女性はよくこんなものをぶら下げて運動ができるものだ。
学校の体育の授業レベルだったらまだしも、運動部の生徒やそれこそプロとして活躍しているアスリートはどうやっているのだろうか。自分と同じようにサラシやサポーターで固めているのだろうか。だとしたらちょっと親近感が…。自分と同じような光景を想像し、人知れず頬を染めるヒカル。
『何を考えておるか。ヒカル』
呆れ声で突っ込みを入れるサラ。姿を見せていたら、盛大にため息をつかれていたかもしれない。
『あはは、ごめん。それじゃ、そろそろ行こっか』
『うむ』
どれくらいの距離を歩いたのだろうか。額に浮かぶ汗をシャツの袖で拭きながらそう考える。
かなりの距離を歩いた気がするのだが、いかんせん同じような景色がずっと続いているし、地面より盛り上がった木の根や石などに躓いてこけないよう慎重に歩いているので、まったく進んでいないような気もする。
森を抜けるために移動し始めた最初のほうこそピクニック気分で楽しく歩けていたのだが、変わり映えのしない景色は思った以上にストレスになるし、何より歩いている方角があっているのかも不安になってくる。
『ヒカル。そろそろ休憩したらどうじゃ?』
歩き始めて幾度目かの休憩。近くにあった木の根に腰を下ろし、リュックサックから携帯用の食料を取り出して口に放り込む。口いっぱいに広がるほどよい酸味と甘みが疲れた身体に沁み渡り、また歩き出す活力を与えてくれる。ビバ、携帯食料。
飲み込んだあと、水筒のお茶で軽く喉を潤すと、ヒカルはサラにあとどの程度歩けば森を抜けれるのか訪ねた。
『ふむ、そうじゃのう。今が七分目くらいじゃから、このままいけばあと半刻といったところであろう』
おお、七分目。知らずのうちに結構歩いていたようだ。うれしい誤算に頬を緩め、リュックサックをからいいざ歩き出そうとしたとき。
バキリ。
と、後ろでまるで倒木を踏み砕いたかのような音がした。
見ない方がいいと分かっていつつも、振り返ってしまう。
掌に、背中に、先ほどまでとはまた違う汗をかきながらゆっくりと振り返ると、そこには。
『すまぬ、ヒカル。すっかり失念しておった』
ヒカルの身の丈を優に超える熊のような生き物が、牙をむき、重低音の唸り声を響かせながら、しっかりとヒカルを睨みつけていた。




