第3話:異世界とヒカル
「ところでさ、お前ってどんな名前なんだ?」
今更になって目の前の犬の名前を尋ねるヒカル。
「我に決まった名は無い。精霊には名など必要ないからの」
「でも、100年前は名前がどうたらって言ってなかった?」
「ふむ、それか。100年前に我を見ることができた子供がおっての。そやつが我に名をつけ、呼んでおったのよ。まぁ、100年も呼ばれておらぬからとうに忘れたがの」
「そうなんだ。じゃあさ、ボクが名前をつけていいかい?」
「おぉ、ヒカルが我に名をくれると申すか。それはいいのう!」
ヒカルの一言に自らの尾を千切れんばかりに振り、つぶらな瞳を余すとこなく輝かせる目の前の犬。…なんというか、愛らしさ大爆発である。今すぐ抱きしめて、頬擦りしたくなる衝動を懸命に抑えて、名前を考え始めるヒカル。
「そうだな、犬だし、紅毛だし…よし!紅犬なんてどうかな?」
「ふむ。末代まで祟られたいのか?」
尾を振るのをピタリと止め、目がどんどん剣呑なものになっていく目の前の犬に、ヒカルは慌てて謝った。
「ご、ごめん。冗談だってば!冗談!ちゃんと考えるよ」
「そうしてほしいものじゃ」
溜息をつき、呆れた声でそういう目の前の犬に、冷汗まじりの苦笑を浮べるしかなかった。…紅犬だって、結構真面目に考えたつもりだったんだけどなぁ。しかし、そんな理由では目の前の御犬様は許してくれそうもなかった。
「…犬だし、火の精霊らしいし…そうだな」
だったら。
「…サラ。なんて、どうかな?」
サラマンダーからサラ。なんとも捻りのない安直極まりないネーミングである。覚えやすくはあるが。
「サラ…か。ふむ。なかなか雅な名じゃのう。よかろう、気に入った。今から我の名はサラじゃ」
名前を気に入ってくれたことに安堵し、またしても尾を千切れんばかりに振り始めたサラにヒカルは思わず頬を緩めた。
「よし。じゃあ、改めてよろしくな。サラ。…あ、そうだ。一応聞いておくけどさ。サラは元の世界へ帰る方法…えぇと、つまりボクのいた世界に行く方法ってしってる?」
「しらぬ」
即答。もう少し、せめて考えるポーズだけでもしてくれてもよかったのに。一応、ないだろうなと思いながら聞いてみたのだが、ここまでーまさしく刹那や瞬間といった感じでー否定されるとさすがに悲しいものがある。思わず脱力し、腰砕けになってうなだれそうになるのを懸命にこらえ、泣きそうになる自分を叱咤する。
そうして持ち直したあと、ヒカルは今の状況について自分なりに考えてみることにした。
…分からないことが多すぎる。
バス停へ行くために通ったトンネルはもちろんのこと、この花畑はどういった場所なのか、サラが言っていたウィスウィンダムという国はどういったところなのか、精霊とはいったいなんなのか、300年前に落ちてきたという異世界人は帰ることができたのか、元の世界へ帰る方法は存在するのか、等々考えればきりがない。分らないことだらけだ。
本当にそうなのだろうか?本当に何も分からないのだろうか?
なにか、そう、なにか大切なことを見落としている気がする。今、この状況の中で無意識に理解していることがあるはずなのだ。でなければ、ここまで訝しむはずがない。…あぁ、そうか。1つ、1つだけ、そう、たった1つだけではあるが、分かっていることがある。確信していることがあるではないか。それは
自分の身体が女になって、異世界にいること。
サラに言えば、何をあたりまえのことを、と言われるかもしれないが、この世界に来たことと、自分が女になってことには何か関係がある。もっと言えば、この世界と女の自分との間に何か密接な関係があるのだ。
それが、ヒカルにどのような影響を与えるか、今は知ることはできないが、少なくとも偶然でこの世界に来たのではない。理屈ではなく、第六感的な何かがヒカルにそう確信させたのであった。
「…いずれにせよ情報が少なすぎる、か」
焦っても仕方がない。分からないことは今は放っておこう。それよりも大事なことはこの世界を知ることだ。当面はこちらで生活することになりそうだし、通貨や物の単位や使われている言語や文字など、学ばなければならないことは山ほどある。
やるべきことの多さに少々辟易してしましそうだが、不思議と不安や恐怖といったマイナスな感情は湧いてこない。…サラのおかげだろうか。
出会って、泣きついて、励まされて、契約して、名前をつけて、と時間にしてみれば1時間にも満たないが、あの愛くるしい紅毛の犬にはずいぶん助けられた。サラがいなければ、今頃は途方に暮れてずっと泣いていただろう。
「…サラ、ありがとうな」
「ふふ。なんじゃいきなり」
「言っておこうと思ってさ」
「そうか。では、どういたしまして、と言っておこうかの。…それで、ヒカルよ」
「ん?」
「多少は考えが纏まったかの?」
「うん。ごめんね、いきなり黙りこくって考え事に集中しちゃってさ」
照れ隠しに頬をかくヒカル。
「よいよい。気にするでない。…さて、それではそろそろここを出るとしようかの」
「出る?」
そういってまわりを見渡すヒカル。見えるのは相変わらず一面の花畑と吸い込まれそうに青々として空だけである。別段屋内にいるような気配はないが。
「ここはな、こちらとそちらが繋がった時にできるなごりじゃ」
「なごり?」
「うむ。ヒカルが落ちてきたところを中心に広がっている部屋みたいなものでの、精霊や魔法使いなら自由に出入りできるのじゃ。放っておいてもそのうち消えるが、それを待ってやる義理もあるまい。そしてここを出れば、はれてウィスウィンダムのウルガ領の北はずれにある森というわけじゃ」
「えっと、そのウィスウィンダムって…」
「それは道すがら話してやると言うたであろう。ここを出るのが先じゃ」
サラがそう言い終わらないうちに、サラの周りの空気がまるで大量の静電気を溜め込んだかのようにピリピリと緊張し始めた。やがてそれはサラの周りだけには押しとどまらず、ヒカルも一緒に包み込むように広がっていった。
「しっかり立っておるのじゃぞ?」
「え?」
なぜ?と、聞こうとした矢先に風が吹き始める。はじめは弱く、肌をやさしくなでるようなそよ風であったが、徐々に強さを増して行き、ついには目を開けていられないほどの強風になった。たまらず、両手で顔を覆い身をかがめると、今度は逆に風は徐々に終息して行き、はじめとおなじようなそよ風に変わった後にすっかり止んでしまった。
恐る恐る目を開けると、そこに広がる景色は、先ほどまでの花畑とは一変して、まわりを木々に覆われた広場のような場所であった。
これが先ほどサラが言っていた部屋とやらを出た場所なのだろうか。そう聞こうと思いサラがいるはずの場所を目を移してヒカルは目を見開いた。
サラは、あのちまっこくて愛らしい紅毛の犬は
「なんで?」
忽然と姿を消していた。




