第1話:トンネルの向こう側
トンネルの向こうは不思議な国でした。
そんなことがあるのは、漫画やゲームやアニメだけ。実際は、向こうにはこちら側と同じ道路が走っているだけであるし、トンネル自体が山腹を貫く通路であるから劇的な景色の変化もあまりないはずだ。そう思っていた先程までの自分は間違っていない。いや、間違っていなかったはずだ。なのに、現実は「お前は間違っている」と叩きつけるように一面の花畑が広がっている。
今日は寝起きが非常によかった。学校で特に仲の良かった友人たちと山小屋を利用した泊まりがけの登山に出かけるのだ。1週間前からせっせと準備した登山用装備をつめた登山用リュックサックを背負い、珍しく早起きしていた兄に見送られ、集合場所である駅を目指し家を出発したのだった。
そして、トンネルを越えた。駅行きのバスが来るバス停へ行く途中のトンネルを、越えてしまった。
「…ここ、日本?」
一面の花畑。見渡す限りの花畑。
「…こんな花、見たことない…」
ただし、その花は日本はおろか、自分がいた世界には存在しない花。
「…と、とりあえず引き返そう!うん、そうしよう!これは、多分白昼夢ってやつだ!」
まわりの光景が、一面の花畑が信じられないのか、ヒカルは努めて大きく明るい声で自分に言い聞かせ、もと来た道を戻ろうと後ろを振り返り、そうして振り返った先の景色を見て愕然とした。
「は?…え…え?」
声はかすれ、本人の恐怖や不安を表すように震えて頼りなかった。おまけに掌に、背中にじっとりと汗をかき、運動をしたわけでもないのに心臓はバクバクと大きな音を立て、息は荒く、膝はかすかに震えていた。
「トンネルが…無い?」
彼が不安と恐怖を感じて体調に変調をきたしたのはほかでもない、自分がこの花畑に来るためにー実際はバス停に行くためだがー通ってきたトンネルが跡形もなく消え去っていたのだ。消え去ったトンネルのあとには、辺りと同じ花が所狭しと咲いているだけだった。
「あ…えっと…どうしよう…どうしたら……っ!?」
そうして混乱した頭を落ちつけようと俯いたところでまたしても驚愕した。服が自分の胸のところで不自然に盛り上がっている。盛り上がっているのだ。−そう、まるで女性の象徴であるように。
なにか、胸に詰め物でもしてたっけ?と、現実逃避気味に考えながら、自分の胸に確かに感じるTシャツの感触をーそれも男であったときとは比べ物にならないほどの密着感ー頭から追い出そうとする。しかし、胸元へやった手が感じたふにっとした感触が思考を現実へと引き戻し、同時にこの胸にあるものが本物である、つまり自分の体がーおそらくではあるがー女になっていることをヒカルに認識させた。
「うわぁ…やわらかいなぁ…本物ってさわったことないけどこんな感じなのかなぁ…」
ふにふに、ふにふにと己の胸をもみ続けるヒカル。はたから見たらただのナルシストか変態か痴女であるが、本人はいたって真面目である。トンネルの向こうが一面の花畑であったり、そのトンネルが忽然と姿を消したりと、こと理解不可能なことが立て続けに起きているため、自分の身体という極めて身近な問題に飛びつき、一時頭を冷やそうとしている…のかもしれない。
しかし、そうやった頭の休息という名の時間稼ぎや現実逃避や、若干の己の欲求を満たすための行動は唐突に終わりを迎えた。ヒカルに後ろから声がかけられたのだ。
「おぉ〜しばらく見ぬ間に最近の娘はずいぶん破廉恥になったものだのぉ。…白昼堂々と己の胸をもみしだくと何事じゃ」
かけられた声は美しく、その声色はまるで小川のせせらぎのように透き通って煌めいていた。
「だ、だれだ!」
その声の美しさといきなり呼びかけられたことに驚き振り向いた。その顔は先ほどの自分の行動が見られていたという羞恥に若干の朱がさしていたが、声の主の姿を確認したところで目を見開き、口をあんぐりと開けて固まってしまった。なんせその声が発せられたと思しき場所には。
「うむ。破廉恥な娘ではあるが、なかなかに綺麗な面をしておるの。どれ、我が直々に契約を結んでやるとしようぞ。よろこべ破廉恥娘!」
一匹の、紅毛のちまっこい犬が、ちょこなんとおすわりをしていたのだ。




