千歳橋
札幌〜新千歳空港間、高速を使わずに千歳市内を抜ける車は概ね国道36号線を分岐して中央大通(道道258号線)を走るし、商店街は千歳駅から中央大通を含めサブロクの五百メートルほど手前で途絶えるので、千歳市内の国道36号線沿いは現在は非常にのんびりとした風景でしかない。
のんびりとしたと言えばまだ聞こえはいいが、つまりは殺風景であるサブロク沿いに私の住んだ家があって、隣りに蕎麦の「長寿庵」、向かいには僅か十メートル程の錦小路が、そしてそれらは ( これが私には非常に奇妙に思えるのだけど ) 現在も変わらずにそこにある。驚くべきことに私が住んでいた家さえ ( 建て替えこそされているものの )「朝日新聞梅園専売所」という屋号そのままに残っていて、そこからサブロクを百メートル程空港方向へ行くと、千歳川が交差して流れ、千歳橋というこの町では一番大きな、三十メートル足らずの橋が架かっている。
この「千歳橋」を舞台とした夢の情景を覚えている。おそらく小学校低学年の頃に見たもので、所謂「母殺しの夢」の類いと言える。
母は車椅子に座り、私がそのハンドルを握っている。姉が一緒にいるけれど、何も話そうとしない。私も、母もまた同様に何を話すでもない。橋の欄干から私たちは川が流れるのを見ている。いつもの穏やかな川だ。どれくらいの時間が過ぎたのか、日が暮れている。姉は私の右側にいて、母は私の左側に五メートル位離れていた。ふと車椅子が動いたのを見て、次に欄干の途切れているのが目に入った。車椅子が母を乗せたままゆっくりと欄干の切れ目に向かう。母はじっと黙ったまま前を見ている。ちょうど車椅子が通り抜けるだけの切れ目から滑るように落ちるその様を、私も黙って見ていた。そしてすぐに欄干の隙間に身を乗り出した。母を乗せた車椅子がゆっくりと川に落ちゆく。流れる川は橋の陰をまとい、夜のように暗く深い。
それから私は泣いたのか叫んだのか、姉が何か言葉を発したのか分からない。夢がそれで終わったのかもしれない。夢の中で私は母を助けようとはしなかったが、その夢の恐怖感だけは後年まで残ることとなった。
千歳橋の存在に怯えることはなかった。
父の仕事のせいで、一家はまず札幌へ移り、その一年後に母の実家のある愛知県岡崎市に、そのまた一年後に東京へと引越しをして、先にも書いたようにおそらくその時期に見たもので、夢に見た千歳橋を現実にそこに立って確認することがなかったのである。
両親は晩年を岡崎で過ごしたが、父が入退院を繰り返すようになり、母が惚け、見かねた姉が一緒に住むことになった。二年余り面倒を見ていたが、父が鬼籍に入った後、岡崎のアパートを引き払い母を府中に寄せた。
姉ばかりに面倒を任せている罪ほろぼしの菓子折りを持って、私は月に一、二度顔を見せるだけだ。
母は今年米寿を迎えて尚自分の脚で歩く。言葉こそ出てこないものの、身体は元気な方だろう。
「車椅子もまだいらないね。ね、お母さん」と姉は言う。
「そうね」
「克彦君がね、ケーキ買ってきてくれたよ。一緒に食べようね」
「そうね」
母は穏やかに相槌をうち、「オイシイね」と語りかける姉に「オイシイね」と鸚鵡返しする。
「お母さん、アレ観てみようか。克彦君まだ観てないんだよ」と姉が言って、PCを用意している。
「そうね」と、母が言った。
低い石塀に彫られた「千歳幼稚園」の文字が不規則にぶれて、その小さな門を入っていくと、多勢の子供たちが行進をしている。
運動会の映像だった。徒競走で私はビリっけつだ。姉がおにぎりを頬張っている。母がカメラに笑い掛ける。玉入れをする集団にきっと私がいる。
8ミリのままであればカシャカシャと音がしたかもしれない。画面が切り替わり、家の前が映し出され祖父と私が並んでいる。私は走り出すが、それを追うのはカメラばかりで祖父の姿はない。私は立ち止まって、振り返り様カメラに向かっておどけた「シェー」のポーズをとる。映像が一旦途切れ、白いノイズ画面から徐々にピントが合わせられていくと、千歳橋の欄干を背に腰を屈め両手を広げている母が映し出された。その逆光の手の中に私が飛び込んでいく。