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サラマンドル公爵執務室。
寝不足ながらも、魔力を回復したアクシアは気力で公爵としての執務を行っていた。
アクシアは、領地から上がってきた報告書に目を通していく。
「おかしいわね……綿織物の輸出額が三十パーセントも落ちているわ。スミス、過去数年分の帳簿を持って来なさい」
「すでにここに」
アダム・スミスは、既に準備していた資料をアクシアの執務机へと置いた。執務机はぶ厚い樫の木で作られた机である。零れたインクのシミ、机にある大きな刃物傷。すべてが長い公爵家の歴史を物語っている。アクシアの曾祖父も、祖父も、そして三年前までアクシアの父親が使っていた机でもある。
「やっぱり。温かくなってくる時期だし、前月対比で売上が伸びる時期のはずだわ。それが、輸出額が三十パーセント減? 帝国内での売上は……微増。これは一体、どういうこと? 国別の輸出額はどうなっているの?」
「はい、こちらに」
「さすが、準備がいいわね」
「当然です。いいですか、アクシアお嬢様、私が常々言っているとおり、価格は需要と供給のバランスという神の見えざる手によって動かされているのですよ。それをゆめゆめお忘れなきように」
「あなたのその蘊蓄、聞き飽きたわ。各国は神聖ローマ帝国の輸入品目に対して関税を課すことが禁止されているわ。価格でサラマンドル公爵産の綿織物が負けるはずないわ」
軍事強国という側面を持つ神聖ローマ帝国。周辺国家に対して、神聖ローマ帝国への関税自主権の廃止という不平等条約を強いていた。もちろん、神聖ローマ帝国が各国から輸入する品には高額の関税をかけて、自国産業の保護を大っぴらに行っている。
貿易収支の圧倒的な黒字。それが、神聖ローマ帝国の経済的繁栄の源泉である。
三年前の十字軍遠征の敗北により、貴族の死者が多数にのぼる前までは、皇帝の勅令により、秘密裏に他国の産業を魔法によって破壊するということまでしていたのだ。
「アクシアお嬢様、数字は嘘を付きません。これが国別の輸出金額をまとめた資料でございます」
執務机に置かれた資料をアクシアは眺める。
「ちょっと、五十パーセントも減少しているじゃない!」
輸出額が激減している国は……
フランス王国。神聖ローマ帝国の南西に位置する大国である。
ネーデルラント王国。北西の、いわば神聖ローマ帝国の属国と化した国である。
デンマーク王国。神聖ローマ帝国の北方。ユトランド半島の全域を支配する国である。
「だけど……ポーランド王国、ハンガリー王国、教皇領、ヴェネツィア王国への輸出額は例年並ね」
フランス王国、ネーデルラント王国、デンマーク王国への輸出額が激減し、それが全体の数字に響いているのは明らかであった。三国に対しての輸出が五十パーセントの減少。
明らかに何かが起こっている。
「フランス王国、ネーデルラント王国、デンマーク王国に対しての輸出額減少の原因を究明しなさい。亡命してきたあなたを高待遇で養っているのだから、それくらいは働いてもらうわよ」
アクシアの怒号が飛ぶ。サラマンドル公爵当主として、そこに一切の妥協はない。
家庭教師であったヴォルテールがアクシアに教えたこと。それに反するかもしれないが、現状ではアクシアはサラマンドル公爵であり、公爵領の民を守る義務をアクシアは負っている。
「承りました」
サラマンドル公爵家の食客であるアダム・スミスは言った。
サラマンドル公爵家の伝統のなかには、芸術家、思想家などのパトロンになるということも含まれている。彼等の研究費や衣食住を含めたすべての費用を公爵家が負担するのだ。
もちろん、有能でリターンが見込める者に対してだけであるが。
アダム・スミスもその一人である。
スミスが食客として公爵家に居候する条件は、領地の農林水産業から工業に至るすべての報告書を精査し、まとめること。また、アクシアが運営している孤児院の家庭教師としても働くことが条件である。
だが、それ以外の時間は、スミスは自由に思索に耽ることができる。
「さて、次の案件は……」
「アクシア様、執務中とはいえ、ロールパンを口を咥えながら資料を読むのはお止めくだしさい。公爵家の品位に関わります」
執務室に待機していたウィリスが冷静に言った。
「だって、まだ朝ご飯を食べてないのよ!」
「朝食の時間を寝てお過ごしになったのはアクシア様でございます」
「五月蠅いわね! それよりも紅茶を早く淹れなさいよ」
「ん? 新しい食客の申込……日本の大名? 日本って国名かしら?」
アクシアは資料を読みながら首を傾げる。
「そうらしいのですが。大名は、領邦国家の君主ということだそうです。日本は、世界の端っこにある島国ということらしいのですが、その存在は未確認です」
「要は、ただ飯を狙いに来たってことね。私に判断を請うまでもないじゃない。落としなさい」
サラマンドル公爵家の食客の地位を狙う者は多い。衣食住も、最高のものが与えられる好待遇である。ゆえに、有象無象が公爵家の門を叩くのだ。
アクシアは不機嫌そうにウィリスの淹れた紅茶を飲んだ。口惜しいが、イングランド産の紅茶は旨い。その事実がアクシアの機嫌を急降下させる。
「ですが……履歴書に気になることが書かれていまして」
「これのこと? ヒエイザンを焼き討ち? って、ヒエイザンってなによ?」
「宗教上の相違はありますが、教皇領を焼き払った、と考えていただいて問題ないでしょう」
アクシアは飲んでいた紅茶を噴き出した。
「それ、極悪人じゃん。そんなやばい奴、さっさと追い出して!」
教皇。
いかに軍事的にも経済的にも栄えた神聖ローマ帝国の皇帝であろうと逆らえぬ存在。
それが、教皇である。
教皇によって戴冠の儀を行わなければ、周辺国家から即位したと認められない。
ヒエイザンという異国のことではあるが、教皇領を焼き払う……。その男は、狂っているのか、煉獄に行くことを望んでいるのか、そのどちらかだとしか考えられない。
「ですが……」
「なによ、ウィリス、はっきり言いなさい」
アクシアは、寝不足に加えて、空腹で機嫌が悪かった。
「ナガシノの戦いで、画期的な銃の軍事的利用により勝利と……」
ナガシノ……。それはどこだ? というアクシアの疑問は、画期的な銃の軍事的利用という報告で一瞬にして思考の彼方へと飛んでいった。
「面白い……。私が直々のその人と会うわ。名前は?」
「オダ・ノブナガだそうです」
「ノブナガ……やっぱり聞いたことのない家名ね。だけど良いわ。時間を作りましょう」
日本という国では、最初に名前が、そして後ろに家名が来る。しかし、それをアクシアたちは知る由もない。
よって、ノブナガが家名であると勘違いしているアクシアの間違いを指摘できるものなどもこの場にはいなかった。
アクシアが興味を引いたのは、なによりも、『銃』という兵器。そして、その軍事的利用方法。
神聖ローマ帝国の記録によれば、オスマン帝国が歴史上初めて用いた兵器。
三年前の十字軍遠征……。魔法による屈指の軍事力を誇った神聖ローマ帝国が実質的な大敗、多数の貴族の戦死者を出した戦い。
そこで、オスマン帝国が活用したのが、「銃」である。アクシアの父も、その銃による傷によって命を落とした。
「オダ・ノブナガ……」
魔法の力を持たないはずの人間でさえ、魔法のような殺傷能力を生み出せる「銃」。
アクシアが生きる時代とは……魔法と科学が拮抗し始めた時代なのである。