襲撃者
シズカはすっと腰を浮かせ、爪先に軽く体重をかけた。あと少し、コダチザメの頭が前に出てきたら、後ろに引いている右足を即座に踏みこむ。初手はゆずらない。目がのぞいたら、一瞬で突いてやる。
だが、コダチザメはそれ以上前に出てこなかった。殺気を感じとったか、興味をなくしたか、わからないが、しばらくは鼻先だけ店舗に突っこんでいたものの、やがて静かに離れた。
おそるおそるシャッターから首だけ出し、様子をうかがったが、コダチザメが戻ってくる気配はなかった。黒い魚影はなめらかに動き、地下通路のずっとずっと向こうへ泳ぎつづけ、やがて、闇に溶けて消えた。
小魚の群れが行ったのと同じ方向だ。よほどのことがなければ、すぐに戻ってくることはないだろう。シズカはつめていた息を吐き、膝をついた。
だが、安心するのはまだ早い。コダチザメが戻ってこないうちに、この地下街の探査を終わらせてしまいたかった。
再びレジカウンターの裏に滑りこみ、赤ん坊を抱きあげ、カバーを腹側に装着しなおすと、再び懐中電灯をつける。
店を出たとき、服の襟のあたりをきゅっとつかむ気配がした。懐中電灯で赤ん坊の脇を照らすと、目を覚ましていた赤ん坊の小さな手がシズカの服をしっかりつかんでいた。
シズカは思わず微笑んだ。こんなことで、緊張の糸がほどよくゆるむのを感じた。
渡されていた地図は二枚。地下街までの道筋と、地下街の内部と。
地下街の出入り口はもともといくつかあったが、階段が崩れ落ちたり、塞がってしまったりして、安全な出入り口は、さっき入ってきたところとその反対側の端の二か所しかないと、例の母親から聞いている。
シズカは二枚目の地図をとりだし、現在地と最終目的地の位置関係を確認した。
「物資の隠し場所……は。右手側、一番奥からは一、二、三つめの店舗跡。こっちの入り口からは……」
シズカは地図から目を離し、懐中電灯で先を照らした。光線は最後まで届かず、彼方の闇に吸いこまれて途切れてしまう。
「出るときは、反対側の出口から出たほうが手っ取り早そうね」
いったん、突き当たりまで行ってみたほうがわかりやすそうだ。そう考えて、シズカは注意深く、しかし足早に、地下街の一番奥に向かって歩きはじめた。
ただし、さっきコダチザメに出くわしたことで、一つだけ安心できることがあった。コダチザメは、この地方に現れる生き物たちの力関係の中では上位にいるから、ここがあの個体の縄張りであるなら、半端な力の生き物は、そう出てこないはずだ。
この地方において、人間の天敵になりうる生き物で、コダチザメより大きいのはヤリザメくらいなものだ。だが、自分より大きくて強く、しかも群れをなす生き物が現れる場所など、わざわざコダチザメが縄張りにすることはないだろう。
コダチザメが戻ってくる可能性にさえ気をつければ。シズカはそう思って、足を速めた。
歩きながら、ふと思いついて、シズカは荷袋から一本のペットボトルを取りだした。中を満たす液体は、薄青く光っている。ペットボトルを振ると、液体がさらに明るくなった。
これはアオボシクラゲから抽出し、他の生き物の体液やら植物の汁やら配合実験をくり返し、試行錯誤の末作られた光液だ。サトにいた科学者の生き残りが発明してくれた。
液が充分に光りはじめると、シズカはペットボトルの蓋を開け、一定の距離ごと、床に撒いていった。
少しだけ、ほんの少しだけ、足元が明るくなる。数時間しかもたないが、迷ったときの道しるべや、視界の助けくらいにはなる。
うち捨てられた地下街の暗闇の中で、青い光は目をなごませてもくれた。呼吸がらくになったような気分で、シズカは力強く歩を進めた。
やがて、シズカは、地下街の端にたどりついた。
「右手側、奥から三つ目の店舗……」
懐中電灯で地図の示す方を照らし、シャッターの数を数えながら、ゆっくりともときた道をたどる。
「これか……」
照らしだしたシャッターは、しっかり閉まっている。さっき潜伏した店と違って、壊れている様子はなく、つくりも相当頑丈そうで、右側にはタッチパネルのようなものが取りつけられていた。
さらに近づき、タッチパネルを懐中電灯で照らしだすと、電源ボタンのようなものを見つけた。長棒を脇に立てかけ、祈るような思いで押してみると、パネルが点滅し、点灯した。
「うわあ……この電源、いつまでもったんだろ……」
思わず声を上げる。さっさと決断して、ここへ来て良かった。この認証用パネルが死んでいたら、中の物資は永久に取りだされず、朽ちるままになっていただろうから。
その可能性を考えると、もったいなくて身震いするほどだった。何もかもが足りないこの世界では。
「早く終わらせて、帰ろうね。ちょっとごめんね」
小声で赤ん坊に話しかけながら、その小さな手をそっと握り、抱っこカバーからひき抜く。赤ん坊はいやがる様子もなく、素直に、されるがままに手を伸ばした。
タッチパネルに小さな手が届きかける。そのまま事を進めようとしていたシズカの目の前に、何か細長いものが降ってきた。
懐中電灯が派手な音をたてて床に落ちる。虫が顔面に飛んできたときのように、思わず懐中電灯と赤ん坊を離して、その物体と顔のあいだに手を上げたのが正解だった。掌に食いこんだのは紐のような何かで、手でさえぎっていなければ首が絞まっていた。
シズカが抵抗しているのにもかまわず、背後の襲撃者は紐をぐいぐいと絞めつけてくる。シズカは右手で紐をぐっと握り、わずかな隙間を確保しつつ、ひき抜いた左手でしっかりと赤ん坊を抱きかかえた。
それから、無理やり体をねじる。そいつの胸か腹のあたりに肩をつけ、思いきり足を踏みこんだ。
襲撃者の体を押して走り、すぐ後ろの壁にそいつを背中からたたきつけ、たたきつけても離れず、みぞおちのあたりを肩で圧迫してやった。ぐぅ、と獣のうなり声のような息がもれ、執拗に締めつけていた紐がゆるんだ。
赤ん坊がびっくりして、火がついたように泣きだす。体勢を立てなおしあぐねているそいつから、シズカは距離をとり、さっきのペットボトルをさっと取りだすと、まずは光液をぶちまけてやった。
襲撃者の服が青く光り、暗闇の中でも見失うことはなくなった。長棒と、とり落としていた懐中電灯を拾い、相手の顔のあたりを照らして、シズカは眉をひそめた。
知った顔だった。
「あなた、ヒデとかいう……。これはどういうつもり?」
「どういうつもりも何も、物資をいただこうと思ってついてきただけさ。あんた、敏腕だな。後をつけてるだけで、いつもより安全な遠征ができたよ。普通に同行しても良かったかもな」
やっと立ち上がり、こちらに歩み寄ろうとする。懐中電灯をベルトにひっかけ、シズカは長棒を伸ばして、その肩をガッと突いた。
ヒデがよろけ、くやしそうに顔をゆがめる。シズカのほうは、いきなり背後から首を絞められたときこそ肝が冷えたが、有利な間合いを得て、すぐに落ち着いていた。
「近づかないでくれる? この子が泣きやむの、待って」
「バカかよ。その赤ん坊に用があるんだよ」
「仮にも探査者の端くれなら、ここで泣き声を響かせ続けるのがどんなに危険か、わかるでしょう。さっきもコダチザメがいたの、縄張りみたいだから、すぐに戻ってくるよ」
「黙らせりゃいいじゃねえか、いくらでも手はあるだろ」
不快感をこらえて、シズカはおだやかに説いた。
「もう諦めて、そっとしておいて。どうしても物資がほしいなら、分けてあげるから」
分けてあげるだと……? ヒデがあざ笑う。そうして袖口から取りだしたものに、シズカはあきれて息をついた。
「やめなさいってば。ここで血を流したらコダチザメが来るよ」
ヒデの手に握られたナイフの刃が、アオボシクラゲの光液をうつして青白く光る。ヒデはぎらつく瞳をシズカに向けた。
「コダチザメが来たって、かぎつけるのはおまえと赤ん坊の血だよ!」
そう言って、思いのほか俊敏な動きで、ヒデは間合いを詰めてきた。シズカは赤ん坊をかばっているぶん、動きが鈍っている。すぐにやられることはなくとも、有利な間合いは早くも崩されてしまった。
とにかく刃を受けないこと。そして、絶対に赤ん坊を守りぬくこと。ヒデのナイフを避けながら、シズカは二つの決意をかため、冷静にこの窮地を脱する方法を探りはじめた。
ただその刃を避け、長棒ではじきながら、相手の動きを見きわめているうち、ヒデの身体能力が高いこと、体力も豊富なことはすぐにわかった。
人を相手にした戦いには慣れていないらしいことも。
そもそも、探査者の仕事は戦うことではない。陸に上がった海の生き物から身を守ること、人を守ることが求められはするが、肉食の大型生物に出くわしたときにやるべきことは、基本的に逃げ隠れしかない。迎え撃つのは逃げも隠れもできなかったときの最後の手段であり、戦うことができたとしても、生きのびる可能性がほんの少し高まるにすぎない。
それでもシズカは、たびたびソウジと手合わせしてきた。何もかもが足りなくなった世界では、人でさえ人の敵となりうると予測していたから。
赤ん坊の泣き声とヒデの悪態が反響する空間で、シズカは無言のまま、ひたすら避けつづけて、ヒデがわずかでも疲れてくるのを待った。そして、ヒデが肩で息をした一瞬、シズカは防水ブーツの爪先を蹴り上げた。
シズカの蹴りが、ヒデの右手、ナイフの柄を握る小指のあたりを正確に打った。にぶい音がして、ヒデの表情がゆがみ、ナイフがはね落ちる。
拾おうと一歩前に出たヒデの脇腹を、シズカは力いっぱい長棒で突いた。ヒデがウッと息をつまらせ、バランスを崩す。後方の店の、穴だらけのシャッターに背中からぶちあたり、ずるずると崩れ落ちた。
シズカは足元のナイフを拾いあげて、泣きつづける赤ん坊をあやしながら、ヒデを見おろした。
「もう、いい加減にしよう。こんなの、どっちも得しないよ。早く必要なものを手に入れて、お互いこんな危険なところから出て行くべき」
ヒデは何ごとか毒づいて、残る力をふり絞ってシズカにつかみかかろうとしたが、シズカはすばやく長棒を伸ばし、その額を打った。
額をおさえ、痛そうにうめくヒデに、シズカは苦い口調で話しかけた。
「やっぱりだめだね、少しおとなしくしていてもらうね。あなたがわたしたちを狙いつづけるんじゃ、落ち着いて作業もできないから……」
そうして慎重にヒデに近づいたとき、左目の端に何かがちらついて、シズカはぱっとそちらを見た。
コダチザメが戻ってきた。自分の縄張りの内の、派手な物音と生き物のにおいのするほうへ誘われてきたのだ。